第十七章 暗夜に告げる黎明の奏で
———————オークション閉会から数週間後。
ズガァァンッ!
或る部屋から凄まじい音が鳴り響く。
重さ500瓩もあるサンドバッグが壁に激突しそのまま床に落ちた。
中也はそれを睨み付けるように無言で眺め、突き出していた拳を静かに下ろした。汗が流れる。それを手の甲で拭う。
「……。」
闇のオークションであの事件が起こってから毎日のように任務後に拠点内にある訓練場に通うようになった。
ジッとしている事が出来なかった。体を動かしていないと自分の中にあるやるせなさが顔を出して抑えが効かなかったからだ。
あの日、重症のルナを連れてオークション会場から出た後、ルナは組織が管理している病院に運ばれた。一命は取り留め、意識が戻るまで首領しか知らない場所で療養していると聞いたが、その後一度たりともルナに逢っていない。
“雷光”の死は瞬く間に組織中に広がった。五大幹部の裏切りと死は組織内をざわつかせるには十分だった。彼は人望が厚く、実力もあった為戸惑う構成員が多かった。そして、“雷光”を殺したのが菊池ルナと云うことがそれを真実だけで留めないところだ。噂が根を持たずに広がり、ルナの悪評が広がる。疑心暗鬼な噂だけが構成員達の記憶に刻まれる。
あまりにも不憫だ。
ルナは大怪我をして、命だって危険に晒されたのに。
「クソッ」
中也は再び拳を振り上げ、床に倒れたサンドバッグを殴りつけた。
———————強くならなければ。
誰にも負けずに、守りたいものを守れる強さを手に入れなければ。そう自分に云い聞かせて、こうやって毎日訓練をしても強くなれる気がしなかった。ただ自分の中にある鬱憤をぶつけるように山雲に拳を振るっていると云う方が正しいのかもしれない。まるで如何しようもなく深い谷底に落ちている気分だ。
「全く毎日毎日、苦情ものだよ。騒音問題の解決は私の仕事じゃあないのだけれどねぇ」
入口の方から嫌味ったらしい声が聞こえた。中也は振り返らず「何しに来やがった」といつもより低い声で問うた。今は到底誰かと話す気分ではない為、尚更苛つきが募る。
「こんな時間に訓練かい?否、違うか。ただの子供の八つ当たりかな」
「五月蝿ぇなッ!」
茶化しに来たのか相変わらず神経を逆撫でするような物云いをする太宰に青筋を浮かべて、中也は力任せにサンドバッグを殴りつけた。その威力に形が大きく歪む。
情緒不安定。今の中也はその言葉が正しい。怒りや焦燥、失望、やるせなさ、後悔。全ての感情が綯い交ぜになり制御ができない。
最近の中也はこうだ。気を張り詰め、苛つきを抑えきれていない。そんな中也を見て部下が怯えているのも屹度今の中也の目には映らないのだろう。
重い沈黙が流れる。
中也は無言で殴りつけたサンドバッグを持ち上げ、再び天井から吊り下げる。金具が揺れる音だけが沈黙する空間を気遣うように鳴る。振り子時計のように揺れるそれを見上げながら太宰が口を開いた。
「……ルナの怪我」
中也の動きが止まる。今の中也にはその名を出す事が一番の効き目だ。太宰は漸く中也が耳を傾ける気になった事に気づき、一つ間を開けてから続けた。
「大分回復してるらしいよ。あと数日すればいつも通り任務にも出れるだろうね」
組織内でも一部の人間しかルナの怪我の事を知らない。そして、ルナが今どんな容態なのかも。太宰は天井から垂れている太い鎖が静止したのを見届けて、踵を返した。
「……それだけ。じゃ。騒音を立てるのも程々にし給えよ」
片手をヒラヒラ振って去って行く太宰。中也は漸く太宰の方に視線を向けた。
「おい、太宰」
そして、その背中に呼び掛ける。太宰が背を向けたまま足を止めた。中也は太宰に訊きたい事があった。
「手前はルナを殺そうとした“雷光”に云ったのか…
——————壊れた人形に興味はねえと」
“雷光”が云っていた言葉が本当だとしたら、たとえ太宰が“雷光”を攪乱する為に云った言葉だとしても赦さない。
「あれは手前の本心か?」
「嗚呼、そうだね。私は壊れた人形には興味ないよ」
中也が勢いよく振り返り、拳を握り締めた。しかし、その拳が太宰に届く前に「けれど」と太宰が続ける。
「私はルナが壊れたなんて思っていないし、“雷光”さんに壊されるとも思っていなかった。最初からね」
当然のように太宰はそう云った。
太宰のルナに対する扱いは普通じゃない。人間としてではなく、まるで道具のように使い、いつだって非人道的だ。だが、ルナの強さには絶対的な信頼を持っている。太宰がルナに向けるその信頼は恐らく中也がルナに向けるそれより強い。でもそれは中也がルナを大切に思ってるからだ。
「俺は…」
だからこそ、如何しようもなく自分が赦せなかった。
「俺は、何もできなかった。彼奴の一番近くにいたのに……」
自身の掌を見据え、静かな声で中也は云った。聞き逃してしまいそうなそのか細い声は中也から出ているとは思えない程弱々しい。いつもなら適当にあしらう太宰も今回はその言葉を拾うように耳をすませた。
「ルナを守ったのは俺じゃない。
……手前だ」
中也は拳を握り締めてそう云った。この言葉を太宰に云うのは厭だった。自分の負けを認めたような気がするからだ。だが、事実だ。地獄のようなあの状況からルナを救い出したのは紛れもなく太宰。
守りたかった。守ってやると云った。
ルナにそう伝えたのに、出来なかった。
中也は血が滲むくらい拳を握り締める。悔しさに肩を揺らす中也を横目に、太宰は一度視線を床に落とした。一瞬これを云うべきか悩んだが、自然と太宰の口は開いた。
「あの時、ルナは私が命令する前に立ち上がった」
“雷光”との闘いの最中、太宰の目に深く焼き付いた光景がある。ルナが“雷光”の攻撃を受けても動かなかったのは、命令がなかったからだ。“雷光”を殺す事が組織にとって利か損か、裏切り者であるか否かを判断できないルナにはあの状況を覆す事など出来やしなかった。
自分の意思のないルナを動かす為には、命令を与えてやればいい。“雷光”を殺せ、と命令すればルナは“雷光”に勝つ。命令がルナを動かし、ルナは必ずそれを遂行する。逆に云えば、命令がなければルナは自身の死すら傍観する。菊池ルナとはそう云う人間だ。
けれどあの時、ルナは太宰が命令する前に自ら動いた。雷に撃たれながら己の躰に刺さった大刀を引き抜き立ち上がった。あれは紛れもないルナの意思。あの時のルナの目が太宰の脳裏に焼きついている。オッドアイの瞳は揺るぎない意思の光を宿していた。
ルナを動かしたのは、命令ではない。
ルナの意思を呼び起こしたのは——————。
「中也、君がルナに闘う意思を与えたのだよ」
中也の目が見開かれる。中也は何も云う事が出来なかった。沈黙が二人を包む。何時も云い争っている二人だが、今日は何処か互いが何時もと違った。それは屹度心の中を掻き乱す感情の所為だ。
太宰は瞳を伏せる。こんな言葉、心底嫌いな男に云いたくはなかった。命令でしか動かない意思のない人形。それが菊池ルナだ。だから、太宰はルナをそのように扱う。それこそがルナの才能を活かす事ができるルナの使い道だ。ルナに感情なんてものは不要。誰かの為に怒り、悲しみ、動く必要なんてない。ルナには己の意思や感情など必要ないのに。
「そうやって君は、何度だってルナに与え続けるんだ」
たとえそれがルナに現れたほんの些細な変化だとしても、僅かに見えてくるその変化に太宰の心は騒つかされている。
「ほんと中也はさ。…昔から余計な事ばかりするよね」
だから嫌いなのだよ、と静かにその言葉を呟き、太宰は胸の内にあるその黒ずんだ騒つきに気付かない振りをして踵を返した。そして、中也を残したまま訓練所を出て行った。
「……五月蝿えよ、糞太宰」
一人残った訓練場で中也はそう呟いた。