第十八章 過去と未来の交錯点




川を眺める青い瞳。
柔らかい赭色の髪が風に揺れる。


『中也』


その声に少年は振り返った。








GPSを辿り樋口の運転で辿り着いたのは河川敷だった。その場所にいたのは静かに川を眺める見覚えのある後ろ姿。だが、その姿は本来の姿ではなく、12歳くらいの少年に見える。


着ている服は体より大きく、袖やズボンの裾が適当に捲られている。恐らく部屋の箪笥から適当に引っ張り出して身に纏ったのだろう。慥かにこの年齢の中也なら高層ビルの部屋の窓から無事に出れた事も頷ける。


『急にいなくなったから心配したよ。駄目だよ一人で外出ちゃ。少し大きくなっても、その姿じゃまだ子供なんだから』

「……何云ってやがんだ手前」


その声は幼い少年の声だが、いつもより険しい。ルナを見る瞳も鋭く、まるで牙の仕舞い方を知らない猛獣のようだった。中也から放たれる棘のある言葉にルナは首を傾げる。


『…如何したの?……もしかして昨日までの記憶もないの?』


体が変化するだけでなく、記憶すらリセットされるのか。ルナは中也に一歩近づく。中也が一歩後退り、身構えた。


『ねぇ、中也』

「俺の名前を口にすんじゃねぇ。俺は手前なんか知らない」


氷のような冷たい風が吹いた。その風の冷たさより冷え切った中也の声がルナの耳を刺す。


「手前からは人殺しの匂いがしやがる。何が目的か知らねぇが、それ以上俺に近づくんじゃねぇ。

———————今すぐに俺の前から失せろ」


完全なる拒絶。


嫌悪、敵意、憎悪、殺気。中也から向けられた事のないそれがルナの心を突き刺した。


ルナは動かない。そんなルナの後ろから誰かが駆け寄って来るのが見えて、中也はその場から逃げるように駆け出した。


「あれ…中也さん見つけたのに、行かせちゃうんですか?」


川を越え中也が走り去って行った方に視線を向けながら樋口がルナに問う。しかし、ルナからの返答がない。不思議に思い「ルナさん?」と微動にしないルナの顔を覗き込む。


白目を剥いて口を開きながら石像と化していた。


「ちょ、ちょっと!?ルナさん!如何したんですか!?」

『ちゅうや…ちゅうやが私のこと知らナイ記憶ナイ…ワタシに失せろって……ちゅうやが、ちゅうやが…』


白目を剥いたまま片言で譫言のように呟くルナ。正常な思考回路のネジが外れてしまったのか、機械のような動きをしながら揺れている。恐らく記憶のない中也にショックな事を云われたのだろう。


『あーーワたしはもうココでうセまース』

「ルナさんが壊れてる…」


これは重症かもしれない、と樋口は頭を抱えた。




***




あの河川敷で立往生していても仕方ない為、取り敢えず樋口は中也が向かった方向に車を走らせていた。バックミラー越しに見えるは後部座席で屍のように寝込んでいるルナ。


ルナの話では幼児化した中也は12歳くらいの少年になっており、本来の記憶はない為、ルナの事も知らない。それだけでもルナの心臓を抉るというのに、あろう事か中也はルナに敵意を向け、拒絶の言葉を吐いたと云う。ルナが死にかけの芋虫状態になるのも無理はない。後部座席から聞こえるルナの呻き声はまさに負の呪文のようだ。


樋口は車を停める。GPSの存在に気付いたのか川の辺りから発信機が途絶えてしまい、中也が何処に行ったか判らない。これ以上捜索するのは困難だ。


「ルナさん、大丈夫ですか?」

『…大丈夫なわけ、ないじゃん……もうこの世で呼吸する意味もない…寧ろ空気汚してしまってごめんなさい』

「でも、このまま中也さんを一人にしていいんですか?」

『……。』


樋口の問いにルナは唇を噛み締める。勿論、云い訳がない。幼く記憶のない中也をこの魔都に彷徨わせるのは危険だ。だが、また拒絶の言葉を吐かれたら?そう考えてしまって、ルナは一歩踏み出せないでいる。


黙り込んでしまったルナを見て、樋口は続けた。


「たとえいつもの中也さんでなくても、ルナさんのことを知らなくても、中也さんを迎えに行けるのはルナさんしかいないじゃないですか」


二人を見てきた樋口だから判る。どんなに喧嘩して距離ができても、最後には二人揃って帰ってくるのがルナと中也だ。樋口はそんな二人の関係に憧れている。どんな時もお互いを想い合っている二人が何より二人らしい。


『…そうだよね』


樋口の言葉にルナは漸く顔を上げた。不安で泣きそうなルナの顔。そんなルナを見て、樋口は「そうですよ」と優しく微笑んだ。


ルナは樋口のその笑みを見て決心を決める。そして、車から降りて空を見上げた。何処までも続く青い空が今の中也には違った空に見えていたとしても—————。


『たとえ私の事を知らなくても、中也は中也だもの』

「そうですよ。気にせず行きましょう」


さ、車出しますよと樋口はハンドルを握り直した。だが、ルナは車に乗らずに首を振った。


『樋口ちゃんは拠点に戻っていいよ。私一人で中也を迎えに行く』

「え、でも…中也さんの居場所が判らないままでは大変じゃ」

『ううん、大丈夫。

———————おいで、イヴ』


ルナの足元から黒い影が出る。それが形をなし、白銀の獣が姿を現した。


『車よりイヴの足の方が疾い。それに中也が向かった場所には心当たりがあるから』

「判りました。では、これを持って行ってください」


そう云って樋口がルナにある物を渡した。「お役に立てると思うので」と微笑んだ樋口にルナは微笑み返し、イヴの背に乗った。イヴが駆け出した瞬間、その場に強風が吹き樋口の体を飛ばしそうになった。車に掴まりながらその場に踏ん張った樋口は風が止んだ頃に目を開ける。ルナの姿はもうなかった。樋口は心の中でルナにエールを送り、自分は拠点に戻る為車に乗った。







イヴの背に乗りながらルナは迷いなくある場所に向かう。その街のシンボルのように高く聳え立つ古びた建物。あの場所に向かうのは何だか懐かしい。



『中也と初めて逢った場所も、彼処だったな』



あの時もこうやってイヴの背に乗って向かった。


あの時と違うのは、


私の意思で


———————貴方を迎えに行く事。







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