第十八章 過去と未来の交錯点
此処はいつもの場所ではない。
“何か”がいる暗い空間にも切り替わらない。
誰かがいる。誰かは判らない。
その誰かは白い服ではない。
いつもみたいに痛みを与えない。
苦しさを与えない。
与えられるのは、優しい声と、温もり。
——————————————。
「ルナ、もう寝るか?」
中也はソファに座っていたルナの顔を覗き込んで問う。朝起きてから夜までルナはずっと同じ状態だった。飲まず食わずで空腹であるはずなのに水すら口にしようとしなかった為、森に数回点滴を打って貰い今日1日を過ごした。
中也はルナを抱き上げて寝台に向かう。清潔なシーツの上にルナを横たえて、その隣に自身も寝転んだ。ふと気付くと長い前髪がルナの目にかかっていたから、そっとそれを横に流してやる。その際指先が頬に触れ、ルナの体温があまりにも冷たい事に気付いた。中也はルナを引き寄せてその腕に収める。少しでも温まるように。
「なぁ、ルナ。俺はお前がどんな経験をしてきたのか知らねぇ」
屹度過去のルナは心がない方が救われる場所にいたのだろう。ルナが何も話さず、何も見ず、何も感じようとしないのはこの世界で生きる事を諦めているからだ。一点の光もないオッドアイの瞳に映るこの世界はルナにとって無意味なもの。
——————無意味にしたのは誰だ?
中也は歯を食いしばる。
ルナをこんなふうにした奴を絶対に赦さない。
悲しい時、ルナは泣く。
嬉しい時、ルナは笑う。
——————俺に大好きと想いを伝えてくれる。
ルナには沢山の感情があるのに、それを表に出す事ができない過去はどれ程暗く残酷で孤独だったことか。その暗闇を想像する事は出来ないが、今は少しでも闇を払ってあげたい。
「安心しろ。俺が守ってやる。お前は一人じゃねぇから」
中也は腕の中にいるルナを優しく、強く抱きしめた。
『………。』
———————とても温かい。
ルナはそっと瞳を閉じた。
***
意識の浮上。
閉じていた目を開けた。やけにぼーっとする頭でルナは昨日の事を思い出す。しかし、頭に靄がかかったかのように昨日の記憶が曖昧だった。意識を手放している間、イヴがいるあの空間にいたのだろうか。でも、それもはっきりと覚えていない。
ぼんやりする頭でルナは上体を起こそうとしたが、誰かに抱き止められている事に気付く。この匂いは中也だ。ルナは顔を上げた。目の前には眠っている中也の顔がある。
『……。』
ただ、如何してだろうか。中也のその顔に違和感を覚える。目の前の中也の顔はどこか大人びていて、記憶にある姿より髪も長い。不思議に思いよく見ようと腕から抜け出そうとしたが、さらに強い力で引き寄せられた。
「…ん、ルナ?」
ゆっくりと目を開けた中也は腕の中にいるルナに視線をやる。互いの目が合い。数秒沈黙した後、中也がカッと目を見開いてルナの肩を掴んだ。
「ルナ!戻ったのか!?」
『……戻ったって?』
喋った。此方の声に反応したルナを見て、中也はルナを強く抱き締めた。ルナの瞳が自分を映した事がこんなにも嬉しい事だと実感する。
『ちゅ、うや…苦しい…』
「あ、悪ィ」
腕を緩めてルナを離す。上体を起こしたルナに続いて中也も起き上がり、ルナを見据える。ルナはまだ何処か幼い。元に戻った訳ではないようだが、その姿には懐かしさがあった。
「お前、今歳幾つだ?」
『歳?…16歳…』
突然中也に年齢を聞かれて不思議に思ったが、ルナは素直に答える。やはりまだ元のルナに戻ってはいないが、此方の声に反応して、話す事が出来る。
「…何だ?」
安堵の息を吐いた中也だが、ジッと此方を見据える視線に気付いた。ルナは中也を凝視して、顔をズイッと近づけ『なんか……いつもの中也じゃない…』と不思議そうに呟いた。
「嗚呼、実はだな——————」
中也は自分が過去の姿に戻っていた時にルナもしていたであろう今起こっている摩訶不思議な事件について、ルナに説明した。ルナは無表情に中也の話を聞いていて、話し終えた後は自身の躰を不思議そうに見据える。
「腹減ってるだろ。今から朝飯作る」
待ってろ、とルナの髪をくしゃりと撫でた中也は寝台を下りた。寝室を出ていく中也の背中を見届けて、ルナはこの不思議な感覚に首を傾げる。
髪を撫でた中也の手は温かった。優しいその微笑みは知っているようで、でも何処か大人びている。
『未来の…中也……』
一人残った寝室でルナはポツリとそう呟いた。
