第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ





「何、訳判らねぇ事云ってやがる。誰が手前の下僕になんざなるかよ」


中也は痛みに悲鳴をあげる体を無理矢理動かして上体をお越し、腕に刺さっている剣を抜きながら女王を鋭く睨み付ける。


「何を勘違いしてんのか知らねぇが。俺はそこの糞鯖と違って手前のような阿婆擦れ女にはこれっぽっちも興味はねぇ。手前と取引をするつもりはねぇし、彼奴を殺そうとした手前を赦すつもりもねぇ」


女王は口許の笑みを袖で隠し、鋭い眼光を宿している中也を見下ろす。今迄の男達は自分をそのような瞳で見る事はなかった。圧倒的な美貌を持つ女王を前にすれば、毒で苦しみ踠く男達の瞳にはその美しさは女神のように映っていた。故に苦しみから解放される為に女王を求め、快楽のままにその身を委ねる。


今迄、そう云う男達を虜にしてきた。


だが、今目の前にいるこの男は違う。
その瞳に宿るのは、怒りと嫌悪。


その冷たい眼差しを向けられ、女王は今まで貼り付けていた仮面のような笑みを解いた。


「私、強がりな男は嫌いじゃないわ。そして、既に他の女のものである男もね。だって気に入らないもの。だからこそ、好きなの。矛盾してる?でも、仕方ないじゃない」


女王は一歩一歩中也に近づく。蝶が周りを飛び回る。そのうちの何匹かが、その羽から毒の粉を撒き散らしながら、中也の傷口に止まった。傷口から毒が入り込む。その不快感に中也は眉を顰め、それを振り払おうとしたが、女王の白い手が汗を垂らす中也の頬を掴んだ。



体が思うように動かない。


女王の瞳が怪しく光り、無理矢理に中也と目を合わす。


「堪らなく快感なの。この私を拒んだ男が、結局は私の腕の中で欲に溺れる。その姿が迚も滑稽で、愛しいの」


女王は毒で動けない中也の上に馬乗りになり、着ていたドレスの紐を緩めた。大きな乳房を晒し恍惚と表情を浮かべた女王が自身の赤い唇をペロリと舐め、血が流れる中也の傷口に唇を寄せる。


「蝶達の毒が混じった素敵な血の匂い。興奮するわ」

「て、めッ」


女王は手を滑らせて、中也の首筋に触れる。鳥肌が立つようなその手つきに中也は顔を歪めたが、お構いなしに女王は中也の服に手を掛けた。




だが、その瞬間、


女王の右腕に銃弾が貫通した。



女王は目を瞠り、銃弾が飛来してきた方へと視線を向ける。



そこには銃口を此方に向け、凄まじい殺気を放つ血だらけの女がいた。


『触るな……その、汚い手で……中也にッ』


鋭い眼光を放つオッドアイは狂気に満ちている。その姿はまさに地獄の使者。その凄まじい殺気を受けた女王はその場から動けなかった。


「ッ……ルナ…」


中也は朦朧とする意識の中から呼び起こされるようにルナの名を呼んだ。そして、彼女の姿を視界に捉える。外套も、髪も、白い肌までも血だらけで、今のルナが纏う雰囲気は尋常ではなかった。


ルナは折れた脚を忘れたかのように地面を抉る勢いで地を蹴り、中也の上に跨る女王に刃を振り上げた。


胸から右肩にかけて肉が裂ける。蹌踉めく女王の横腹に目にも止まらぬ疾さで蹴りを入れれば、女王の体はいとも簡単に水平に吹き飛んだ。


ルナは蹴り飛ばした勢いに躰を蹌踉めかせ、その場に膝をつく。息が酷く荒い。過呼吸を起こしそうな喉で無理矢理息を呑み込み、ルナは地面に座り込んだまま背後を振り返った。


中也は地面から上体を起こし、ルナを見据えていた。ルナも中也を見据えた。


『ハァ、ッ……ちゅ、や』

「お前、その怪我…ぐッ」

『っ!中也ッ!』


ルナに手を伸ばそうとした中也だが右肩の痛みにそれは叶わなかった。ルナは慌てて中也の元に駆け寄り、その右肩の傷を見る。傷は深い。剣が貫通しただけでなく、そこから吸血蝶の毒も侵入しているのだろう。中也の額に汗が滲み、呼吸が荒い。


『中也、疾く此処を出て手当しないと』


ルナは痛みが走る躰に鞭を打って立ち上がり、中也の傍に寄る。


「太宰さん!中也さん!ルナちゃん!」


その時、何処からか敦の声が聞こえた。そして、太宰の名前を呼ぶ芥川の声も。汗を滲ませ此方に駆け寄って来た敦と芥川の二人は不安げな表情で傷だらけの三人を見遣った。


「大丈夫ですか太宰さん!?それに、中也さんも、ルナちゃんも…」

『私は大丈夫。それより最後の護衛団の一人を倒せたの?』


ルナの問いに敦と芥川は頷く。護衛団の一人である“No.5”は異能力が厄介であるが、護衛団の中では唯一の非戦闘員だった。逃げようとした其奴を捕まえるのには少し苦労したが、何とかこれで護衛団の全員を無力化出来た訳だ。


『そう。なら、後はアレだけだね』


ルナの視線の先に全員が目を向ける。それを見た敦と芥川が目を瞠り、冷や汗を垂らした。



———————アレは一体何だ?



幾多もの吸血蝶達が騒つきながらそれの周りを飛んでいた。胸から右肩にかけてザックリと割れた傷口に蝶達が集まっている。まるで呑み込まれるように蝶達が裂かれた肉の細胞となり、その体を再生していく。


その光景はあまりにも異様だった。


「やはり、ね」


敦に支えられながら、上体を起こした太宰が異様なその光景に微かに汗を滲ませながら呟いた。


「あれが蝶華楼の女王の本当の姿だよ」

「え?……アレが、女王…?」


太宰の言葉に敦が戸惑う。




手足と首は人間の体では曲がらない方向へひしゃげ、肩から胸にかけて肉が深く裂かれ、骨が剥き出しになっている。


しかし、それらが蝶によって再生していく。



その姿は最早人間ではない。
そして、異能とも違う“何か”。


組合のラブクラフトや嘗てルナが破壊した“大地の悪魔”のような異形のもの。



———————人の形を為した怪物だ。



見る見るうちにルナにつけられた傷が蝶達によって塞がっていく。目に生気を取り戻した女王は美しい顔を歪めて、血走った目でルナを睨みつけた。


「アンタ…そうよ、そこの醜い女よ。アンタ、穢らわしい溝鼠の分際で、こんなにも美しい私の体に傷を付けたわね。赦さないわ、赦さないわ、絶対に」


女王の怒りに反応するようにより一層蝶達が乱舞するように飛び回る。


「何だ…?っ…眩暈が…」


敦が自身の体に異変を感じて、頭を押さえた。その様子を見たルナが辺りを見渡す。


吸血蝶がこの場に集まって来ている。その数は先程の10倍、100倍と割れた壁の隙間から溢れるように何匹も何匹も溢れ出てきていた。


『まさか……あの部屋の繭から出てきたの?』


だとしたら、このままでは拙い事になる。この数の蝶が一箇所に集まればこの空間に毒の瘴気が満ちる。そうなれば人体には一溜まりもないだろう。


ルナは急いで自身の首に巻かれているマフラーを解き、それを血を流す中也の腕に巻いて止血する。


『蝶達が集まってきてる。このままじゃ皆毒でやられる。だから、苦しいと思うけどなるべく息を止めててね』

「……ルナ、お前」


何かを察して口を開いた中也の言葉を遮るようにルナは一度優しく微笑み、中也の顔についている血をそっと拭った。その儚さが残る笑みを見て中也がルナに手を伸ばしたが、ルナは短刀を握り締めて立ち上がった。


『龍ちゃん、人虎君。中也と太宰を連れて今すぐこの拠点から出て』

「え?…ルナちゃんは?」


短刀を手に横を通り過ぎたルナを不安げに見据えたまま敦がそう問えば、ルナは振り返り真剣な眼差しで続けた。


『女王を生かしておく訳にはいかない。それにこの蝶達もね。此処は私が何としても食い止めるから。だから、二人を連れて死ぬ気で此処を5分で出て』

「ご、5分…?」

「御意」


戸惑う敦に対して、芥川はルナの言葉に何も聞かずに頷いた。そして、動けない中也の肩を担ぐ。これはルナからの命令だ。5分以内に中也と太宰を無事にこの拠点から離れさせる事。それが今ルナから任された任務。


「人虎。太宰さんを連れて着いて来い。先程のリフトを使うぞ」

「わ、判った。…ッ!」


しかし、行手を阻むかのように吸血蝶達が5人の周りを旋回するように飛び回る。敦と芥川は口許を押さえて息を止めた。この毒を吸えば体が動かなくなっていく。羅生門で切り裂こうにも数が多過ぎて攻撃は効かないに等しい。このままでは一人の脱出も不可能だ。


「うッ!…くそ……」

「中也さん!」


この中で一番毒を盛られた中也がえずいた。顔が蒼白で意識も朦朧としている。これ以上毒を吸えば危うい。ルナはそんな中也を見て額から冷汗を垂らし、自身の外套を漁る。


『(如何しよう……一層の事、今……。否、駄目だ。それじゃ、中也達も巻き添えになる。……せめて吸血蝶を……!)』



———————吸血蝶。


ルナはハッとある事に気づいた。


吸血蝶は血を好む。
ならば、この蝶達をこの場に留める方法が一つある。



「っ…おいッ……待て。ルナ、何をするつもりだ」


芥川の肩に支えられていた中也がルナに視線を向ける。全員が振り返るとそこには短刀の刃先を自分に向けたルナがいた。


『中也、私の事は心配しないで無事に此処から出てね。龍ちゃん、中也を頼んだよ』


ルナはそう云って微笑むと、


———————振り翳した短刀で自身の腹を貫いた。


『ッ!』


辺りに大量の血が飛び散る。


鮮やかな赤が腹部から溢れ出した。
それはまるで彼岸花が咲き誇るかのように。


鮮血が発する香りに飛び回っていた蝶達が一瞬動きを止めた。そして、極上の花の蜜を見つけたかのようにその場にいた吸血蝶達は一斉にルナに群がる。



全員が息をするのも忘れてその光景を見ていた。


花に群がる蝶はその蜜を採取する為に羽を休める。まさにその光景だ。だが、今の光景はそんな可愛らしいものではない。万を超える蝶達が血を採取する為に人間に群がるその光景はまさに地獄絵図だ。


「ルナッ!」


中也がルナに駆け寄ろうと肩を支えていた芥川を振り払おうとした。だが一瞬、蝶達が群がる隙間からルナの強い意志が籠った瞳が見えた気がした芥川は歯を食いしばって中也の腕を掴んだ。そして、中也を羅生門の黒布で無理矢理担ぎ、そのまま上へと向かう電動リフトに向かって駆け出した。


「行くぞ!人虎!」 

「芥川手前ッ!離せ!」


中也が強く抵抗したが芥川は振り返らなかった。敦は芥川に担がれたまま必死にルナに手を伸ばそうとする中也を見て、胸が張り裂けそうだった。だが、如何すればいいのか判らなかった。このままでは誰も助からなくなる。だが、ルナ一人を身代わりに、自分達だけ逃げてもいいのかという葛藤が敦の判断を鈍らせる。


「敦君、此処はルナに任せるんだ」


肩を支えていた太宰が毒の所為で額から汗を流しながら敦にそう云った。しかし、敦は太宰の顔を見て、葛藤の渦の中から抜け出せた。何故なら太宰が小さく微笑んでいたから。


その笑みはいつも窮地から脱出する際に太宰が見せる微笑みだった。その笑みを見るといつも太宰の言葉は正しいと思わせてくれる。信じる事ができる。


「判りました」


敦は力強く頷く。そして、芥川の後に続いて駆け出した。もう、彼は振り返らなかった。



だが、胸は酷く痛む。
ルナの名を叫ぶ中也の声が耳の中で反響して苦しかった。






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