第十七章 暗夜に告げる黎明の奏で
耳鳴りが、する。
金属を擦り合わせなような音がずっと頭の中で響いている。意識がはっきりしない中、その音だけが異様に長く響いていた。感じるのは、耳を劈くようなその音と、そして——————。
『(…血の、におい)』
虚だったルナの目が見開かれる。
目の前には中也がいた。ルナを庇うように覆い被さっている。ルナは乾いた喉で彼の名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
ヌルッと手に触れたその赤い液体。それが中也の背中から流れていた。
「残念だ中也。お前は判断を誤っている。何故お前がそこまでしてその小娘を庇う必要がある?」
「ッ…うる、せぇよ」
背中の傷に顔を歪めた中也がルナの肩口で血の滲んだ息を零した。ルナの頭の中で疑問が駆け巡る。
———————如何して?
如何してそこまでして私を守ってくれるの?
「その小娘は組織に禍しか齎さない。己の意思を持たない価値のない人形だ。お前が命をかけて守るような存在ではない」
「五月蝿ぇって…云ってんだろ…」
血が混じる声で中也は云った。中也は腕の中にいるルナを見つめ、先程の攻撃がルナに当たっていない事に安堵した。それと同時に怒りが込み上げてくる。
「(何で…)」
何奴も此奴もルナの存在価値を否定し、勝手に決めつける。此奴が手前等に何をした?ルナは首領の命令通りに組織の為に動いて、組織の為に尽くしているだけだ。そこにルナ自身の意思がなくとも、今までずっと首領の護衛としてポートマフィアを守ってきた。それは決して誰もが簡単に成し遂げられるものではない。
俺はそんなルナを尊敬している。
そして、ルナの事を———————。
記憶の中でいつか見たルナの笑顔が浮かんだ。
「俺にとって、ルナは特別なんだよ」
何ものにも代え難い特別で大切な存在。自分の中で大きくなるルナへの想い。守りたい。それは義務や責任じゃなく、心からそう思える存在。
「理由なんざ、それで十分だろ」
ルナへの想いが言葉となって現れた中也の声はあまりにも穏やかだった。その声はずっと耳鳴りが激しかったルナの耳に優しく響く音色のように落とされる。
なんて純粋で透明に澄んだ想いだろうか。
“雷光”はそれを黒く混濁した瞳で俯瞰する。そして、腕の中にいるルナを守るように抱き締める中也の背に向かって至極残念そうに溜息を吐いた。
「本当に残念だな中也。乃公はお前を殺したかった訳じゃないんだ。だが、お前が乃公の憚りとなるなら、この犠牲も仕方あるまい」
“雷光”は大刀を振り上げる。そして、それを何の躊躇もなくルナを庇う中也に向かって振り下ろした。
そして、“雷光”の大刀が振り下ろされる直前、
中也の体を白く細い手が突き飛ばした。
ルナの躰に大刀が突き刺さり、真っ赤な血がまるで花弁のように散り乱れる。
それと同時に落雷が落ちた。人間には耐えられない凄まじい威力の電流が躰に突き刺さった大刀を通して躰中を駆け巡る。
声にならない絶叫が辺りに響く。
ルナに突き飛ばされ“雷光”の攻撃を免れた中也は目の前の光景に絶句する。
ルナの躰に突き刺さった大刀から流れる稲妻は抉られた肉を裂き、血を焼き焦がす。
「おい…やめろ…」
止まらない稲妻をその身で受け続ければ麻痺した躰に与えられる電流が全身を引き千切るような激痛を齎す。永遠の痛みがルナを襲っている。
「やめろォッ!」
中也はルナに向かって手を伸ばした。だが、その手を阻むように“雷光”が立ち塞がる。
「いい加減、お前も諦めろ」
ルナに駆け寄ろうとした中也に“雷光”は拳に溜めた雷を中也の腹に打ち込んだ。体が云う事を聞かなくなる。中也はその場で倒れ、麻痺する体の痛みに呻いた。
「乃公の雷を一身に受ければ、遅かれ早かれ死ぬ。もうお前に勝ち目はない。最早小娘は死んだも同然だ」
「ク、ソッ!」
中也は痺れた指先に力を込めて、拳を握り締める。そんな中也を見下ろし、“雷光”は先程目の前で起こった予想だにしない出来事を思い返した。
「(まさかあの小娘が中也を庇うとはな)」
中也諸共大刀で串刺しにしようとした際、ルナは中也を突き飛ばして庇い、彼を守った。何故そんな事をしたのか。無意識だったのか。否、ルナは命令がなければ動けない。誰が殺されようが誰が死のうが命令に関係のない事ならばその身を動かす事はしない。
だが、先程の行動は咄嗟にとったものに見えた。
中也が彼女に特別な感情を抱いているように、まさかこの血塗られた少女も彼に何か特別な感情があるのだろうか。
「(感情?……莫迦莫迦しい。あの“闇の殺戮者”だぞ。マフィアの殺戮兵器、感情も意思もなく、ただ命を奪う事しかできない化け物……)」
“雷光”は大刀に串刺しにされ雷を浴び続けるルナを氷のような冷たい瞳で見やり、そして自身の掌を見つめた。
そうだ。此奴は命令がなれば何も成し遂げる事は出来ない無能品。実力を評価され、数多の功績を残し、この地位まで上り詰めた己とは違う。たかが齢15の童女。その化け物じみた力のおかげで優遇されているだけの欠陥品。
——————そうだ、首領の護衛に相応しいのは……
“雷光”は自身の掌を握り締める。握られた拳の中に己の信念を込めてそれを静かに下ろした。
「(…それにしても…)」
“雷光”は視線をルナに向ける。
「(あの小娘…一体いつまで耐えている)」
普通の人間なら死んでいる。たとえ奇跡的に生きていても意識は疾うになくなる筈だ。だが、ルナからは未だに呻き声が微かに出ている。
「…やはり化け物だな」
心の臓か首を破壊しなければ殺す事はできないのか。“雷光”はルナに近づく。だがその刹那、視界の端に超豪速で放たれる拳を捉えた。
“雷光”はそれを躱す。猛獣のような殺気を帯びた青い瞳と視線が交わった。「ぶっ殺す!」と猪のように突進してくる中也に“雷光”は呆れを含んだ溜息をこぼす。単純な物理攻撃。そんな闇雲で隙だらけの攻撃が当たる筈がない。“雷光”は体勢を立て、手に雷を集めた。そして、それをガラ空きの中也の懐に突き入れる。
辺りに眩い雷光が散りばむ。
そしてその直後、拳が“雷光”の左頬を殴り飛ばした。
何が起こったか判らないまま“雷光”の体が後方に吹き飛ぶ。判ったのは首の骨が軋んた事と巨大な柱に激突し、全身を強打した事だけだった。
「なッ…に、が」
何が起こった?
“雷光”は口から溢れた血を滴らせ、前方を見据える。視線の先には中也がいる。稲妻を浴びた筈なのにしっかりとした足取りで地面に立っている中也。あの時、慥かに中也に稲妻を打ち込んだ。ならば少なくとも数分は動ける筈がない。体の中にある神経は麻痺し、指の先すら動かせなくなる筈だ。だが、中也は反撃した。数秒しないうちに。何故。
「今回のオークション…宝石の競りに参加してよかったぜ」
中也は懐から何かを取り出した。それは、拳に収まりきらない大きさのある
それを見て“雷光”は理解した。中也が雷を受けても直ぐに動けた訳を。あの時、“雷光”の攻撃は中也に当たったのでなく、中也の懐にあった金剛石にあったのだ。金剛石は絶縁体。つまり電気を通さない。
「先刻の攻撃、雷の威力がいつもより弱かった。そのお陰でこんな宝石でも手前の攻撃を防げたぜ」
中也の云う通り先程の雷の出力はいつもの半分以下だった。それはそうしたのでなく、その威力しか出せなかったのだ。今“雷光”は雷を生み出す能力の殆どをルナに使っている。つまりルナが攻撃を受けている間、新たに生み出す雷の威力は激減してしまう。“雷光”のミスはルナに刺したまま大刀を手から離した事だ。
大刀から溢れる雷の威力や量を変えるには一度大刀に触れなくてはならない。つまり手が離れてる間は一度大刀に込めた威力のままもう一度触れてリセットするまで止まることはない。そして、今“雷光”は自身が放出できる威力の殆どをルナに刺さったままの大刀に込めている。
それに中也が気付いて先程の闇雲な攻撃で態と攻撃を喰らって反撃したのかは判らないが、慥かに今の状況は分が悪い。このままでは“闇の殺戮者”を殺しきれない。
「中也、お前は本当に諦めが悪いな。お前が乃公と拳を交えても意味はないぞ。お前が幾らあの小娘を守っても、あの小娘には立ち上がる意思はないからな」
“雷光”は口の端に垂れた血を拭う。自分の血の味は随分と久しぶりだった。“雷光”は服についた誇りを払いながら、「何故、あの小娘が乃公に刃を向けないか判るか?」と温度のない声で問い、そして続ける。
「あの白き化け物の力を遣えば乃公を噛み殺せるだろうに、それをしない。抵抗すらしない」
慥かにそうだ。ルナは一度もイヴを呼んでいない。イヴを呼んでいれば先程の攻撃も防げたかもしれないのに。何故ルナはそうしないのか。
「答えは簡単だ。あの小娘は乃公が裏切り者だと判断できないからだ。乃公は首領に危害を与えるつもりがない、寧ろ組織の為に動いている。ならば首領の命令がない以上、あの小娘は乃公を殺せない。糸の引かれない人形は再び動くことはできないからな」
“雷光”の言葉に中也は拳を握り締める。その“雷光”の答えは中也も気付いていたから。ルナは首領の命令なしに動かない。今の状況を把握し思考する事はしない。今の状況はルナにとって首領への害でも、組織への害でもない。ただ自分の死が目の前にぶら下がってるだけ。ルナはそれを俯瞰する事しかしない。自分の死はルナにとって如何でもいい事だから。
「……莫迦やろ」
中也は誰にも聞こえない声でそう呟いた。恐らく自分がルナにどんな言葉をかけても、ルナの中にある自身の命の軽さは屹度変わらない事なのだろう。でもだからこそ、死を恐れずに孤独の闇の中を生きているルナに手を伸ばしてやりたい。一人ではないと伝えたい。
「たとえルナが生きる意思を持たなくても、俺は諦めるなんざしねぇよ。俺は手前をぶっ潰して、彼奴と生きて此処を切り抜ける」
中也の青い瞳に信念の炎が宿る。その炎は決して消えることはない。その揺るぎない強い意志の籠った瞳は凡ゆるものを惹き寄せる。あと数年もすれば中也は五大幹部となり、組織の上に立つ存在として人々を魅了する人物になるだろう。
「本当に残念だな。そんなお前の姿を見れないとは」
“雷光”は心の底からそう思い、穏やかな苦笑を一つ溢した。“雷光”は中也に期待していた。それは太宰よりもだった。慥かに太宰の残した功績は恐ろしい程凄い。歴代最年少幹部として申し分ない才能だ。だが、“雷光”は五大幹部の器として相応しいのは太宰より中也だと思っていた。だからこそ、今誤った選択をしてしまった中也には酷く失望した。
「仕方ない。これ以上時間を掛ける訳にもいかないからな。疾めに小娘を始末するとしよう」
そう云った“雷光”は再び自身の体を雷の鎧で纏う。先程より威力はない。だが、無抵抗な獲物を殺すのに事足りる。“雷光”は足を踏み出した。
しかしその直前、
その場に一発の銃声が響き渡った。