第十八章 過去と未来の交錯点




「おい、誰かいねぇのか?」



荒れ果てた廃墟に中也の声が響いた。



だが、人の気配はない。此処は自分達の住処だった筈だ。同じくらいの歳の仲間達と此処に住んでいた。入口の扉にしていてものはなく、中也はそのまま中に入った。最早其処は人が住めるような場所ではなかった。埃と土の臭いしかしない。吹き込んだ雨が土と混ざって泥水を作っている。屋根の役割をしていた鉄板も殆どが朽ち果て、劣化した破片がパラパラと降り落ちてくる。


「……如何なってやがんだ」


此処は仲間達と住む拠点がある擂鉢街。だが、自分が知っている景色ではない。元々巨大爆発で何もかもなくなった場所に、無法者や貧民達が勝手に住処を作りできた街だから、廃墟が多い。だが、それでも此処は中也の記憶のある街とは違っていた。


仲間達との拠点も、仲間達と駆けた道も、仲間の姿もない。


「彼奴等…何処行ったんだ……」


中也は自身の掌を見据える。昨日までの記憶が曖昧だった。目が覚めたら見知らぬ場所にいた。柔らかな寝台がある清潔な部屋だった。状況が理解できずに人混乱していた時、部屋の外に人の気配を感じ、急いで棚に入っていた適当な服を引っ張り出して、窓の外から出た。


そして、窓から飛び降りた時、自分がいた場所が何処だか判った。横浜の街に聳え立つ黒い高層ビル。ポートマフィアの拠点だ。その瞬間、体の身の毛がよだつのを感じた。まさか自分はポートマフィアの捕虜になったのかと。


この街に生きる誰もが知るポートマフィアの悪評。無闇に喧嘩を売って良い相手ではない。だが、今此処に仲間の姿が一人もないのを察するに、マフィアに囚われているのかもしれない。幾ら相手が暴力の代名詞であるポートマフィアと云えど、何の力もない仲間達を放っておく訳にはいかない。


力を持つ自分が守らなければ。
その責任を果たさなければ。



「小僧、何者だ?」


その時、中也の後ろから声がした。振り返ると焦茶の外套を着た男を先頭に武装した輩がそこにいた。恐らくこの集団のリーダー格と思われる焦茶の外套の男が中也を冷たい目で見据える。


「此処は我等の縄張りだぞ。勝手にうろちょろされては困るな」


男のその言葉に中也は眉を吊り上げる。


「手前こそ何ほざいてやがる。此処は“羊”の縄張りだ。手前等のじゃねぇ」

「“羊”?知らんなそんな組織。新手の弱小組織か?如何にも弱そうな名だが」


何を寝ぼけた事を云っているのか。慥かに昔は殆ど名も知られていない弱小組織だった。抑組織と云える程もない、孤児である子供達が生きていく為だけに集った互助集団だ。


だが、それは中也が入るまでの話。中也が入ったからというもの、周りの組織達を力で黙らせ、何時しか“羊”という組織がこの街で名を馳せた。仲間達はそれを喜んだし、理不尽に暴力に脅かされ怯える日も少なくなった。だから、擂鉢街にいて“羊”と云う名を知らない筈がない。


「“羊”の名を知らねぇ手前等の方が三下組織なんじゃねぇのか。汚ねぇ足で俺等の住処を踏み荒らしやがって。とっとと失せろ。そうすりゃ見逃してやる」


挑発的な中也の言葉に今度は男が眉を上げた。


「子供だからと云って手加減する程、俺は甘くないぞ」

「手前こそ、子供だからって油断してると痛い目見るぜ」


地面に転がってる小石が宙に浮かんだ。男が目を見開いた瞬間、それが弾丸のような速さで放たれ、武装した男達の肩や腹を貫いた。石礫が当たった男達は肉が抉られた痛みに呻き、そのまま圧せられるかのように地面に手と膝をついた。外套の男はそれを横目に見て、「重力を操る異能か…」と呟く。


「慥かポートマフィアに重力遣いの異能力者がいたな。小僧貴様、まさかポートマフィアか?」

「ああ?ンな訳ねぇだろ。誰がポートマフィアだ。俺は“羊”の中原中也だ。覚えとけ糞野郎」


中也の殺気にまだ動ける武装した男達が外套の男を守るように立つ。しかし、外套の男は手を上げてそれを制した。


「重力遣いに銃火器は効かない。お前達は下がっていろ」


再び外套の男が前に出る。男は右手を前に出し、それを素早く横に引いた。その瞬間、その場の空気が揺らいだ。中也は咄嗟にその場から距離を取る。まるで刃物で切ったかのように中也の頬が切れ、血が流れた。


持ち前の勘の良さで避け直撃は免れたが、あれをまともに喰らっていれば体が真っ二つになったかもしれない。中也の背後にあった壁に大きな切れ目が入っている。それを見て中也は冷や汗を垂らした。


「避けたか。慥かにただの子供ではないようだな」


今のは男の異能力だ。目に見えない斬撃。男がもう一度手を上げた。中也はその攻撃に構える。男が手を振り下ろした。


中也の右肩に上から下に斬撃が入る。しかし、その攻撃を横に飛びながら避けた。男が手を動かしてから斬撃が此方に届くまで1秒もない。斬撃の瞬間まで視界に捉える事が出来ないのは物質が空間を介してる訳ではないからだ。


「(クソッやりづれぇ…)」

「いつまで避けられるかな」


この男は強い。構えなしで立っているが、一瞬たりとも隙がない。それに加え、目に見えない斬撃を生み出す男の異能力が厄介だ。異能の相性が悪い相手を如何やって斃すか考える間もなく再び男が手を上げる。




『—————ねぇ、何してるの?』



その場に響いた声。
全員の視線が声がした方に向く。


積み上がった家の屋根に人影があった。武装した男達が銃口を向ける。


黒い外套、緑のマフラー、毛先が白銀に光る水浅葱色の髪。そして、温度のないオッドアイの瞳。


「その瞳…まさか貴様、ポートマフィアの…」

『何しているの?』


その瞳に宿っているのはあまりにも冷たい殺気だ。その場にいた全員がその殺気に冷や汗を垂らす。


「…不良少年に説教をしているだけだ」

『私には寄ってたかって中也を虐めてるように見える』


ルナは中也を見据える。中也の頬から血が流れていた。それを見て再び目の色を変えた。


『小蝿が群がってるだけなら見逃そうと思ったけど、やっぱり駄目。中也を傷付けたから』


明らかに雰囲気が変わった。身の毛がよだつような殺気に外套を被った男が「撃て!」と叫んだ。


だか、短機関銃を持った男達が引き金を引くよりルナは疾かった。


血飛沫が上がる。


バタバタとその場に音を立てて倒れた男達。血に染まった短刀を持ち、ルナは温度のない瞳でまだ立っている外套の男へ視線を向けた。


外套の男はルナが近づく前に手を振り下ろした。先手を取らなければ先程の仲間達のように死ぬと脳が危険信号を出している。


肩から心臓目掛けて斬撃が走る。だが、その斬撃は何も切ることはなかった。盾になるように巨大な白銀の尾がルナを守る。


『目に見えない斬撃の異能。この力じゃ気付いた時には真っ二つだね。でも、斬撃自体は見えなくても、斬撃の瞬間の空気の揺らぎが見えれば意味はない』

「莫迦な…俺の異能で斬れないものなど…」


空気の揺らぎだけで異能の斬撃を見切れる筈がない。男は恐怖に染まった目でルナを見遣る。鋭い瞳孔を持つ赤い右の瞳。オッドアイのその瞳は彼女が只者でない事を示している。


『切るって云うのは、こう云う事だよ』


ルナが男に向かって手を伸ばした。


刹那、黒い影が巨大な獣の手になり、その鋭い爪で男の体をいとも簡単に切り裂いた。血飛沫が上がり、バラバラの肉塊になった男が悲鳴もないまま絶命。


冷えた空気が吹いた。雨雲を冷風が呼び寄せたように雨が降り始め、赤い血を泥と共に濁していく。


目の前で起こった殺戮。


それを見た今の中也の瞳はどんな色をしているだろうか。ルナは中也に視線をやった。中也は雨に濡れながら硬い表情で此方を見ていた。


ルナは眉を下げて苦笑し、一歩ずつ中也に近付く。中也はその場から動く事はしなかったが此方の動きを観察している。


ルナは中也と少し離れた位置で止まり、手を差し伸べた。


『一緒に帰ろ、中也』


今の中也はルナを知らない。中也にとってルナは敵であるマフィア。それ以上の何者でもないのに敵意を向ける今の中也にこんな殺しを見せて、如何するつもりだったのか。


「……手前はポートマフィアなんだろ。誰がマフィアの云う事なんざ訊くか」


自分がマフィアである事。簡単に他人の命を奪う人殺しである事。それが自分だ。拒絶の言葉は覚悟していた。


いつの間にか辺りは暗くなり、雨が強くなり始めた。雨粒が地面を濡らし、汚れた血を洗い流す。中也もルナも雨に打たれ、服が冷たい雨を吸っていくのを感じた。ルナは中也に伸ばした手を自身の懐に差し入れる。


『慥かに私はマフィアで、人殺しだよ。数え切れないくらい人の命を奪っている』


そう云ってルナが懐から取り出したのは黒い何か。それに中也が身構えた。


『でも、中也を傷付ける事は絶対しない。私は貴方を傷つけるものから貴方を守る』


たとえどんなにこの手が血塗られていても、この手で中也を守る。中也が大切だから。中也を想っているから。この想いだけは決して変わらない。


『マフィアの云う事を信じなくてもいい。


———————でも、私を信じて』


記憶と違うこの街で困惑している中也を一人ぼっちにはさせない。雨が降り落ちる冷たい世界の中で孤独にはさせない。


ルナは懐から取り出した傘を広げて、中也がこれ以上冷たい雨で濡れないように傘を差してあげた。


『私と帰ろ、中也』


そして、もう一度手を差し伸べる。


中也は雨を凌ぐ傘を見て、差し出された手を見て、そしてルナに視線をやった。


人殺しのマフィアとは思えないその優しい微笑みに、知らない筈の感情が中也の中で揺らいだ気がした。





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