第五章 死んで花実が咲くものか




夜の横浜は綺麗だ。


夜空に浮かぶ月は静かに凪ぐ海に映り、
街の光はまるで星々のように水面を飾る。



時刻は午前二時。


もう既に街を行き交う人々の影はない。
しかし、この横浜は魔都。あの非合法組織ポートマフィアが拠点を置く街だ。夜闇の刻には裏組織の輩が街を彷徨っているのも珍しい事ではない。



故に、銃で武装した男達が或る女の後を尾けている事も又同様。


男達の視線の先には小柄な1人の女。
彼女の髪は水浅葱色。だが、その髪の先は夜闇の中でさえ美しく輝く白銀。歩くたびにサラサラと流れるように靡く髪は細い絹の糸如く輝く。


その女、菊池ルナはまるで昼間の散歩のようにゆっくりと鼻唄を歌い乍ら歩いていた。スキップでもしだしそうな雰囲気に後を尾けている男達は気を抜かれそうになるが、無線機から聞こえてきた「油断するな」と云う声に再び気を引き締めた。


そして、ルナは首に巻かれたマフラーを翻し乍ら角を曲がった。


彼処を曲がると奥は行き止まりの筈、男達は互いに頷き合い無線機へと声を掛ける。


標的ターゲットは袋の鼠。始末する」


男達は銃の安全装置を外し、一斉に角を曲がって奥に進んだ。


そして、ごくりと唾を飲み込み動けなくなる。
それはルナが男達の方を口元に微笑みを浮かべたまま見据えていたからだ。だが、それだけではない。



「呪われた、右眼」



男の内の一人がそう呟いた。



アメジストの左眼とは違う、
血のように赤く染まった右眼。



その人間のものとは思えない瞳はあまりにも恐ろしく、____そして、美しい。




その瞳に捉えられ動けない男達は震える体から脳に走った警告音に乾いた喉を動かされ叫んだ。


「撃て…、撃てェェェ!」


『おいで、イヴ』


銃声の音とルナの声が重なって夜の空気に溶け込み、間も無く消えた。








***





ポートマフィア拠点。


横浜に聳え立つこのビルにそれはある。


長い廊下を歩くのは五大幹部が一人、中原中也。何時ものように黒い服をキッチリと着こなし愛用の黒帽子を被る中也。そんな彼の目の下には昨晩からの隈が残っている。


睡魔が襲い掛かる中也は怠い体を動かしてこのビルの最上階にいるポートマフィアの首領に今朝方仕上げた報告書を提出するため首領の執務室へと向かっていた。


「あー、寝みィ。報告書自体は嫌じゃねぇが、この量ともなりゃ流石にキツイぜ」


徹夜で終わらした報告書。それを手に欠伸が止まらない今日であるが仕事は仕事、彼はキッチリこなす性格である。仕事に抜かりはない。


そして、辿り着いた首領の部屋の前。
だが、開けるか初めは躊躇う。緊張しているからではない。あの光景が広がっているかもしれないからだ。


数秒扉の前に立った儘だった中也は叩音をして返事を待った。だがやはり返事は来ないので仕方なく扉を開ければ視界に入ったのは予想していた光景。



「エリスちゃーん!今日のドレスはこれが佳いと思うなぁ!このフリル付きの赤いドレス絶対似合うよ!うん、これにしよう!凄く可愛いから!」

「嫌よ」


半裸のエリスにドレスを着せようと追いかけ回す森。マフィアの首領の姿は最早其処にはない。唯のロリコン中年だアレは。


だが、もう中也はこの光景に耐性が付いている。故にこんな時は一部始終が終わるのを見届けるのが最適解。そして数分後、本題へと…。


「首領、報告書です」

「あぁ、有り難う中也君。ご苦労様」


森は報告書に簡単に目を通した後、前に立つ中也へと視線を向けた。


「流石中也君だ。これだけの量を一晩でやり終えられるのは君だけだよ。だが、あまり無理しないように。寝不足で倒れたら大変だよ?ルナちゃんも心配する」



森は中也の眼の下にある隈を見たのだろう。心配そうに注意する森に中也は御礼を云って頭を下げる。そして、扉に向かおうとしたところで「そうそう」と森に呼び止められた。


「ルナちゃんが中也君の部屋に行くと先刻云ってたけれど、会わなかったかね?」

「いえ。首領の部屋に行く前に姐さん処に寄ったので入れ違いになったのかと」

「なら、疾く行ってあげなさい。昨晩は中也君に会えなかったと拗ねてたから」

「はい。では、失礼します」


首領の執務室を出てそのまま自分の部屋に向かう中也。「そういえば、昨夜は会ってねェな」と中也は呟き乍ら、辿り着いた部屋の扉を開けた。


中に入りソファに視線をやった中也の視界に映ったのは其処にダラダラと寝転がりながらゲェムを弄るルナ。靴を放り投げ、うつ伏せでゲェムをするルナは此方に振り返り、アメジスト色の両目で中也を見据えた。


そして、数度瞬きしたルナは『あぁー!中也!!』と朝から大きな声で叫ぶ。徹夜明けの頭にガンガンと響くその声に俺は耳を塞いで脳を叩くそれを遮断した。


『どうして部屋にいないのよ!昨晩会えなかったから朝会おうって連絡しといたのに!』


ゲェム機を放り投げて迫ってくるルナを宥めつつ、給湯室で珈琲を淹れる。だが、『聞いてるの?中也!』と後ろからルナは俺の腕を引っ張ってきた。やめろ、珈琲が零れるだろ。


「首領に報告書を届けてただけだ。仕方ねぇだろ」

『仕方なくない!あんなロリコンほっとけばいいのよ!どうせエリス嬢の着替えが終わるまで待ってる羽目になるんだから』


「おいおい仮にも首領だぜ?おら、シュークリームやるから機嫌直せ」


冷蔵庫からそれを取り出しやれば途端にご機嫌になるルナ。チョロい奴だ。これだから変な虫が湧くんじゃねぇか?と数週間前の菓子屋の男を思い出す。胸糞悪りィ。


「昨日の仕事は終えたのか?」

『うん、大した事なかったしね。元々私の仕事じゃなかったんだけど奴等の中にポートマフィアの裏切り者で私の事を知ってる奴もいたらしいから。なら一層全部片付けちゃってって』


再び隣でモグモグとシュークリームを頬張るルナに、そうか、と返事をして用意した珈琲を飲む。眠気覚しにこの苦味はいい。この後も仕事は山程あるからな。


『中也、隈すごいよ?寝てないの?』


シュークリームを食べ終わったルナは身を乗り出して俺の目元を摩った。心配そうに表情でそんな見つめられれば逆に不安になる。首領にも云われたがそんなに酷いのか。


『膝枕してあげよっか?』


だが、その表情から一変して愉しそうにぽんぽん、と自分の膝を叩くルナ。ほれほれ、と急かしてくるルナはよっぽど膝枕をやりたいらしい。終いにゃ、自身のスカートを捲りながら『あ、太腿出した方がいい?』 と太腿を晒しだす。「莫迦か」と捲られたスカートを乱暴に戻して白い太腿を隠した。この疲れた体にそんな事されちゃ我慢が効かなくなるってのに此奴は判ってない。


『えー、膝枕いらないの?』

「いらねぇ。これ飲んだら書類整理だ。寝てる暇なんざねェよ」

『この仕事人め!じゃあ、私が寝ちゃおっと!』

「はぁ?おいっ!ルナ!」


そこは手伝うとかじゃねぇのかよ、と突っ込みを入れたくなったが此奴に手伝わせると碌なことが無いと思い出しやめた。と云っても何故此奴が俺の膝で寝やがる。


「おい、ルナ巫山戯ンなよ手前。仕事の邪魔すんなら手前の部屋に戻りやがれ……、って嘘だろ?本当に寝やがった」


俺の膝に頭を乗せて寝息を立てるルナ。叩き起こしても良いのだが、気持ちよさそうに眠る寝顔が可愛い、なんぞ思ってしまい寝かせてやる事にした。


顔に掛かってしまっている髪を退かしてやり、起こさないように柔らかな頰に触れる。



そう云えば、ルナが俺の前で眠るようになったのは何時からだったか。


ルナの寝顔を眺めていれば、そんな疑問が頭に浮かんだ。


昔のルナは人前じゃ眠る事はしなかった。俺は勿論、首領の前でさえだ。眠りは人が最も油断する時。それを誰にも見せなかったルナが今こうして俺の傍で眠っている。それはルナにとって俺の傍は安心でき、気を抜ける場所であるという事。昔は此奴の寝顔を見たくて仕方なかったのに、今じゃこれが当たり前だからな。まあ、寝顔を見れンのは嬉しい事だ。



だから、暫く寝かせてやろう。




そして、数分後ルナの珍しい色の髪を撫で乍ら俺も気づかぬうちに眠ってしまっていたのであった……。







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