第四章 恋路に在りしは恋敵
___朝。
温かい微睡みの中、目を覚ました。
数度瞬きを繰り返した後、少し気怠い上体をゆっくりと起こして、周りを見る。
此処は中也の部屋だ。
一つ欠伸を零して伸びをすれば、体に掛かっていた掛布団がずり落ちた。
その時、私は自分の体を見てギョッとした。
体中の至る所に付いている赤い痕。それは一つや二つなんて可愛いもんじゃない。首、胸、腹、太腿…。よくもまあこれだけ付けられたもんだ。
私は顔を引きつらせて、隣で眠る中也に視線を向ける。
結局、あの後は朝になるまで中也に抱かれた。
まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱いてくれた中也だけど、体の彼方此方に口付けられた事は記憶に残ってる。まさか、ここまで多いとは思わなかったから吃驚したけど。
私は赤く残る痕を指先でなぞった。
謂わゆる、キスマークと云われるこの痕はまるで中也の独占欲が示されている証ようで嬉しい……なんて、緩む口元は仕方ない。
「何笑ってんだァ?」
『あ、中也。おはよ』
のそり、と起き上がり寝癖のついた頭を掻きながら欠伸を零した中也。
『何でもない。唯、昨日の嫉妬してる中也が可愛かったなぁと思って』
「…るせぇ」
そっぽを向いた中也は照れ隠しなのか。でも、赤く染まった耳は隠せてなくて、またそれも可愛い。
それに触れるとまた怒りそうなので、云わないでおく。
「今日、如何すんだ?」
『パティシエ君とちゃんと話してくる』
その問いに間一髪入れずに答えた私の方に眉を寄せながら中也が視線を向けたのが判った。私も中也の方に向き直りその海のような青い瞳を見据える。
『ちゃんと話せば判ってくれるよ』
にこりと微笑んで中也を安心させるようにそう云えば中也は暫く考える素振りを見せた後、口を開いた。
「なら、俺も行く」
『……は?』
「あの野郎には一発云ってやりてぇ事があるからな」
バチン、と拳を掌で受け止めながら殺気を飛ばす中也。一発云いたいではなく、一発殴りたいの間違いでは?
『いいけど、一般人を殴って警察沙汰はやめてね。面倒くさいから』
ルナはそう云いながら床に落ちている服に手を伸ばしてそれを拾い上げた。破けたワンピースを見て溜息を吐き、それを放って下着だけを身につける。
ふと、背中から視線を感じたルナが振り返れば此方をジッと見つめる中也の姿。
『何?』
「…痣になっちまったな」
中也は伸ばした手でルナの髪をサラリと上げた。首筋に残る噛み跡。それは青紫色に変色しいて痛々しく残っていた。
その痣を指先で優しく摩る中也。そんな中也の表情に後悔と罪悪感の情が混じっているのが見えたルナは自身の首に触れる中也の手に自分の手を重ねた。
『私は普通の人より治りが疾いから、大丈夫だよ』
優しい笑顔に中也は心が軽くなるのを感じたが、それとは違う感情がまたじわじわと心の中に広がっていくのを感じた。
「…体に付けたモンは消えて欲しくねェがな」
ボソッと呟いた中也の言葉。それは矢張り独占欲。自分が刻んだ証が消えて欲しくないと思うのは男としては当然の事なのだから。
そんな中也の言葉の意に気付いたルナは嬉しそうに頰を染め___、
『消えたら又付けてよ、中也』
そう云って笑った。
***
何でこうなった……?
ルナは右、左と視線を動かしてそんな事を思いながら溜息を吐いた。
「いい加減諦めろや。執拗い男は嫌われるぜ?」
「僕は本気です。簡単に諦めるなんて出来ない」
「だァから、此奴は俺の女だって云ってンだろ!」
「それは諦める理由になりません」
「なるわ!決定的のな!」
何だこの修羅場は……。
私を挟んで云い争う中也とパティシエ君。殺伐とした雰囲気漂うこの場所からもう帰りたいと思ってしまうのは仕方ない事だろう。
店に着いて直ぐにパティシエ君の気持ちには応えられないと伝える筈だったのに、私がそれを云うより先に中也が「ちょっと面貸せや」と
そして、今現在こんな状況。話が全くもって進まない。
「チッ。おいルナ!手前からも云ってやれ!手前にゃ興味ないってな!」
『急に私に振られても』
「それなら僕とルナちゃんだけで話させて下さい」
「巫山戯んな!手前と二人っきりにさせてたまるか!」
「真剣に話したいんです」
「はっ、いきなりキスしようとしてた野郎がよく云うぜ」
『はぁ』
なんか私がここにいるの莫迦莫迦しく思えてきた。それにしても、よくもまあこんだけ怖い顔した中也に対して云い返せるなパティシエ君。大したもんだ。普通の人なら血相変えて逃げていくのに。
「僕はルナちゃんを幸せにしてみせる」
「手前とルナじゃ住む世界が違えンだよ!」
中也のその言葉でパティシエ君は口を噤んだ。中也もハッとして口を閉じた。恐らく、今の言葉は勢いで云ってしまった事だ。
でも、中也の言葉は正論だ。私達と彼じゃ住む世界が違いすぎる。彼は知らない。私の手がどれだけ血に染まっているのか。
重い空気が流れる時間は長く感じるものだ。しかし、こんな状況にもに救いの手があるのは有難い。
私達の近くまで来た足音が止まったのを聞いた全員がそちらに視線を向ける。そこに現れたのは買い物袋を手にしたおばちゃんことお店の店長。にこにこと人当たりの良さそうな笑顔のおばちゃんは「あらあら」と。
「あたしゃ、お邪魔だったかしら?」
『は、はは』
果たして救世主だったかは定かではないが。まあ、ここは取り敢えず救いの手に縋ろうじゃないか。
『おばちゃん、お店でシュークリーム食べていい?』
「えぇえぇ、勿論いいわよ」
「おい待てルナ!」
『すぐ戻るから』
ひらひらと後ろ手で手を振って私は中也とパティシエ君をその場に残して、おばちゃんと店に入った。
『はあぁ』
中也とパティシエ君二人残してきちゃったけれど、大丈夫かな?中也、殴ってなきゃいいけど。
「ルナちゃんは可愛いからモテモテよねぇ。二人のイケメンに取り合いされちゃって羨ましいわ〜」
そんな事を云いながらシュークリームを出してくれたおばちゃん。手を頰に当てて「素敵ねぇ」なんて惚けている。
出されたシュークリームを食べる私に御構い無しにおばちゃんは「最近ね」と話を続ける。
「あの子、楽しそうにシュークリームを作っていたのよ。元々お菓子作りが好きな子だけれど最近は特に。屹度、ルナちゃんに喜んで欲しかったのよ。いいわね、好きな子の為に一生懸命になれるなんて」
『……。』
おばちゃんの云うあの子とはパティシエ君の事なのだろう。おばちゃんは「あの子は夢に向かって一生懸命で。本当にいい子だよ」と優しく微笑む。確かにその通りだと思う。彼を見ていれば判る。でも、___。
『うん。それでも、私には中也だけだから』
「ふふ。そうかい、そうかい。なら聞かせておくれ、彼の好きな所を」
『長くなるけど、いい?』
私がにこっと笑ってそう云えばおばちゃんも笑って椅子に腰かけた。