第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ
地下の秘密通路から地上へ出た。
雨上がりの外は空気が澱んでいて、霧が辺りを包んでいる。人気のないその場所で、何処からか水滴の落ちる音だけが響いていた。
「この先に蝶華楼の拠点がある筈だ」
高く聳え立つ壁。灰色のそれに囲まれたその通りは一直線に伸びている。霧によって影しか見えないがその遥か奥に大きな建造物が見えた。この灰色の壁はまるで城に続く塀のような造りだった。此処が入口だとしたらこのまま真っ直ぐ進むと敵に見つかる可能性は高いだろうが、霧のお陰で少しは姿が隠せそうだ。恐らくそれは敵も同じだろうが。
五人はその道を静かに歩く。敵陣地に踏み込む緊張感はいつだって足を重くさせる。自分の呼吸音すら煩わしく、雨粒が地面に落ちる瞬間さえ見逃せない。
そしてその最中、ピタッとルナが立ち止まる。遅れて他の四人もルナが歩みを止めた事に気づき、足を止めた。
『来る』
ルナは懐から短刀を抜いた。そして前方でなく、後ろに振り返った。全員がルナの視線の先を見遣る。
霧に紛れて、人影がゆらゆらと動いていた。ゆったりと歩いてきたその人物は大きな何かを担ぎながらその姿を現した。
「おいおいおい。女王様の新しい下僕がいんのかと思ったら、お前等他所もんじゃねぇかよぉ」
この場に似つかないテンションで現れたその男。若い男だ。ボサボサの髪を掻きむしり、持っていた巨大な何かを地面に置いて、溜息を吐いた。一つ異様だったのは、首元に怪しげな蝶の刺青がある事だった。
「仕事帰りだぞ?勘弁してくれよ。これから女王様に仕事終わりの疲れを慰めて貰おうってのにまた仕事か?やってやらねぇよ」
顔に手を当てて空を仰いだ男はそう愚痴を溢す。静かな場所には不釣り合いな男の声。独り言だろうがお構いなしに大声で喋る男を見据え、一番に口を開いたのは太宰だった。
「女王様って云うのは君達の長のことかな?」
太宰が男にそう問いかける。上を向いていた男が視線を此方にやり、ぎょろりと目を回した。
「かーッお前いい男じゃねぇか。女王様が気にいる顔だ。……あ?よく見ればお前等全員美形…………まさか揃いも揃って女王様の御膝元に入ろってか?
———————よぉし、今すぐぶっ殺す」
男の目の色が変わる。そして次の瞬間には腰から下げていた短機関銃を手に取りいきなりそれを此方にぶっ放した。
「空間断絶!」
五人の前に出た芥川が異能で銃弾を回避する。男の手にある短機関銃から幾つもの空薬莢が落ち、地面の上で跳ねた。
鳴り止まない銃声。
空間が断絶され当たらない弾。
これ以上撃っても意味がないと悟った男は舌打ちを溢して、銃を下ろした。
「やるじゃないか芥川君」
「当然です。この程度の攻撃、太宰さんに当たらず全て僕が受け流して見せましょう」
いつにも増して芥川はやる気モードだ。師である太宰の前で失態は許されない。ましてやこの場には敦までいる。敦より目立ち、彼より優秀である処を太宰に見せなくてはと芥川は一人闘志を燃やしていた。
「おい芥川巫山戯んな。こっちには流れ弾が来てんだよ」
その声に気づき芥川が振り向くと、銃弾を手で止め青筋を浮かべている中也と短刀で弾を弾いたであろうルナがいた。その背後には手を虎化させた敦も。
「……すみません。其方には人虎がいた故、護ってやる義理はないかと」
「何だと芥川!」
当然のようにそう云った芥川に敦は拳を振り上げて怒る。喧嘩を始めそうな二人を太宰は面白そうに宥めた。そんな様子に中也とルナは溜め息を吐く。
「何だよお前等異能力者がいるのかよ。然も銃が効かねぇ異能とか。止めだ止め」
敵陣地で暢気に騒いでいる間に男は持っていた短機関銃を地面に投げ捨てた。五人は云い合いを止め、男を見やる。首元に蝶の刺青が入った男は先程地面に置いた巨大なそれを持ち上げて、此方にそれを向けた。
それは巨大な大砲。暗い大きな銃口の奥が強く光り始める。ゾワッと背筋が逆立った。
「これは拙い。逃げろ」
太宰が冷汗を垂らして前方に駆け出した。その掛け声に続いて全員が駆け出す。あの男が大砲を構えた時の身の毛がよだつ程の存在感。その場にいた全員が判った。あれを喰らったら一溜りもないと。
「此処は一本道だぜぇ。どんなに距離を取ろうと逃げられねぇよッ!!」
男の叫び声が聞こえた刹那、巨大な大砲から光が放たれた。その光線は地面を抉り、壁を吹き飛ばす。凄まじ威力で地上を走って行ったその光は数秒後には消え、そこには土煙だけが舞い上がっていた。
「おっとと、やべぇやべぇ。女王様の城まで吹き飛ばしちまう処だった。いけねぇよなぁ。嫉妬でおいたが過ぎると御褒美を頂けなくなっちまうからなぁ」
髪を掻きむしりながら男は持っていた大砲を肩に担ぐ。男は気分良く口笛を吹きながら抉られた地面の道を歩いていく。大砲の威力で霧を吹き飛ばしたはいいが、代わりに土煙が酷く先程より視界が悪かった。
「そう云やぁ先刻女もいた気がしたが、惜しい事をしたなぁ。俺の大砲をまともに喰らったら骨まで残らねぇし。侵入者は全員ぶっ殺したって報告しても御褒美を貰えるのは女王様の気分次第だからなぁ。何なら女王様に逢う前にあの女で発散できたらよかったのによぉ。やっちま………」
男は言葉と足を止めた。その理由は土煙が舞う前方に巨大な影が揺らめいたからだ。
光線によりそこには何も残らない筈だった。生き物であれば骨すら残らない威力がこの大砲にはある。しかし、それは当然のようにそこにいた。
土埃が晴れ、視界が露わになる。
そして、その影の正体が何か判った。
———————巨大な白銀の獣。
赤い瞳を光らせ、鋭い牙と爪がギラリと光る。姿形は狼に似ている。だが、それはこの世にいるどんな生物とも違う。あまりにも異様であり、それ故に恐ろしかった。
『まさかその程度の攻撃で死んだと思った?』
その巨大な獣の背後から聞こえた声。男が其方に視線をやれば、先程吹き飛ばしたと思った五人が全くの無傷でそこにいた。
男は瞠目したまま声を発する事も出来なかった。今までこの攻撃を受けて無事であった者などいなかった。だが、目の前の連中は当然のようにそこに立っている。男は震える手を握りしめて、乾いた笑みを溢した。
「は、はは。マジかよ。やべぇなお前等…」
果たしてヤバいのはどれだろうか。目の前の白銀の獣だろうか。そのオッドアイの瞳を見て男は悟った。あの異様な獣を呼び寄せたのは、誰であるか。
「やべぇ奴等なら尚更生きて行かせる訳にゃいかねぇなぁ!」
男は大砲を構え直し、もう一度それを放った。だが今度は先程の切り裂くような光線とは違う球のような形の光弾。それが吸い込まれるように五人に向かって飛来した。しかし、その光弾を白銀の獣が尾を盾のようにして防ぐ。
「チッ。んじゃもう一発特大のを受けてみなッ!」
男は再び威力の高い光線を放つ為に大砲を構え直し、出力装填をしようとした。
『噛みちぎっていいよ、イヴ』
だが、それは出来なかった。突然、手から大砲の重みがなくなる。否、なくなったのは大砲だけでなく、自身の腕すらも。
何が起きた判らなかった。気付いたときには腕から血飛沫が上がっており、前方にいた筈の白銀の獣の姿がない。瞠目する視界の中で、冷たいオッドアイの瞳が此方を無情に眺めているのが見えた。
***
ゴッ、と鈍い音が鳴る。
「殺すなよ中也。その男にはまだ聞きたい事があるのだからねぇ」
「五月蝿ェ判ってる。一々命令すんな」
中也は腕と口から血を流し青白くなっている男の顔から足を退けて、太宰に舌打ちを零した。
「君はお喋りだと思っていたのだけれど案外口を割らないね。その忠誠心は君の云う女王様へのかな?」
ぐたりと瓦礫に寄り掛かっている男の前に屈み込み太宰が問いかけるが、男は血を流す口を歪めて不敵な笑みを零した。
「そうさ。女王様は秘密をペラペラと喋る男は好みじゃねぇからなぁ。たとえここで死んでも女王様に嫌われんのは勘弁だぜ」
薄ら笑いを浮かべる男は閉じていた目を開け、そこにいる五人を見遣る。砂色の外套を着た男、洒落た格好の背の低い男、貧弱そうな細身の男、気弱そうな少年。そして、異様に目を惹く髪と瞳を持っている女。幼い顔立ちをしているが、迚も端正な顔立ちをしている。
男は口元の笑みを更に深くして、顔を上げた。
「まあ、そこの女を最後に抱かせてくれるってーなら考えなくもねぇけどなぁ」
男の不埒な発言に中也が眉を吊り上げて怒りのままに顔面を踏みつける。再びその場に鈍い音が鳴った。
「手前、言葉には気を付けろよ。今すぐこの頭を踏み潰してもいいんだぞ」
「はっ、何だお前その女の男かぁ?女王様の城に女連れでくるたぁ不躾だなぁ」
顔面を強く踏みつけられたまま笑みを絶やさない男に異端さを感じる。中也は舌打ちを零して、薄ら笑いを浮かべる顔面を乱暴に蹴り離せば男は頭から血を流しながら更に声を出して笑った。
「おい糞太宰。これ以上は時間の無駄だ。もう殺していいだろ」
「このままほっとけば孰れ出血多量で死ぬさ。まあ、慥かにこれ以上この場に留まる訳にも行かない。行こう」
太宰は立ち上がり、踵を返す。男は朦朧とする意識の中、残った手で自身の首元にある刺青に触れた。そして、そのまま掠れた笑い声を上げて離れていく五人へ云った。
「お前等の中で誰が女王様に選ばれるか見ものだねぇ。だが、気をつけろよ。女王様の側には女王様を護る騎士がいるからなぁ」
男の言葉に太宰が振り返る。男は天を仰ぎながら何処か遠くを見ていた。
「女王を護る騎士?」
「嗚呼そうさ。5人の護衛団。奴等は強えぞ。特にNo.1とNo.2はな。まあ、せいぜい気をつけろよ」
「…何故今になってそんな事を話したんだい?」
太宰の言葉に男を天を仰いでいた顔を前方に向け、ある方の腕を前に出して指を3本立てた。
「理由は三つだ。一つ、俺は其奴等とは気が合わねぇ。二つ、女王様が其奴等を特別扱いしてるから更に気に食わねえ。三つ、これが一番の理由だが…、最後に女王様以外のイイ女に逢えた事」
ふっ、と男が笑みを零す。その笑みを再び漂ってきた白い霧が掠めていく。軈て、男の姿を見えなくした。
中也は最後に見えなくなった男を睨み付け、ルナの手を引き寄せて守るように肩を寄せた。
「何だったんだあの野郎。最後まで気色悪ィ奴だな」
『本当だね。一々発言に鳥肌が立つよ』
突然現れた首元に蝶の刺繍のある大砲の男。恐らく彼は蝶華楼の構成員なのだろう。そして、その男が零した“5人の護衛団”という輩と“女王様”と呼ばれている人物。この未知で謎めいた組織は想像以上に厄介な相手かもしれない。
だが、此処で立ち止まる訳にはいかない。
蝶華楼の拠点へ向かって、太宰、中也、ルナ、芥川、敦の五人は白い霧の中を突き進む。
視界さえ眩ます濃霧の中で聳え立つ巨大な建物へと向かう五人の姿を一つの人影が静かに見据えていた。