第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ



ひら、ひら、と舞う。


朦朧とする意識の中で、男の耳に入ってきたのは歌だった。


妖艶でいて、美しい声が聞こえてくる。


体が酷く怠い。仰向けに寝転がり、薄汚れた天井を眺める。焦点が合わない視界の中で、ただ何かが舞っているのが見えた。体が動かなくなり暫くして背中に当たる地面の冷たさも感じなくなった時にそんな美しい歌が聴こえてくるものだから、まるで天使様がお迎え来られたのだと男は思った。


歌が聞こえなくなった。何かがひらひらと舞う視界に人がいたように見えた。そのまま冷たい体に温もりが触れた。


———————赤い、赤い、華?


弧を描いたそれが近づいてきて、そのまま何も考えられなくなった。



何が起きているのか、今自分が何をしているのか判らなかった。


だが、一つ判ったのは意識を手放す直前に感じたこと。


それは恐怖ではなく、



—————————快感だった。






***






透明な硝子に映るオッドアイの瞳。



ルナは机に置かれた標本瓶の中でひらひらと飛んでいるものを硝子越しに覗き込んでいた。


「これが例の危険生物ですか?」


ルナと同じく標本瓶の中で飛んでいるそれと手元の資料を見比べながら中也が問う。その問いに頷き、手を組んだ森が続けた。


「その見た目に反して危険な毒を持っている。その羽についた粉が毒であり、飛ぶことで散布する。その毒は人体に有害で、それが体内に大量に入ると全身の痺れと意識の朦朧を起こし、最悪死に至る。と云っても一匹だけなら倦怠感が起こる程度の毒だがね」

『ふーん、こんな蝶々がねぇ』


ルナは特殊な標本瓶の中でひらひらと飛ぶ蝶を目で追いながら瓶をコツコツと指で叩く。瓶の中では蝶が羽を動かす度にキラキラとした粉が舞い散った。


見た目は普通の蝶だ。色鮮やかで、アゲハ蝶くらいの大きさがある。しかし、普通の蝶と違う点が一つ。真っ赤に染まったその目の色が、普通の蝶とは明らかに違う点だった。


「その蝶は普通の蝶とは明らかに異端でね。人間の血を好み、花の蜜ではなく人に集り血液を採取する。それ故に“吸血蝶”とも呼ばれている。更に血を吸う際に大量の毒を送り込むそうだ。その毒は羽の粉より猛毒らしい」

「そりゃ随分と厄介な生物ですね。しかし、何故こんな生物が横浜に?」

「それなのだよ。嘗て大戦末期に国内に持ち込まれたものらしいが、その後直ぐに絶滅した筈だった。なのに今こうして再び横浜で発見された。それも1匹、2匹の話ではない。突然数が爆発的に増えた。否、現れたと云った方が正しいかもしれない」

「それはつまり…人為的な何かが関係してると?」


中也の問いに森は頷く。手を組み直した森が小さく息を吐き出して続けた。


「何者かの異能力による可能性もある」


森はいつになく神妙なお面持ちで云った。ルナは瓶の中にいる蝶から目を離して、森を見やる。森はいつもと何処か違った。それを感じ取ったルナは会議室内を見渡した。


此処にいるのは森の他に、中也、ルナ、芥川の3人。まさかこの3人でこの危険生物の駆除でもさせるのだろうか。それにしては森の表情は何処か硬い。



「その組織の名は、“蝶華楼”」


考え事をしていた時、ふと入ってきた言葉にルナは顔を上げる。いつの間にか書類を手に持った芥川が立ち上がって話をしていた。


「この組織は嘗て構成員の数も少数で力もなき弱体組織。黒社会の抗争でも底辺を這い蹲る事しかできぬ組織故、今まで名すら認知されていなかった組織です」

「それが今になって力をつけ、“蝶華楼”なんつー名を語ってるってのか?」

「はい」


ルナは視線をキョロキョロとさせ、取り敢えず相槌を打っておいた。


『(しまった。聞いてなかった)』


何故、危険生物の話からそんな組織の話になってるのか。一人考え事をしていて上の空だったので話が掴めない。まるで学校の教師の話を聞いておらず質問に当てられてしまう前のような緊張だ。


「ルナちゃんは如何思うかね?」


ほら、こういう時に限って話を振られるのだ。ルナは口角を引き攣らせて云った。


『えーっと、もしかしてその組織がこの蝶と関係してたりして?』

「………お前、話聞いてなかっただろ」


隣に座ってる中也が呆れた溜息を吐き出して云った。ルナは視線を逸らす。選んだ発言が博打だった。話を聞いていなかったことを証明する決定打の問いにルナは数秒前の自分を殴りたい気分だった。


「その組織の頭目がその蝶を持ち込んだ犯人の可能性が高い。“蝶華楼”なんつー組織名を語り始めたのも其奴が組織の長の座についてからだ。そこから弱体傾向だった組織が急激に力をつけたんだとよ。判ったか?」

『流石先輩。説明フォローありがと』

「誰が先輩だ。それに今のは全部芥川がした話だからな。ちゃんと聞いてやれよ」


ケホ、と芥川が咳をする。微妙な雰囲気になってしまった。ルナはちらりと森を見やる。森は手を組み、何かを黙考していたが、ふと顔を上げた。


「まだ我々組織に重大な被害が出ているわけではない。だが、火種は消しておくべきだ。この件は、頼んだよ」


中也と芥川が立ち上がり、頭を下げた。ルナは座ったまま頬杖をつき、机にある標本瓶を見やる。赤い目をした蝶が羽を休め、静かに此方を見据えていた気がした。


「それと、ルナちゃん——————」


その蝶をじっと見つめていれば、森がルナに呼びかける。ルナは蝶から視線を離して、森に目をやった。やはりそこにはいつもと雰囲気が違う森がいた。中也と芥川もそれを感じとり、その場を出ていく。


森とルナだけになった会議室。ルナはその暗い紫の瞳を見やり、頬杖を解いて森に向き直った。森は静まり返った室内の空気を吸い、ゆっくりと口を開いた。





***





風が吹いた。


ふわり、と花を揺らした風はそのまま遠くへ去っていく。


「あ、蝶々」


蜜が詰まった花に鮮やかな蝶がとまる。いつもなら、それを微笑ましく眺めていたのだが、今の心境ではそれができなかった。


「もしかして、この蝶も……」

「それは普通の蝶だよ、敦君」


背後から聞こえた声に蝶を眺めていた敦が振り返る。いつも通り悠々としているその声の主は花に止まっている蝶を指差した。


「ほら、この蝶は目が黒いだろう」

「あ、本当だ。国木田さんの話ならあの蝶は目が赤いんですよね」


そうと判っても無闇に近づく事は出来なかった。敦は神妙な顔つきのまま蝶が花から離れ、飛んでいくのを眺める。


「疾くこの件を解決しましょう。国木田さんの為にも」

「私は国木田君が羨ましい〜」


伸びをしながら冗談なのか本気なのか判らない事を云った彼に敦は溜息を吐いた。今、武装探偵社では大変な事態になっていると云うのに相変わらずこの上司は暢気だ、と呆れながらも敦は気を取り直して真剣な顔を向けた。


「真面目にやって下さいね、太宰さん……。それで、これから逢う協力者とは一体誰なんです?」


ふと、伸びを止め太宰がゆっくりと振り返る。鷲色の瞳が、一瞬影を持ち、そして口角を上げて云った。



「蝶を誘き寄せる花かな」








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