第三章 死を奏でる旋律の館
樋口は視界に映ったものと鼻を刺激した酷い臭いに胃の中のものが逆流する嘔吐感に襲われた。
叫び出したい筈の喉は無理に枷が付けられたように声が出せない。口元を手で押さえるだけが精一杯の動作だ。
顔を青くして声を失っている樋口の前でルナは部屋の中に広がっている光景を無表情な顔で見据える。
低い天井から吊るされた人間の死体。
それは一つや二つではない。
頭が下になって宙吊りになっている死体達からは血が滴り落ちて床を真っ赤に染めている。無惨な死体から発せられる鼻をもぐような腐臭。血の臭いとその腐臭がこの部屋の異常さを物語っていた。
ルナは中へと足踏み入れ一つ一つ死体に近づき死因を確認していく。
或る死体は無理矢理抉り取られたように
他にも様々な方法で殺されたとみられる死体が幾つもあった。死因がまとまっていないのに、どうしてこの部屋に死体が集められているのか。
ルナはふと足元に転がっていた物を拾い上げる。血に濡れた黒のグラサン。それが落ちていた上には恐怖の表情のまま死んでいる黒服の男。他にも同じ服を着た男達が死んでいる。
『遅かった』
彼等はポートマフィアの構成員だ。数日前、ルナ達同様この館の調査に来た男達。行方不明になったと聞かされていたから生きている確率は少ないとは思っていたが……。この表情、残酷な死に方をしたのだろう。
一体この人達は何に殺されたと云うのか。
この館は判らない事ばかりだ。
ルナはもう一度部屋の中を見渡した後、扉の前で佇んでいる樋口に視線を向ける。
真っ青で今にも吐いてしまいそうな顔。これ以上彼女を此処にいさせない方がいいだろう。
ルナは樋口の肩を軽く叩き、行くよと声を掛ける。すると、今迄放心状態だった樋口がハッと我に返り、ルナに手を引かれるままその部屋から離れた。
『樋口ちゃん、大丈夫?』
「うっ……は、い」
片手で口元を押さえながら弱々しく頷く樋口を横目にルナはもう一度先程の部屋を振り返る。
半分程開けられた扉の隙間。
そこから恐怖に染まった死体の瞳が此方を覗いているに見えたのは気のせいか否か。
**
あの部屋から離れ、再び廊下を歩くこと数分。
ルナはチラリと後ろを振り返り、樋口の様子を伺う。まだ顔が真っ青だ。
まあ、無理もないだろう。けれど、あの死体達は見なかった事にすればいい、とは云えない。恐らく、私達もこの館に留まり続ければいずれあの死体達のようになってしまうかもしれないのだから。
『……ん?』
その時、ルナは微か感じた音に耳を傾ける。ルナの視線の先は床。足元に意識を集中させればそこは微かに振動していた。
ルナは床から目を離さぬまま懐から短刀を取り出して構えた。
戦闘態勢に入ったルナに気づいた樋口も同じように床に視線を向けた___その時。
ガシャァァン
轟音と共に崩れた床。それはルナの数米前だった為巻き込まれずには済んだのだが、崩れたことで舞い上がった砂埃が視界を遮る。
「ケホッ、ケホッ」
「チッ、案外固かったなこの天井」
咳き込む声と苛立ちを含んだ声。
ルナと樋口はその声を聞いて二人揃って目を丸くした。
『…中也』
「芥川、先輩」
同時に名を呼んだ女二人に今度は床から急に現れた男二人が目を丸くする番だった。
数秒お互いを無言で見つめていたルナと中也。
「無事だったか」
先に言葉を発したのは中也。安心した様な声でそう云った中也にルナは『中也も』と笑ってみせた。
「何か見つけたか?」
『うん。奥の部屋に死体が集められてた。どうやら相当な趣味をお持ちな方のようねありゃ』
「早いとこ片付けねェとな。うかうかしてっと俺達まで奴の娯楽に巻き込まれちまう」
趣味?……奴?娯楽?
上司二人の会話から出てくる単語に首を傾げる樋口。状況を全く掴めていない樋口は「あの、何の話ですか?」と小声で二人に問いかけた。
「気付いてねぇのか?見られてンぜ。この館に入ってからずっとな」
中也がそう云い乍ら天井を睨み上げる。その視線の先には小さな監視カメラ。レンズがこちらに向けられていて、怪しく光った。
『あの監視カメラで私達を見ている人間がいる。そして、
「で、では!突然部屋が変わったりしたのは?」
「恐らく、
「だろうな。まぁ、異能の詳細までは判らねぇが」
三人の話を聞いて樋口は少し安心した。それは今迄の不可解な現象が生きた人間の仕業だと分かったからだ。
樋口は胸に手を当ててホッと息を吐く。そして、肩の力を抜いて気を緩めた。
『合流出来たことだし。さっさと犯人を見つけ……』
ルナは振り返って目を見開いた。安心した様な表情で佇む樋口。そんな彼女の横にある壁から幾多もの青白い手が伸びて彼女に向かっていたからだ。
ルナはその手が樋口に届く前に動いて、彼女を突き飛ばす。
後ろに倒れた樋口は床に打ち付けた痛みに一瞬息を詰まらせるが、視界の端に入った光景に絶句する。
十を超える青白い手がルナの体を壁の中へと引き摺り込んでいた。
振り解こうと力を籠めるルナだがルナの力を上回る物凄い力で引き摺り込もうと絡みつく青白い腕。
体が呑み込まれる。
そう思った瞬間___。
「ルナ!」
体に絡みついた幾多もの青白い手の中に、見慣れた黒手袋を嵌めた手がルナの体を包み込んだ。
冷たい青白い手とは違う、温かい手。ルナがその温もりを感じた瞬間に体は壁の中へと引き摺り込まれていった。
**
「ルナさん……中也さん…」
顔を青褪め乍ら震える声を発する私はその場から動くことが出来なかった。自分を庇ってくれたであろうルナさん。そして、青白い手によって壁の中へと引き摺り込まれていくルナさんに直様駆け寄ったのは中也さんだった。
私は一番近くに居たのに何も出来ずに見ていただけ。そして、今も足に力は入らなくて立つ事もままならない。
ルナさんと中也さんが壁の中へと消えてしまったと云うのに。
「樋口。何を座り込んでいる、立て」
そう云って私の腕を引っ張り上げたのは芥川先輩だった。私はされるが儘に立たされて先輩を見上げる。先輩はいつもと変わらない表情で壁を見据えた後、外套を翻して歩き出した。
「せ、先輩……。ルナさんと、中也さんが。
……私のせいで」
私を庇ったから、ルナさんは。
否、抑も私が一緒に来なければ……。
拳を握りしめてその場に佇む樋口。そんな彼女に視線だけを向けた芥川は、一度歩みを止めた。
「あのお二人はそう簡単には殺られぬ。僕達は一刻も疾く敵を見つけ、打つ。樋口、貴様もポートマフィアの一員ならば、善処せよ。後悔をしている暇はないぞ」
いつもと変わらない声だったけれど、いつもと変わらないからこそ、その声が後悔の渦に呑まれそうだった樋口の心を掬い上げてくれた。
樋口はグッと拳を握りしめ顔を上げた。そして、歩き出した芥川の背中に「はい!芥川先輩!」と返事を返した。