第十八章 過去と未来の交錯点



『取り敢えず濡れた体をタオルで拭いといて。直ぐにお風呂入れるから』


中也は困惑したまま真っ白なタオルを受け取る。てっきりポートマフィアの拠点に連れて行かれると思っていたら、ある高層マンションのある部屋に連れて来られた。


「意味わかんね…」


中也はそう呟いて、濡れた顔をタオルで拭こうとしたら、同じく濡れたままのルナが駆け寄ってきた。


『お湯直ぐに溜まるだろうから中也入っちゃって。濡れたままの服着てたら風邪引いちゃう。それと着替えはこれ着て。一応中也のだけど、流石に今の中也には大きいかもしれない。でも、ないよりマシだと思うから。はい』


風呂場に連れて行かれ、着替えとバスタオルを渡される。口を開く間もなく風呂の使い方を説明されて、中也はただ頷くしかなかった。


『じゃあ、ゆっくり温まってね』

「あ…お、おい」


ルナは濡れた髪をタオルで適当に拭きながら脱衣所を出て行こうとすれば中也が呼び止めた。


『何?』

「……手前も…濡れてんだろ」


先入れよ、とそっぽを向いてそう云った中也。その言葉にルナはきょとんとする。目を丸くして黙ってしまったルナを見て中也は、手前が風邪引くだろ…と続けた。


まさか心配してくれたのだろうか。ルナは小さく笑みを零す。やっぱり中也は中也だ。彼の優しさはいつになっても変わらない。


『ふふ、大丈夫だよ。私の事は気にしないで、中也が先に入って』

「けどな」

『それじゃあ、一緒に入る?』

「はあ!?ばッ、莫迦じゃねぇのか!誰が一緒に入るか!!」


冗談で云っただけなのに中也は顔を真っ赤にして風呂場の中に駆け込んで行った。強く閉められた扉を見据えながらルナは『かーわい』と顔を綻ばせた。



***



知らない部屋。

けれど、それは冷たい雨が降る外とは違う温かな場所。


強風で壁板が剥がれて軋む音も、天井からの雨漏りも、隙間から吹き付ける冷たい風もない。外は既に夜になり暗いというのに、この部屋には洋燈が灯り不自由さを感じない。


湯に浸かり熱った体は自分の体温ではないみたいだ。中也は清潔な白いシーツに視線を落とす。そっとそれを撫でるように触れてみた。柔らかな寝台の心地よさが肌に伝わって来る。そのまま横に倒れてみれば真っ白な寝台は、ぽすんと優しい音を立てて中也を受け止めた。


「…柔らけぇ」


いつもは固い地面の上に薄い布を敷いて寝ていた。冬はどれだけ体を小さくして縮こまっても夜の空気に体温を奪われる。夏は蒸し返すような暑さに息苦しくなる。


でも、この部屋は違う。


形容し難いこの心地よさは何だか不思議な感じだ。自然と瞼が落ちてしまう。


『眠い?』

「うおッ!!!」


突然聞こえた声に中也は飛び起きる。振り返ればワンピース姿のルナが寝台の側に立っていた。完全に油断していたからか彼女が部屋に入ってくる気配を感じなかった。こんな油断し切った姿を他人に見せるなんてと中也は自身の警戒心の薄さに驚きながらもルナに視線をやる。ルナは手に持っていたマフラーを大切そうに棚に置いて振り返った。


『あ、中也。まだ髪が濡れてるよ』


湿った中也の髪を見てルナは棚から新しいタオルを取り出す。ゆっくり温まるように云ったがルナに気を遣ったのか、それとも慣れない場所で無防備な姿でいられなかったのか、思いの外疾く風呂を上がった中也。髪も適当に拭いて終えたのだろう。折角温まったのに濡れたままでは風邪をひいてしまう。


『駄目だよちゃんと拭かなきゃ。湯冷めしちゃう』

「お、おい…自分でやるからいい」

『だーめ。じっとして』


濡れた中也の髪をタオルで優しく拭いていく。やはり髪が少し冷たくなっている。冷えた頭を包むように拭いてやれば中也は最初こそ抵抗したが、今は大人しく拭かしてくれている。何だか仔犬みたい、とルナは心の中で笑みを溢した。


優しい手。優しい温もり。



ルナがくれる温かさに気を張っていた糸のようなものが溶かされて、そのあまりの心地よさに微睡んでしまう。



『そろそろ寝よっか』


ルナがそう云ったのは髪が乾き、少し時間が経ってからだった。中也は知らない場所で眠れる筈ないと思ったが、数分後——————。


「何で同じベッドなんだよ。つか離せ」

『いや。だって仕方ないでしょ。この部屋にはベッドが一つしかないもん。それにいつもこうやって一緒に寝てるじゃん』

「知らねぇし…」


一緒に寝てるだと?


彼女の言葉を信じるなら、それはどんな意味を指すのか。今、自分は誰かの異能力の所為で過去の姿と記憶に戻っていると彼女は云っていた。まさか未来の自分は彼女とこうやって抱き合ったまま眠る事が普通なのだろうか。中也は未来の光景を思い浮かべたが全く想像が出来なかった。


『なんか不思議。今の中也、私より体が小さいから私の腕にすっぽりだね。温かい』

「…ッ」


ぎゅっとその腕に包まれて、中也の体に緊張が走る。ルナは中也の体に力が入ったのを感じ取り、中也がこれ以上警戒しないように優しい声で云う。


『緊張しなくていいよ。大丈夫。安心して眠ってね』


その声に中也は顔を上げる。何故彼女は自分にこんなにも優しい目を向けてくれるのだろうか。今まで誰かにこんな風に触れられた事も抱きしめられた事もなかった。こんな近くにルナがいるのは何だか照れ臭くて、でも悪い気はしなかった。


「(柔らけぇし…なんか……凄ぇいい匂いがする)」


人殺しの匂いがするなんて彼女に云った事を後悔した。彼女はこんなにも優しくて、いい匂いで、温かい。


「……なあ」

『ん?』

「未来の俺は、……どんな奴なんだ?」


中也のその問いにルナは驚く。まさか記憶と姿が過去に戻っているなんて信じてくれるとは思わなかったから。否、もしかしたら信じた訳ではなく、ただ聞いてみたかっただけなのかもしれない。それでもルナはその問いに迷う事なく応える。


『未来の貴方はね、温かな光のような人』

「光?」

『そう、私の光』


ルナはそっと目を閉じる。


ルナにとって、中也という存在は道なき暗闇を照らしてくれる唯一の光だ。中也が孤独な暗闇を照らして手を差し伸べてくれるからルナは迷わずに歩いていける。


温かくて、時折り凄く眩しい光。


『誰よりも、何よりも大切な

———————私の愛しい人』


中也はドキッと胸を高鳴らせる。ルナの声、言葉、抱く手、温もり。彼女の全てから感じる彼女の想い。それが未来の自分に向けられているものなのだと思うと迚も擽ったく、何故か胸が苦しい。


自分は彼女にこんなにも想ってもらえる存在になれるのだろうか。


今の自分には想像ができない。


「…羨ましい、な」


ぽつり、と静かに呟いた中也はそのまま目を閉じた。息を吸えば彼女の花のような香りを感じる。頭を撫でてくれる手は心地よい。彼女の優しい温もりは眠りを誘う。今まで一度も見た事はないが、まるで夢の中に落ちるように、優しい温もりに包まれながら中也はそっと意識を手放した。






腕の中で小さな寝息を立てる中也を見つめる。


ずっと警戒されると思っていたが、今では警戒心が解けて安心して眠りについてくれた。ルナは安堵の息を吐き、起こさないように中也の髪を優しく撫でる。肌に触れる体温は子供だからかいつもより高く感じた。


『おやすみ、中也』


その愛しい温もりを感じながらルナも目を閉じて、眠りについた。







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