第十七章 暗夜に告げる黎明の奏で






時刻は夜中の3時を回っている。



訓練場を後にしてシャワーを済ませた中也は自分の部屋に戻る為、拠点の廊下を歩いていた。暗い廊下を照らす洋燈の光がゆらゆらと揺れている。


「中原準幹部」


ふと此方に駆け寄ってくる男がいた。黒服を着た構成員。こんな時間にこんな場所にいる処を見ると如何やら中也を待っていたようだ。


「……何か用かよ」


ぶっきら棒に答えた中也に黒服の男は肩をビクつかせる。しかし、震える手を握り締めて、男はずっと聞きたかった事を問う為口を開いた。


「“雷光”幹部は、本当に組織を裏切ったのですか?」


彼の口から出てきた名に中也がピクリと反応する。苛立ちから殺意へ。中也の纏う雰囲気が一変した。それに気づきながらも男は冷汗を垂らしながら続ける。


「自分は信じられないのです。あの“雷光”幹部が組織を裏切るなど。あの人を見ていたから判る。忠誠心があって人望の厚いあの人が組織を裏切るはずがないと」


この構成員の男は“雷光”の部下だった。彼は“雷光”と共に任務に赴き、その圧倒的な強さを持つ背中を追いかけてきた。彼にとって“雷光”は誰よりも尊敬できる人物だ。そんな人が組織を裏切り、命を落としたとは考えられない。目を閉じれば今でも勝利の拳を掲げる“雷光”の輝く勇姿が瞼に焼き付いている。


そんな偉大な人を殺したのは——————。


「“雷光”幹部を殺したのは、菊池ルナだと聞きました」


組織内で広まった噂。表向きは裏切った五大幹部である“雷光”に首領専属護衛である菊池ルナが制裁を下したとされているが、本当は違うかもしれないと同僚が云っていた。


「本当は裏切りなんて嘘で、菊池ルナが血を見たさに“雷光”幹部を殺したのではないかって」


同僚の話だと菊池ルナは自分の地位の為に組織を守り戦った“雷光”を陰湿な罠に嵌めて殺したと。否、抑も彼女は理由もなく人を殺す化け物。気分一つで人の命を奪う殺戮者。


それを聞いた時、腑が煮えくり返る思いだった。その同僚の言葉が真実かどうか慥かめる迄はこの怒りを抑える事は出来ない。だからこそ、“雷光”の死を見届けたと云う中也に話を聞きにきた。


「真実を聞かせて下さい。“雷光”幹部は間違っていなかったと。俺は今でも“雷光”幹部を信じて」

「いい加減口を閉じろ三下」


黒服の男の言葉に被せるように中也は獣が唸るような声で云った。鋭い眼光を宿した瞳が男に向けられる。その殺意の矛先が自分に向けられた事を感じた男は体を震え上がらせた。


「手前があの野郎の何を見てたのか知らねぇがな。こっちはその名前を聞くのも、顔を思い出すのも虫唾が走んだよ」

「し、しかし…もしあの人が意味もなく殺されたのだとしたら俺は…俺はッ」



引き下がらない部下に中也は舌打ちをして、足を一歩踏み出した。


『裏切り者だから殺した』


しかし、その場に予期せぬ声が響く。中也は目を見張って男の背後に気配なく現れたその人物を凝視する。男は勢いよく振り返り、体を硬直させた。乾いた空気の音だけが口から漏れる。


『五大幹部でありながら“雷光”は組織を裏切った。だから、私が殺した』


抑揚のない声でそう告げたのはルナだった。ルナは無表情で男を見やり、まるで業務報告をするような淡々とした口調で続ける。


『この事実にそれ以上も以下もない。だから、貴方がそれ以上知る必要もないし、貴方に中也を困らせていい理由もない』


その言葉に感情の一切が読み取れないからこそ、その言葉に込められている意味はあまりにも恐ろしい。この組織の自分の立ち位置では知りたい事を知る事さえ許されない。上が口を噤むならそれに黙って従い、深く介入してはならない。それを守らなければ待つのは処分のみ。屹度、自分はその一線を跨ごうとしていた。


恐ろしくて男はルナを正面で見られなかった。目の端だけで彼女を見やる。ない筈の刃がルナの手の中にある気がして、震えが止まらなかった。何も云う事ができず、その場で不恰好な礼をして、その場を去った。


「……手前が嗚呼云うとは思わなかたぜ」

『だって中也、困ってたみたいだから』


困っていた訳ではないが、苛ついていたのは慥かだ。部下相手に八つ当たりをした挙句にそれをルナに仲裁されるとは。中也は先程の自分が何だか居た堪れなくなり、話題を変えようと何か探したが、ふとルナが何時もと違う事に気付いた。


「……手前、その右目」

『首領が用意してくれた。この右眼は目立つから、これからはなるべくコンタクトを付けて過ごしなさいって』


ルナの人とは違う赤い右目が、左の瞳と同じになっていた。特殊なコンタクトなのだろう。鋭い瞳孔が上手く隠され、色も赤から左と同じアメジスト色になっている。


「正体を隠す為か?」

『うん』


“闇の殺戮者”で唯一知れ渡っているのが、“呪われた右目のオッドアイ”と云うことだ。あんな事件があった後、首領も慎重になっているのだろう。仕方ない事だが、その瞳を隠さなければまたルナは闇市で命を狙われるだろう。


「(折角、綺麗な瞳なのにな…)」


アメジスト色のコンタクトで隠されたその右目で見られると自分の中にあるやるせなさが心の奥から湧き上がってくるようだった。ルナの視線から逃げるように中也は床に視線を落とす。


『……。』


俯き黙ってしまった中也を見て、ルナは小さく肩を落とす。中也が目を合わせてくれないのはこのコンタクトを付けてしまったからだろうか。今回の事件であれだけ闇市を騒がせたのだ。“闇の殺戮者”を示すこの瞳を隠す理由は十分に理解できる。だが、中也はどう思っているだろうか。


ルナは右目に付いたコンタクトを外す。


その様子を横目で見た中也はルナの腕に包帯が巻かれている事に気付いた。太宰がルナは大分回復していると云っていたが普通ならば致命傷になる傷を負ったのだ。恐らく服で見えない部分にも包帯が巻かれているのだろう。


「……怪我の具合は大丈夫か?」

『うん。でも、後一日は安静にしていなさいって首領に云われた』

「そうか。ならもう部屋に帰って寝ろよ。夜中だぞ」

『……。』


こんな時間に怪我人と長話をする訳にもいかない。中也は、部屋に戻ると云い残し、ルナの横を通って自分の部屋に戻ろうとした。だが、くいっと服を引かれ、足を止める。振り返ればルナが服を掴んで、此方を見上げていた。


『自分の部屋に帰っても眠れない。だから、中也の部屋で中也と一緒に寝る』

「……………は?」


あまりにも予期せぬその発言に数秒思考が停止し、開いた口からはあまりにも素っ頓狂な声が出た。





***

 



「俺はソファで寝るから、手前がベッド使え」

『いや。一緒にベッドで寝て』

「いや、って……手前なぁ……」


中也の部屋に着いた二人。さて寝ようと云う時に中也はルナの怪我を思い寝台を譲った。だが、即答で返ってきたまさかの返事に中也はそれ以上何も云えなかった。



結局、中也とルナは同じ寝台に二人で寝転ぶ。時計の音と二人の息遣いが響く静かな部屋。背中にはルナの気配を感じる。部屋が静か過ぎて、中也は自身の胸の鼓動がルナに聞こえてしまうのではないかとルナの方を向けなかった。それもそうだろう。好きな相手が同じ部屋で同じ寝台の中にいる。眠れる筈がない。


「何で…俺なんだ?」


心臓の音を隠すように中也はルナにそう問いかけた。数秒待っても返事はないがまだルナは起きているだろう。


ルナのオッドアイの瞳が中也の背中をジッと見据えている。中也のその問いの意味がよく判らなかった。


「イヴの傍で寝た方が休まるんじゃねぇか?」


怪我の療養で休むなら広々とした寝台で人の気配がなく眠った方がよい。特に気配に敏感なルナは尚更その方がゆっくり休める筈だ。しかし、ルナはイヴの傍でしか眠れない。なら此処で眠るよりもイヴの傍の方がよっぽど体は休まるし良い筈だ。


中也の問いにルナはその理由を考える。でも、その答えはよく考えずとも案外すんなり出てきた。


『中也の傍は安心する。眠る・・事ができる』


今この瞬間も温かな温もりに包まれているみたいに心地良い。今まで誰かの傍で無防備になる眠りをした事がなかった。


イヴの側での“眠り”は本当に眠りと云うのだろうか。 


一般的に眠りとは意識の喪失だ。己の意識を手放し、睡眠状態に入る事で脳と体を休める。それは全ての人間が行う生命活動の一環である。


でも、ルナにとっての“眠り”は違う。ルナにとって“眠り”は意識の喪失でなく。意識の転換だ。“眠る”事で、現実世界とは違うイヴと二人だけの空間にルナの意識は行く。時に真っ白で、時に真っ暗な何もない空間。音もなく、時間の流れもない。イヴとルナしかいない空間。


けれど、中也が傍にいる時だけ意識がその空間に行かないのだ。それに気付いたのはいつか自分が熱を出して中也に看病して貰った時だった。ルナにとってそれは生まれて初めての意識を手放した眠りだった。目覚めた時、とても躰が軽くなっていた事に後から気付いた。


中也が傍にいてくれるだけで、何て穏やかで心が安らぐのだろうか。


『中也の傍は、迚も心地よい』


中也の目が微かに見開かれる。ルナの口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。自分をこんなにも信用してくれて嬉しい。だが、今の中也はそれを素直に喜ぶ事が出来なかった。


中也は何も云わずに上体を起こす。ルナが視線で中也を追った。中也の顔はよく見えなかったが、その口元は歯を強く食いしばっているように見えた。


『中也?』

「俺は……」


中也の様子が何時もと違う事に気づき、ルナも上体を起こす。呼びかけたルナを遮って、中也は拳を握り締めながら口を開いた。


「お前を守ってやれなかった。守るって云ったのに、何も出来なかったんだ」


絞り出すようなその声は震えていた。自分の力は一体何の為にあるのだろう。大切な人すら守れないこんな力には何の意味もない。


「お前には、俺なんか必要ねぇだろ」


自分にはルナの傍にいる資格はない。ただ暴力を振るうだけのこの力ではルナを守ってやれない。これ以上ルナの傍にいたら、もっと傷付ける。


『如何して?』


ルナの声に中也は顔を上げる。中也はルナの顔を見た。ルナは澄んだオッドアイの瞳で真っ直ぐに中也を見つめている。その瞳はあまりにも美しかった。


『中也は私を守ってくれたよ』


ルナは自分より大きな中也の手を取り、そっと包むように触れる。


『中也は闇の中から私の手を引いてくれた。敵しかいないあの場所で私を守ってくれた』


中也だけだった。
私を闇の中から救ってくれたのは。


狂気に満ちた殺しが蔓延る中で、周りの全てが殺意を向けてくる中で、ただ一人、中也だけが私の名を呼び、その優しい手で私の手を引いた。


必ず守ると抱き締めてくれた。
“雷光”ではなく、私を選んでくれた。


中也にどれだけ救われたか。
言葉足らずな自分では上手く云い表せない。


それでも中也に伝えよう。

誰かの為に自分を責めてしまうこの人に。



あの時、“雷光”に刃を向けられた時、あのまま死んでもいいと思った。生きる事に執着なんてないから。自分には生きていていい資格も生きている意味もないから。


そう思って立ち上がる事を諦めた時に、中也の顔が浮かんだ。必死に“雷光”と闘う中也。私を守る為に戦う中也の姿を見て、思った。


———————私も中也の為に戦おうって。


『そう思ったら、あの時首領の命令がなくても動けた。中也を守りたいって思ったら、力が湧いてきた』


ルナの話を中也は黙って聞いていた。ルナに握られた手が迚も温かい。



『私にとって、

———————中也は光なの』



ルナの言葉に目頭が熱くなる。


『中也がいてくれるだけで、私は救われるの。
だから、必要ないなんて云わないで。

———————私の傍にいて』


ルナは花のように笑った。その微笑みはいつもの無表情とは違う。中也にしかしない笑顔。それを向けてくれる。



気付けばルナを強く抱き締めていた。
その愛しい存在に縋るように強く。
 


ルナは一度目を瞬かせたが、中也の体が震えている事に気付いて、そっとその背中に手を回した。



こんなにも救われた気持ちになったのは初めてだった。


互いの鼓動が聞こえる。


中也が傍にいる時に鳴る特別な鼓動。
ルナが傍にいる時に鳴る特別な鼓動。


この鼓動だけがもう気付いている。互いの存在がどれ程かけがえのないものになっているか。


抱き締めるルナの躰は柔く、心地よい匂いがする。心の奥から広がるこの感情は大きくなるばかりだ。


ずっと心に穴が空いたようだった。自分が何者なのか判らず彷徨っていた時も、“羊”にいた時も、マフィアに入ってからも、自分の一番奥にある穴を埋めるものがなかった。だから、ずっと自分に愛着が持てずにいた。


でも、今は違う。


こんなにも心が満たされている。ルナに出逢って、ルナを好きになって、自分の知らなかった感情が心の奥底にあった穴を満たしてくれた。


いつの間にかこんなにも、ルナが愛しい存在になっていた。



———————ルナ、俺はお前が好きだ。



腕の中にいる何よりも愛しい存在を強く抱きしめた。



「———…きだ」



肩口で中也が何か云った。まるで口から零れたような小さな声が上手く聞き取れずにルナは首を傾げる。


『何?中也』


胸の中にあるこの想いをルナが知ったら、ルナはどんな顔をするだろうか。


『中也?』


中也は腕を緩め、ルナの顔を見る。黙ってしまった中也を不思議そうに見上げている。中也はルナの頬に手を触れて、顔を近づけた。



これ以上誰にもルナを傷付けさせない。


どんな強敵が現れようと、何度自分の弱さに打ちのめされようと二度と立ち上がるのを止めたりしない。ルナの傍にいる事を諦めたりしない。


こつん、と優しく額を合わせた。



「お前先刻云ったな、俺を守るって…お前が俺を守ってどうすんだよ。これからもずっと、

———————俺がお前を守る」


決して揺らぐ事ない決意の光が中也の瞳に宿る。強い光を宿すその青い瞳にルナは目を奪われた。


眩しくても目を逸らす事ができない。
暗闇を照らす光。



知らなかった感情が芽吹く。



ルナがこの感情の名を知る頃に、芽吹き始めた蕾は美しき花を咲かせるだろう。







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