第三章 死を奏でる旋律の館



ルナと樋口は無言の儘閉まった扉を見詰めていた。樋口が首を壊れた機械の様にルナに向けて、乾いた唇で言葉を発する。


「あ、の……閉まってしまいましたが…」

『うん、そうだね』


淡々とした返事をしたルナは扉に近づいてそれを開けてしまった。樋口は恐る恐るルナの背後に駆け寄るが、扉の外を見て目を見開いた。


「廊下が、変わってる?」


樋口が呟いた言葉通り先程彼女達がいた廊下とは異なっていた。それに中也と芥川の姿も何処にもない。


『廊下というよりこの部屋が移動したのかも』

「部屋が移動!?」

『そう。敵が私達を分けされる為にしたのかもれない。兎に角行こう、樋口ちゃん』

「ど、何処へですか?」


迷いなく廊下へと出て進み出すルナの背後について必死に着いて行く樋口は前を歩くルナにそう問う。


『中也達のとこ。出来るだけ早く合流した方がいい。敵が何か仕掛けてくる気なら、私達が分裂している今の間だろうからね』


冷静な判断をしているルナに樋口は正直驚いた。あまりルナとは任務を共にした事はなく、噂でしか彼女の功績を知り得ない。普段のルナはいつもニコニコと楽しそうにして、中也の部屋でだらだらとしている姿しか樋口は見ていなかったからだ。


それに、ルナの云う“敵”とは何のことなのだろうか。樋口が疑問を頭に浮かべ、ふと上を見上げた。その時___。


「きゃぁぁ!!」


急に叫び出して床に尻餅をついた樋口。ルナが何だ?と背後を振り返って、樋口が腰を抜かしている原因を探る。


『どした?樋口ちゃん』

「あ、あ、アレ、アレッ!」


声と手を震わしながら上を指差す樋口。彼女の指が指す方向を辿ってルナも上を見上げた。


天井の至る処に付いている赤い手形。
血のように赤いそれは気味が悪い。


ルナは無言でそれを見据えた後、樋口の手を掴んで起こした。そして、『行くよ』 と一言だけ云って再び進み出す。


そんなルナを見てヨロヨロと立ち上がった樋口の頭に先程から頭に引っかかっていた疑問がはっきりと浮かんだ。そして、まだ震える唇をゆっくりと開く。


「あの、ルナさん」

『何?』

「ルナさんは、怖くないのですか?」


そう問うた樋口。彼女はこう云った謂わゆる怪奇現象というは苦手だ。仕事でなければ今すぐにでも逃げ出したい気持ちを無理矢理奮い立たせて此処に立っている。


だが、前を歩くルナは如何だろうか。震えや恐れなど微塵も感じない。いつもの呑気さは無いものの、冷静に行動している。あの天井の不気味な手形さえ、まるで壁の汚れを見るように視線を向けただけ。声もなく、表情の変化も見られない。



樋口はそこで自分の質問にハッとした。自分は何を莫迦げた質問をしているのだろうか。幽霊やお化けの類が怖いか、などと訊くなどルナに失礼過ぎる。彼女は闇に生き、闇を進む者。そんなものが怖いわけない。こんな質問をするだなんて自分が怖がっていると晒している様なもの。


樋口はその問いを投げかけた事を後悔した。


………軽蔑される。


そう思った。


『…怖い?何が?』


しかし、樋口の瞳に映ったのは軽蔑したルナの顔ではなく、不思議そうに首を傾げるルナ。例えるなら、その顔は幼い子供が知らない言葉を聞いた時のような表情。


「え、その…幽霊とかお化けとか……」

『それって普通は怖がるものなの?』

「い、いえ……人それぞれだとは思いますが」

『ふーん。ああいうものが普通じゃ怖いと感じるんだ。私も感じてるのかなぁ』


うーむ、と腕を組んむルナ。そんなルナを見て樋口はルナに違和感を覚える。何かは分からないが、ルナのその表情から云い様もない何かを感じた。否、感じないというべきか。


『ま、兎に角進もう。樋口ちゃんが云う怖いものが出てきちゃうかもしれないしね』


ケラケラと笑いながら足を進めたルナに樋口はこれは莫迦にされているのか?と落ち込みながらルナの後に続く。


二人が歩いていく廊下を幾多もの洋燈が不気味な淡い光で照らしていた。



**



長い廊下を歩いて数分は経っただろうか。あれからピアノの音は響いていない。静けさだけが広がっている。


今やここが何階なのかも分からない。他の階に続く階段は見つからないし、特別目立った部屋もなかった。


樋口は歩きながら後ろを振り返る。しかし、そこには先刻通ってきた廊下が長く続いているだけ。浅く息を吐き出して前に向き直った樋口だが、前を歩くルナに危うくぶつかりそうになった。


「ルナさん、どうしたのですか?」


足を止めて此方には視線を向けずに奥をジッと見据えるルナに樋口は首を傾げたがルナの次の言葉に息を飲み込んだ。


『血の臭いがする。それも物凄い量の』


樋口も臭いを拾おうと鼻から息を吸ったが、特に何も感じられない。感じるのは先程から埃っぽい古びた木の匂いだけ。


『ここから先、角を曲がった奥から臭う。血の臭いに混じって異臭も酷い。恐らくは……』


ルナはそこで言葉を止めて樋口に振り返った。


『私は様子を見てくるけど、樋口ちゃんはどうする?ここで私達が離れる事は得策じゃない事は確か。だけど、忠告はしておく。この先にあるもの…、樋口ちゃんは見ない方がいいと思う』


ルナはこの先にあるものが何かを臭いとそこから感じる気配で判断できていた。だからこそ、樋口に問うた。


樋口とてマフィアの一員。だが、ルナはマフィア内で“樋口はマフィアには向かない性格だ”と云われていることを耳にしていた。そして、そう問うた事はルナなりの気遣いなのかもしれない。


「い、行きます。ルナさんの云う通りここで別々になるのは得策じゃありませんし…。私は、大丈夫です」


拳を握りしめてそう云った樋口。彼女の決意を決めた瞳を見て、ルナはふっと微笑む。そして、再び歩き出した。


樋口もルナの側を離れぬ様に後をついて行く。廊下の角を曲がり、ずっと奥に見えた一つの扉。その扉に向かって足を進める。


そして、近づいて行く度に樋口の鼻を掠めた臭い。樋口は背中に汗が伝うのを感じた。ルナが云っていた通り、夥しい血の臭い。


扉の前に来たルナはそのドアノブに手を掛けた。そして、静かな声で呟く。


『開けるよ』


キィィ、と音を立てて開いた扉の先には___。



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