第十八章 過去と未来の交錯点
その後、この不可思議な調査の続きを再度芥川と樋口に頼む事になった。
中也が元に戻った代わりに今度はルナが幼児化したと話せば、樋口は何故か乗り気に、是非見せてください、と中也に詰め寄った。
「はわわわわ可愛い!ルナさん可愛い!」
締まりのない顔で幼児化したルナを見やる樋口に、中也は既視感を感じる。首領もルナを見て同じ顔をしていた。
「まあ兎に角、話した通りだ。調査の方は手前等に任せる。俺も調べてみるが、赤ん坊のルナを放っておく訳にはいかねぇからな」
「はい、お任せください!……あの、でもその前に、一寸だけルナさんを抱っこさせて貰っても…」
「いいから疾く行きやがれ」
芥川に引っ張られながら去って行く樋口を見届けて、中也は溜息を吐き出した。そして、未だに腕の中で眠るルナを見つめる。
「…そう云や、全然起きねぇな」
赤子とは云えあれだけ騒いでいたら起きそうなものだが、ルナは未だに眠り続けたまま。この頃のルナは森すら逢ってはいない誰も知らない頃のルナ。記憶のないルナが目を覚ましたら屹度不安になるだろう。
「取り敢えず、赤ん坊が食べられそうなもん用意しておかねぇとな」
中也はそう呟き、腕の中で眠るルナを起こさないようにゆっくりと歩き出した。
***
ルナが幼児化してから一日が終わろうとしていた。風呂を済ました中也は寝台に腰掛けて、眠るルナを見据える。
「……。」
ルナは一度も目を覚まさなかった。流石にこんなに眠り続ける筈はない。ピクリとも動かないから焦ったが、慥かに心臓は動いているし、息だってしている。ただ、目覚めないのだ。
「何で起きねぇんだ、ルナ」
如何しようなく不安になる。中也はルナの隣に寝転び、指で優しくルナの頬に触れた。明日になれば元に戻っているのだろうか。否、自分が過去の姿になっていた時の話を聞けば、恐らく明日のルナは元の姿ではなく、今日より少し成長した姿のルナになっている可能性が高い。
そんな事を考えながらルナの寝顔を眺めていれば、小棚に置いていた携帯が音を立てた。中也はそれを取り、電話の相手が森である事を確認して通話釦を押す。
「はい、中原です」
《「ルナちゃんの様子は如何かね?」》
「未だ眠ったままです。やはり首領の仰る通り、過去のルナの状況が影響しているのでしょうか」
ルナが未だに目覚めない原因は恐らく過去のルナが置かれていた状況によるものだろうと森が云った。中也もこの頃のルナがどんな場所で、どんな風に過ごしていたのか知らない。それを知っているのは、恐らく首領である森だけだ。否、若しかしたら森すら知らないのかもしれない。
《「兎に角、明日になっても目覚めなければ診察してみよう。それまでルナちゃんを頼むよ、中也君」》
「御意」
中也は電話を切り、再び視線をルナに向けた。何だか暫くルナの声を聞いていない気がする。ルナはすぐ傍にいるのに、何処か遠くにいるような気がして、心が切なく感じた。
***
———————翌日。
中也は目を覚まし、数度瞬きを繰り返す。カーテンからは光が溢れていて、今が朝であることが判った。そして、直ぐに覚醒。勢いよく起き上がり、隣で眠るルナを見やる。相変わらずルナは幼児化していたが、昨日より少し大きくなっているように見える。この見た目だと恐らく7、8歳くらいだろう。
「ルナ……おい、ルナ」
優しく躰を揺すっても反応はない。目を閉じたまま静かに眠っている。中也は音にならない息を吐き出して、寝台から下りた。そして、洗面台に向かい、顔を洗う。バシャバシャと乱暴に水を跳ねさせながら不安で飲み込まれそうな気持ちごと洗い流すように顔に冷水をかけた。
窓の側で鳥が鳴いている。
カーテンの隙間から部屋の中を覗いた小鳥の黒い瞳が寝台の上で動く影を見た。
中也はタオルで顔を拭き、湯を沸かす為に台所へ向かった。ポットに水を注ぎ火をかける。パンとジャムを取り出し、パンをトースターへ、ジャムを机の上に並べて朝食の準備をした。そして、湯が沸くのを待つ間、仕事着に着替える為に寝室に向かった。
寝室に入った瞬間、目を見開く。
そこには寝台の上で上体を起こし、ぼんやりと一点を見つめているルナがいた。
「ルナ!」
中也は目覚めたルナに駆け寄り呼びかけた。しかし、ルナは変わらずぼんやりと一点を見つめたまま何の反応も見せない。
「ルナ?俺の声が聞こえるか?」
返事はない。
中也はそっと手を伸ばして、ルナの肩に触れる。その瞬間、台所からポットが沸く音が聞こえた。中也は扉に視線をやり、再びルナに視線を戻した。やはりルナは何の反応もなく、ピクリとも動かない。
「……少し此処で待ってろ。着るもの持ってくる」
中也はそう云い、一度台所に向かった。ポットの火を止めて、机に並べたパンとジャムを片付ける。そして寝室に戻り、衣類棚から適当なTシャツを取り出す。あの歳のルナにとっては大きいかもしれないがこの棚に子供用の服はない為仕方ない。
中也は持ってきたTシャツをルナに着せる。その間もルナはされるがままで反応を見せる事はなかった。中也も仕事着に着替えて、準備を整える。帽子を被った後、再び寝台に向かい、微動だにしないルナをそっと抱き上げた。そして、他の構成員に見られないように外套でルナの姿を隠してから部屋を出た。
中也が向かったのは首領執務室だった。ルナが目を覚ました事を森に伝えたが、目覚めたはいいが何も反応しないルナを見て森は眉を顰めた。
「ずっとこの調子です。話しかけても触れても無反応でして」
「成程。この頃のルナちゃんも天使のように愛らしい」
「……首領?」
森は指を組みながらルナを凝視する。大人が座る大きさの椅子にちょこんと座った7、8歳くらいのルナは何とも可愛らしい。全く森の方を見ていないし、何の反応もしていないルナだが、そんな事は森に関係ない。寧ろご褒美みたいなものだ。
「ねぇ中也君。実は昔、ルナちゃんの為に特注で作ったドレスがあるのだよ。今それを着せてもいいかね?」
「……ルナが元に戻ったら厭がると思うので、勘弁してあげてください」
此処で森を止められるのは中也しかいない。紅葉は不在だし、当の本人は無反応。故意的かエリスの姿もない。中也は咳払いをして、本題を続けた。
「ルナはこんな状態ですし、引き続き俺が傍でルナを守ります」
「嗚呼宜しく頼むよ。君の仕事は芥川君に任せよう。実は例の敵対組織の件、怪しい動きが見られていてね」
「左様ですか」
自分が幼児化する前に、敵対組織との厄介事を受け持っていた事を思い出す。芥川には悪いが、ルナの事は公にできないし、こんな状況では中也も仕事どころではない。
中也はルナを見やる。相変わらずピクリとも動かないルナは一体今何を考えているのだろうか。中也の声に反応を示さず、その瞳が一度も此方に向かないのは、心が締め付けられる。
「首領……この頃のルナは何をしてたんでしょうか…」
何も話さず、何も反応せず、何も見ようとしてないルナは一体何処で何をして、何を思って生きていたのだろう。
「さあ、如何だろうね」
中也の問いに森が答えを出すことはなかった。知っていて云わないのか、知らないのか。森は話さない。ルナも話さない。中也も真実を聞かない。ただ問いだけが空を漂って消えるだけ。
「…オッドアイの瞳のままなのだね」
だが、ふと森がそう零した。森の言葉に中也はルナに視線を向ける。その言葉が何を意味しているのか考えるより疾く、森が動いた。中也は目を見開く。懐に忍ばせていた医療刃がルナの瞳に突きつけられた。鋭く尖った刃先は瞳に触れる寸前の位置で止まる。
「………。」
空気が一瞬で冷え、沈黙が漂う。
ルナは刃の先が向けられても瞬きすらしない。寧ろこの空間さえ見えていないかのように、ルナは此処にいるのに存在していないようだった。
「まるで魂のない人形だね」
森は医療刃を下ろして、重い息を吐き出した。
反撃も、抵抗も、反応もしない。
この様子ならもしもその刃がルナを切り裂いてもルナは抵抗しないだろう。過去のルナが死への恐怖は愚か、何も感じない空っぽな心を持って生きていたのだとしたら、それを思うだけで胸が締め付けられる。
今のルナの姿はルナが歩んできた生い立ちを表している。
中也はそんな過去のルナを見つめ、拳を握り締めた。
