第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ
クラッシックな音楽。
静かにゆったりと流れる音色が室内の雰囲気を一層醸し出す。
その音色に合わせるように色彩豊かな照明が照らす小さな舞台には着飾った女性が踊り、周りには高級な楽器を持った男達が洗練された手つきで音楽を奏でている。そして、それを楽しむ観客の手には高級な酒が入ったグラスがあった。
此処は、横浜にある或るバーだ。
人気のないひっそりとした暗い路地裏の奥。下へと続く階段を下りれば淡い洋燈が照らす扉がある。Openと書かれたその扉を開ければ紳士的なバーテンダー達が声を揃えて「いらっしゃいませ」と出迎える。
人知れず或るバーだが、遅い時間程よく賑わう。大人の嗜みを求めてこの店に来る客は多い。
部屋の中央で酒の入った観客が盛り上がっている中でも、ひっそりと静かな空間もあった。
一人のバーテンダーが立つカウンター。その端の席に中也は座っていた。
机の上には高級な葡萄酒が入ったボトルとグラス。時にグラスを回し、氷とグラスが共鳴する音を楽しみながら酒を味わう。
以前仕事帰りに偶々寄ったこのバーは酒の味は勿論、室内の雰囲気も、流れる音楽も自分好みで最近の中也のお気に入りだった。だから今夜も仕事終わりにこうして一人美味しい葡萄酒を楽しんでいる。
中也はグラスを机に置き、カウンターから見える棚に綺麗に並べられている様々な葡萄酒を眺める。
「(あの酒…と、あれ、次来た時飲んでみるか)」
次回に飲む葡萄酒を物色しながらぼーっとそれらを眺めていれば、空席だった筈の隣の席に誰かが座った気配を感じた。視線だけ横に向ければ、そこには着飾った女が真っ赤な唇に弧を描いて、此方に笑みを向けた。
「こんばんは。お兄さんすっごく素敵ね。私この店の常連なんだけど、お兄さん最近よく来るでしょ?ずっと格好いいなぁって思ってたの」
「……。」
これは所謂逆ナンという奴なのだろうか。先程までいい気分で一人静かに楽しんでいたというのに一気に台無しだ。
厚化粧のその女は露出の多い派手なドレスを着ていて、香水のような強い匂いが鼻を刺した。思わず中也は眉間に皺を寄せて、視線を前に戻す。
「ねぇ、お兄さんお名前何て云うの?」
中也は女の問いには答えず代わりにグラスに残っていた葡萄酒を飲み干す。その様子を見ていた女は気を引こうと中也との距離を詰め顔を覗き込んできた。
「此処のお酒美味しいわよね。飲んだ後はとても気分が良くなるの。でも、体は何だかいつも物足りなくてね」
ねぇ、貴方もそう思わない?と女は身を乗り出し、誘惑するように大胆に開けた胸元を見せつける。赤い唇を態とゆっくり動かしながら内緒話をするように口元に手を翳して続けた。
「でも、大丈夫。この近くにホテルがあるの。よかったら、そこで」
「おい悪い事ァ云わねぇ。俺の隣には座れねぇ方がいいぞ」
女の言葉に被せるように中也は飲み干したグラスを置き、そう忠告した。しかし、漸く中也が口を開いた事に気分を良くした女は、その忠告を聞かずに机に置いてある中也の手に手を伸ばした。
「そんな警戒しないで。私、貴方が相手なら————」
———————ズダンッ!!!!!
バーの中に凄まじい音が響き渡る。女は声を失い、顔を青褪めさせて自身の手を見据えた。黒手袋を嵌めた手に重ねようとした手。人差し指と中指の間に銀色の刃がギラリと光る。
先程まで鳴っていた楽器の演奏が止まり、辺りは静まり返っていた。今ではその場にいる全員がカウンター席に向いている。
『ねぇ、そこ邪魔』
絶対零度の冷酷な瞳が女を見下ろす。女は震える手を机から離し、そのまま赤い唇を青紫にしながら逃げるように去って行った。その背中を鋭い目つきで睨み付けて、ルナは机を貫通した短刀を抜き、それを懐にしまった。
「お前なァ、俺の手まで貫通するだろうが」
『他の女に握られるよりマシでしょ』
冗談なのか判らないその言葉に顔を引き攣らせ中也は立ち上がった。先程まで流暢に流れていた音楽がぎごちなく始まった。誰も此方に目を合わせようとしないし、話し声もしない。
最近のお気に入りのバーだったがこの分ではもう来れそうにもなかった。中也は机に金を置いて、早足に扉に向かう。後ろから聞こえた「あ、ありがとうございました…」と云うバーテンダーの気弱な挨拶を最後に店を後にした。
「仕事は終わったのか?」
『うん』
「そうか。明日は急ぎの仕事もねぇし……ホテル、泊まってくか?」
如何でもいい女に誘われたって気分が悪くなるだけだ。だが、たった一人の女だけは違う。寧ろ、そのお誘いは自分の方から。
中也はルナを見やる。先程まで嫉妬で機嫌の悪かったルナだが、今では嬉しそうに微笑んでいた。