第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ




 



——————4年前。



ルナは走っていた。


いつも無表情で感情の一切も感じられない彼女が珍しくその顔に不安を滲ませ、息を切らして走る。


拠点に辿り着いたルナは上層へと昇る昇降機には乗らず階段を駆け上がる。昇降機を待つよりも自身の足の方が疾かったからだ。


10階以上の階段を駆け上がり、医務室がある階へと。廊下を走っていれば見知った者達の背中が見えた。ルナが駆け寄ると足音に気付いたその者達が振り返る。その場にいたのは、太宰と広津。そして、広津に背おられた血だらけの中也だった。


「…誰かと思えば、如何したんだい?ルナ。そんなに慌てて」


太宰は慌てた様子のルナにきょとんと首を傾げる。ルナは太宰を無視して、その隣にいた広津に背おられている中也に不安気に視線を向けた。


「大丈夫です。今は気絶してしているだけですので。怪我は酷いですが…」

『何で……こんな怪我を…』


ルナは恐る恐る背おられている中也に寄り、その血だらけの顔に手を伸ばした。


「汚濁を使っただけさ。相手が少々厄介な連中でね。此処最近面倒な殲滅任務ばっかで厭になるよ」


ルナは中也の顔についている血をそっと拭い、瞳を揺らす。それ以降の太宰の話は耳に入ってこなかった。“双黒”と呼ばれるようになって、中也と太宰は二人でよく任務に出ている。そして、過酷な任務で中也は汚濁を使う。その度にいつも酷い怪我をして帰ってくる。一歩間違えれば命を危険に晒す程の禁じ手だと云うのに。




その後、中也は医務室に運ばれた。


「そのミニゴリラは体力だけが取り柄なんだから直ぐに目を覚ますさ。それと、近々また殲滅任務がある。起きたら準備を整えてくように伝えといてね」


じゃ、と冷めた様子で医務室を出て云った太宰に頭を下げた広津は無言で中也が眠るベッドの横に座ったまま動かないルナを一瞥した。しかし、何も云わずに静かに頭を下げて医務室を後にした。


2人残った医務室は迚も静かだった。
中也の寝息だけが白い空間に響く。


『……中也』


ルナは眠る彼の名を小さく囁く。そして、力無くベッドに置かれているその手に触れ、その温もりを肌で感じた。


もし、いつかこの温もりがなくなってしまったら。


そう考えると胸が張り裂けそうになって、耐えられなかった。





**


ぺら、ぺら、と本の頁が無造作に捲られる。


「今なんて云った?良く聞こえなかったのだけれど」

『……これ以上、中也に汚濁を使わせないで』


表紙に完全自殺読本と書かれた本を読んでいた太宰は視線だけを上げ、無表情に執務机の前に立つルナを見据える。


「何故?」

『………。』

「理由がないんじゃ話にならない」


再び本に視線を落とした太宰は椅子を回してルナに背を向けた。これ以上話す事も聞く耳も持たないとその背中が云っている。



ルナは視線を下に向ける。脳裏に浮かぶのは傷だらけの中也の姿。汚濁を使う度に命を危険に晒してボロボロになって帰ってくる。その姿を見る度に、ルナの心を荒れ狂う嵐のようにざわつかせる。


だから、もう、これ以上は。


『中也が傷付くの…見たくない、から』


ルナの声はあまりに静かだった。けれど、その声には感情が込められている。


だが、そんなルナの想い諸共封じ込めるように本がパタンッと音を立てて閉じられた。


「作戦に変更はないさ。一週間後も殲滅任務がある。今回の敵組織は銃撃が効かない厄介な連中だ。そんな奴等を一匹残らず殲滅しなくちゃならない。その為の作戦の要が中也だ」


太宰は椅子の向きを変え、本を机に置いた後、頬杖を付いて、暗い瞳でルナを見やる。


「それとも君は中也一人に傷一つ付けさせない為に、無力の構成員達を無駄死にさせるって云うのかい?」

『………。』

「作戦の変更はしない。他に用がないなら出てってくれ給えよ」


太宰は五大幹部の一人。その作戦立案はいつも完璧で、任務を失敗した事などない。今回の任務も中也の力が最適解であると判断しての事なのだろう。


そんな事は判っている。


だがそこで引き下がる程、今のルナの心は空っぽではなかった。


『敵を殲滅すればいいんでしょ。なら、中也じゃなくもていい』


まさかルナがこれ以上口を開くとは思っていなかった太宰は一瞬目を瞠いた。だが、直ぐに暗い瞳に戻した。


「その代役を誰がする」

『私』


ルナは胸に手を置いて自分を指した。中也が汚濁を使わなくてもいい方法は一つ。自分が中也の代わりになればいい。ただそれだけだ。


『私が中也の代わりに敵を殲滅する。一週間後の任務も、その後の任務も。
だから、お願い。

———————中也に汚濁を使わせないで』



ルナの瞳は下を向く事もなく真っ直ぐ太宰に向けられている。太宰はそのオッドアイの瞳を見た瞬間に形容し難い黒い感情が胸の内から沸々と湧き上がるのを感じた。それは何度も太宰の心を黒く染め上げて、抑え切れなくなる。


「成程。それが条件か」


そして、太宰は椅子から立ち上がり、ルナの方へ歩み寄る。背の低いルナの前に立ち、見下ろす形になれると、ルナは太宰を見上げた。


「だが、その条件を呑むか否かは私が決める。でなければ不公平になる」

『なら、如何すればいいの?』

「君は私にそれ相応の対価を払うべきだ」


突如、バキッと鈍い音が部屋に響いた。


ルナが床に倒れる。口の中が切れ、口の端から血が流れた。


太宰が自身の拳を鳴らしながら床に倒れたルナを黒く冷徹な目で見据える。ルナは殴られた頬を押さえることもせず、ただ床に座り込んでいるだけ。


その拳を避ける事などルナには出来た筈なのにそれをしなかった。太宰はルナの胸倉を掴み上げ、無理矢理その瞳を覗き込む。空虚なオッドアイの瞳がそこにあった。


「無抵抗、か。矢張り君は相変わらずだね」


今のルナには口の中に広がる血の味意外に感じる事はない。痛みすら感じない。感じる資格はないと目の前の暗い瞳が命じている気がしたから。


太宰は無抵抗なルナを硬い床に放り投げ、その小さな躰の上に馬乗りになった。そして、拳を振り上げた。



その夜、硬く閉じられた執務室から鈍い音が何度も何度も響き渡り、


———————軈て何も聞こえなくなった。





**



汚濁による怪我が治り、一週間後の事だった。



記憶が正しければ今夜は例の厄介な任務があった気がしたのだが、その任務に中也が参加する事はなかった。



一週間前の任務では流石に汚濁を長く使い過ぎて体が万全ではなかったからか首領である森が任務から外したのかと思った。だが、聞いてみると如何やらそうでもないようで、「太宰君が作戦立案を変更したのだよ」と森は一つ息を吐いていつもより硬い声でそう云っていた。



その次の日だった。


中也がルナに逢ったのは。



「如何した……手前…その怪我」



中也はルナのその姿を見て目を見開く。


右腕は包帯で巻かれ、首から三角巾で吊るしてある。脚と額には包帯。右頬には大きなガーゼが貼られていた。


その姿はまさに大怪我だ。


ルナにしては珍しいその怪我に中也は目を瞠いたままその場を動く事が出来なかった。


「任務…でか?」


ルナは首を振った。


じゃあ何だ?と聞いてもルナは『何でもないよ』と首を横に振るだけ。


何でもない訳ない。普段あまり大きな怪我をしないルナが顔を腫れさせ、首から布をぶら下げて腕を固定している。骨が折れているのだろう。任務じゃないとしたら一体その怪我は何なのか。


『中也』


ルナは訳が判らず固まっている中也の目の前まで歩み寄って、折れていない左手で中也の頬に触れた。そして、青い瞳を見つめ、心配そうに中也の顔を覗き込んだ。


『汚濁の怪我……もう大丈夫?』

「……嗚呼、何ともねぇよ。それより手前の方が…」


ルナは何も云わず小さく微笑む。そして、中也の胸に頭を預け、そっと目を閉じた。


中也は胸に寄り掛かったルナを見据える。ルナの手がぎゅっと服を掴んで離さない。ルナはそれ以上口を開こうとしなかった。だから、中也はルナを問い詰める事なく、ただその小さな躰を優しく抱き締める。



その怪我は一体誰にやられたのか。


その問いが喉まで出かかっていたが、それが言葉になる事はなかった。


その答えを中也が知るのはそれから暫く経った頃。


そして、そこに隠された真実を知ったのは、それから更に4年後。



———————“吸血蝶事件”が起こった際だった。








***





———————現在、“吸血蝶事件”から数日後。



薬品と血の混じった匂いのする部屋。


ルナが横たわる白いベッドの傍で、中也は意識のない彼女を見つめていた。少し離れたその後ろでは白衣を着た森がいる。


「中也君、君も怪我人なんだ。それに昨日から全く寝ていないだろう。心配な気持ちは判るけれど自分の部屋に戻って休みなさい」

「……はい。………いや、でも俺は大丈夫です。ルナが目覚めるまで、此処にいます」


ベットの上で眠るルナを見つめたままそう云った中也に森を目を伏せ、「無理はしないようにね」とだけ伝え医務室を後にした。


部屋にはルナの小さな呼吸音だけが響き渡る。枯れ葉が水辺に波紋を作る音のように小さく響くそれを聞きながら中也はそっとルナに手を伸ばした。


包帯が巻かれた手に触れ、壊れ物を扱うように優しく握り、その手を自身の額に当てた。


「ルナ」


ルナの呼吸音と同じように消えてしまいそうな声で彼女の名を呟いた中也はその包帯が巻かれた手に温かな温もりが戻るのをただ願う事しかできなかった。





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