第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ





———————記憶は躰に刻まれる。





炎の熱さは、過去で知っていた。


それが齎す苦しみも、痛みも。


だが、初めてそれをこの躰に感じた時、苦しみと痛みがどんなものであるのか知らなかった。


それを知らずに、誰の許へも届かないまま声にも音にもならず、ただ慟哭するだけ。



後はそのまま暗闇の中へと落ちていく。


その闇が何処へ向かうのか判らないまま。


そして、再び目覚めた時にはいつも“あの空間”にいた。







そして、あの時と同じ。


今も私は此処にいる。


———————イヴがいるその空間。


私とイヴだけの世界。


イヴはその巨躯を伏せたまま赤い瞳で私を眺めている。


私はゆっくりとイヴに歩み寄り、その美しい白銀の毛に触れた。






***




『————…ん』



白く霞んだ意識。


ボヤける視界には天井が見えた。



ルナははっきりしない意識のまま暫くその白い天井を茫っと眺める。


『……わた、し』


自分は今寝台の上で寝ているのだろうか。肌に感じるシーツの感触と鼻を掠める消毒液の匂い。


『(そっか……炎の中から出れたのか…)』


段々と意識がはっきりとしてきて、女王と吸血蝶達を炎で焼き殺した時の事を思い出した。その後、自力で燃え盛る炎の中を脱出出来たのかその記憶はあまり定かではないが。


ルナはそっと躰を動かす。思ったより躰は楽で直ぐに上体を起こせた。よくよく自分の躰を見れば至る所に包帯が巻かれている。頭や腕、脚、腹にも。


ルナは自身の腹を摩る。記憶が正しければ自分で自分の腹を貫いたのだが、痛みは全くなかった。炎で焼かれた筈の皮膚も特に痛みはない。不思議に思い、躰中に巻かれているその包帯を解く。


『傷が……ない…』


そこは傷どころか傷跡すらなかった。


『(………イヴの治癒の力が前より増してる)』


その変化に気付き、ルナは自身の胸に手を当てる。慥かにイヴの力が躰中に巡った痕跡を感じた。まるで血液が流れるように。


『………。』


ルナはふぅと息を吐き出し、胸から手を離した。そして、ふと此処は何処だろうと辺りを見渡して、驚く。


『……びっくりした。いたんだ。気付かなかった』


ルナは思わず肩を揺らして口元を手で押さえ、小声で呟いた。


ルナが寝ていた寝台の横に中也がいた。中也は寝台に寄せた椅子に座ったまま静かに眠っている。


ルナは眠っている彼の顔を覗き込んだ。


その寝顔を見るに眠りはあまり心地よさそうではなかった。眉間には皺がより、隈が酷い。寝台でゆっくり休めばいいのに、此処にいるのは意識が戻らないルナを心配して傍にいてくれたのだろう。


『—————中也』


手を伸ばし、眠っている中也の頬にそっと触れる。綺麗な顔には傷が出来ていた。微かに血の匂いもする。袖に隠れて見えないが、恐らく右肩の傷からだろう。今回の任務で中也がどれだけ傷を負ったのか。それを考えるとルナの胸が張り裂けそうになった。



「ん…」


青い瞳がゆっくりと開かれる。


数度瞬きを繰り返した中也はその青い瞳にルナを映した。そして、数秒して覚醒する。


「ッ!ルナお前!」


ルナが目覚めている事に驚いた中也は勢いよく椅子から立ち上がり、ルナの肩を掴んだ。その勢いにルナは一度目を瞬かせたが、ふっと口元を緩め『おはよ』と朝の挨拶みたいに柔らかく微笑んだ。


「……馬鹿野郎…無茶しやがって」


中也はそう云ってルナの頭を引き寄せ、こつん、と額を合わせた。ルナはされるがままその中也の温もりを感じて、そっと目を閉じた。


『そうだ。吸血蝶は如何なったの?』

「全部焼け死んだ。もう何も残っちゃいねぇ」

『そっか。よかった』

「よくねぇよ」


安堵の息を零すルナを遮るように中也が云った。顔を上げれば、怒りに顔を顰めた中也の顔があった。


「何であんな真似をした。あんな…自分を犠牲にするような。一歩間違えればお前は危なかったんだぞ」


中也は怒った口調で云った。無理もない。屹度死ぬ程心配させた。中也に何も云わずに行った今回の事は、中也を悲しませると判ってやった事だ。


『(判ってた。中也にこんな顔をさせてしまう事…。
でも…)』


けれど、やらなければならなかった。



ルナは伏せていた顔を上げ、真っ直ぐに中也の瞳を見つめる。


『私は後悔してない』

「ルナッ」

『中也に何て云われようと、私は中也を守る為に何度だって自分の躰を犠牲にする事を厭わないよ』

「ッ…俺は……」


ルナの強い覚悟が宿った瞳を見て中也は開こうとした口を一度結んだ。奥歯を噛み締め、一度吐き出してしまいたい言葉を呑み込み、代わりにルナの手を取って自分の方に引き寄せた。


「俺は、お前が傷付くのをこれ以上見たくねぇ」


あの時、伸ばした手はルナに届かなかった。何度叫んでも、ルナの姿は遠くなる。今こうして、この手に触れられていたとしても、いつか二度と触れられなくなってしまうのではないか。そんな恐怖が指先から体温を奪っていく。


「俺がお前を守るべきなんだ。なのに、お前はいつも“俺の為に”と手の届かないところに行っちまう」


中也の声はどんどん弱々しくなり、手の力も緩くなる。そして、握られた手から温もりが離れ、青い瞳に影が落ちた。


「俺が……

——————お前を傷付けちまうんだな」

『違うッ!!』


中也の口から紡がれた言葉に目を見開き、ルナは叫ぶように否定した。離れた温もりを手放さないように中也の手を両手で握りしめる。


まるで泣くのを我慢する少年のよう。中也の手が微かに震えていた。やるせなさや後悔、自責、そして自分自身への怒り。それら全てを抱えて、中也の心は暗い海底の中にいる。



『違う…違うよ中也。……そんな風に思わないで』


中也にそんな思いさせてしまって、ルナは胸が張り裂けそうだった。でも、それは中也も同じ。大切な人に守られて、その人が傷付くのは耐えられない。


ルナは中也の手を強く握り締めてその手を自身の額に持っていく。その手が離れないように。近くに。


中也の気持ちは十二分に判る。


判るからこそ、譲れないものがある。


『ねぇ、中也』


囁くようなルナの呼び掛けに中也は落としていた視線を上げ、ルナを見やる。真剣な表情。ルナはその表情のまま、ずいっと中也に顔を近づけた。


『花畑に行こ!』


そして、突然そう云った。


「は?」


素っ頓狂な声を上げた中也を余所にルナは中也の手を取ったまま寝台から飛び降り、そのまま駆け出すように中也の手を引いた。今先刻まで意識が戻らなかった重症人とは思えない軽やかさで駆け出したルナに中也は訳が判らずただ手を引かれるしかなかった。









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