第十七章 暗夜に告げる黎明の奏で
「いないな。こっちに死体が転がり続いているが」
「先に進んだのかもしれない。向こうへ行ってみよう」
バタバタと走り去って行く音が聞こえる。
時計の音だけが響く部屋。
殺伐とした外の喧騒を隔絶したかのように静かだ。
その静けさに溶け込むように中也とルナは息を潜め、ソファの背後に身を隠していた。
中也はルナの小さな体を腕の中に収め、部屋の外に人の気配を感じなくなると、一つ息を吐き出した。
「……。」
『……。』
何方も言葉を発さなかった。ただ静かな空間に溶け込むように呼吸音だけが聞こえる。あまりの互いの近さに屹度聞こえるのは自分のよりも相手の息遣いの方だろう。
ルナがずっと無言だったのは混乱していたからだ。背中に回った中也の腕。強く抱き締められて、身を捩ることも出来なかった。中也の心臓の音が聞こえる。
———————何故、中也は……
ただその疑問だけが残る。何故、中也は敵から隠れ、自分を庇ってくれているのだろうか。その腕はまるでこの世の敵意から守るように優しく包み込んでくれる。
なんて安心する温もりだろうか。先刻迄胸をざわつかせていた不安が、なくなっていく。代わりに鼓動がいつもより速い気がした。それは決して厭な鼓動ではなく。擽ったい音を立てている。ルナは張り詰めた糸を緩めるように躰の力を抜いた。
トクン、トクン。
何方か判らない鼓動が鳴っている。
中也は腕の中にいる存在を確かめるようにルナの躰を引き寄せた。
小柄で、華奢な躰。
この小さな躰一つで幾多もの敵意を浴びるのはどれ程のものなのだろうか。襲いくる敵を殺し、血を浴び、幾つもの屍の道を歩まなければならないその業は、到底齢15歳の少女に背負えるものではない。
無慈悲で、残虐な“闇の殺戮者”。
たとえそれがルナについた異名だとしても、たとえ誰もがルナを恐れたとしても、この腕の中にいる温もりの温かさを知っているのは、
—————俺だけでいい。
中也はルナを抱き締める腕に力を込めた。ぎゅっとその躰を引き寄せる。更に密着して、二人の間に鳴る心臓の音が何方のものか判らなかった。
「ルナ、大丈夫だ」
そっと囁くようにそう呟けば、ルナの強張っていた躰から力が抜けた。そして、如何していいか判らなかった小さな手が中也の服を掴む。まるで縋るように。
『———ね』
「ん?」
何か云ったルナに耳を澄ませる。
『中也は、温かいね』
迚も穏やかな声だった。まるで眠る前の微睡のような声音。殺戮の中に生きるルナにとって唯一の安らげる場所が自分の腕の中なら、こんなにも嬉しい事はない。
ルナの髪は柔らかい。躰だって小さくて柔い。
ルナを近くに感じて、心臓が五月蝿い。
「(嗚呼、くそ)」
自分の中にあるルナへの想いは大きくなるばかりだ。それをルナに伝えられないでいるもどかしさが酷く心を締め付ける。
—————お前が好きだ。
そう伝えたらルナはどんな顔をするだろうか。今、耳元でそう囁いたら、少しでもルナが浴びる血塗られた敵意から解放してやる事はできるだろうか。
「(流石に……今はそんな状況じゃねぇか)」
襲いくる敵から身を潜めていても、何時見つかるか判らない状況。そんな緊迫した状況で伝える言葉ではない。
今伝えるべき言葉は、血で染まった業をたった一人で背負うルナをこれ以上孤独に歩ませない事だ。
「俺が守ってやる」
***
———————俺が守ってやる。
中也が云った言葉が何度も頭の中で繰り返された。そんな言葉一度だって誰かに云われた事はない。首領の護衛が自分の仕事で、自分は護られる立場の人間ではないから。
『(如何して中也は…)』
中也は何故守ろうとしてくれるのだろう。中也にとって自分は一体どんな存在なのだろう。
中也は自分を一人の人間として見てくれる。
自分にはそんな資格ないのに。
———————中也にとって、私って何?
その答えを知りたくてルナは中也の腕の中で身を捩り、そっと顔を上げた。ぱちっと二人の目が合う。
互いの息遣いが唇に触れる。少し動かしたら唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離。青い瞳にはルナだけが映っていて、オッドアイの瞳には中也だけが映っていた。
互いの鼓動が聞こえる。
「ッ…そ、そろそろ移動するか」
中也は赤くなった顔を隠すようにルナの肩を掴んで自分の胸から離させる。あと数センチで触れてしまいそうだった距離を理性で振り切り、中也は早口でそう云った。
「此処に居てもいずれ見つかっちまうからな」
『……うん』
立ち上がった中也を見上げ、ルナは小さく頷いた。そして、ルナも立ち上がり、自身の掌を見つめる。中也が離れてしまったから温もりが躰から消えていく。自分だけの体温がいつもより冷たく感じた。
「時間が経てば敵も増えてく。疾く会場をでねぇと」
『…それは、無理』
ルナのその言葉に眉を顰めた中也。ルナは無表情のまま口を開き、太宰が敵に囚われている事、その太宰の救出を首領から任された事を中也に伝えた。それを伝える際、中也が物凄く顔を顰めていたのは、捕虜になったのが太宰だから、と云う他ない。