第二章 過去に抗う者達よ



横浜を照らす夕陽。
赤橙のそれは美しく空を覆い、街を染めた。夕陽に向かっていく二羽の鳥がまるでその空の主になったかのように翼を広げて飛んでいる。


その二羽の鳥が向かっていく空をルナは空虚な瞳で眺めた。まだ見えぬ敵を見据えるように。


横浜に落ちる前に白鯨を破壊しなさい。


その首領の命を受けたルナは白鯨落下地点と予測された場所にいた。ルナの背後にいるのは巨大な獣、イヴ。暖かい風が吹くたびにイヴの白銀の毛を揺らしキラキラと光らせていた。


イヴは前に立つルナに擦り寄るように顔を寄せる。そんなイヴにルナは空から視線を外して微笑んだ。そして、その白銀の毛を優しく撫でる。



その時、ルナのポケットから振動が鳴った。ルナは片手でイヴを撫でながら振動する携帯を取り出す。知らない番号だ。だが、ルナは躊躇わず釦を押して耳に当てた。


『……誰?』

「やあ、ルナ。私だよ」


その声を聞いてルナは一度無言になったが、ゆっくりと溜息を零し、『何の用?』と電話口の向こうにいる太宰に問いかけた。


「君に協力を頼みたくてね」

『協力……?』


太宰の言葉に眉間に皺を寄せるルナ。一体何に協力しろというのか。


「そう協力。鏡花ちゃんを助ける為のね」

『何で私?』

「君は彼女の師だったのだろう?」

『師であった事が協力する理由にはならない』


冷淡な声でそう云ったルナ。そんなルナの言葉に「確かにその通りだ」と太宰は否定しなかった。そして、「だが……」と太宰はゆっくりと言葉を続ける。


「鏡花ちゃんを闇から救える唯一の手は君だ。闇から抜け出す為に、彼女は彼女を縛る鎖を断ち切らなくてはならない。しかし、その鎖を切ることは容易じゃない」

『……私に、何をしろっていうの?』

「彼女と話をするだけでいい」


太宰はそれだけ云ってルナの返答を待った。暫くの沈黙。ルナは一度瞳を閉じた後、ゆっくりと開く。


『……わかった』


ルナは静かな声でそう呟いた。そして、その言葉を聞いた太宰は一度微笑んだ後、「数分後、掛け直す」と伝え通話を切った。



**



『久し振り、鏡花ちゃん』


数分後、掛かってきた電話。それが直接、鏡花と繋がっている事が判ったルナは一番初めにそう声を掛けた。鏡花からの返答はない。だが、代わりに不規則な息遣いが聞こえてくる。


『明るい世界を見たんだって?』

〈……ッ。〉

『どうだった?』


鏡花は膝を抱えた儘黙り込んだ。上手く呼吸が出来ない口は酸素を求める魚のように開いたり閉じたりを繰り返して言葉を発せない。だが、そんな鏡花をルナは催促しなかった。電話の向こうに耳を傾けた儘鏡花が話し始めるのを待つ。そして、ゆっくりと小さな声が聞こえてきた。


「楽し、かった。クレープも美味しかった……。誰も殺さなくていい、そんな世界で生きたい、と思った。
……でも、私には眩し過ぎた」


ルナは初めて鏡花の思い言葉を聞いた気がした。そして、『そう』と呟いた後、瞳を閉じたルナ。そのまま、話し始める。


『ねぇ、鏡花ちゃん。私は暗殺において沢山の事を貴方に教えた。それを教える中で私も思ったよ。貴方には暗殺の才能があるって。でも、それと同時に思った。貴方は闇に染まり切らない子だと。貴方と私の違い、それは失ってしまったか、……抑も最初から何もないか、の違いなの』


ルナは細く瞳を開けて地面を見つめた。その瞳には光はない。遠い過去の記憶が頭を過ぎったからだ。だが、それは一瞬で消え、直ぐに暖かな光がルナの心の内に広がっていく。瞼の裏に浮かび上がる黒帽子の彼。ルナは口元に優しい笑みを浮かべ乍ら瞳を開け、言葉を紡いだ。


『でも、今の私と鏡花ちゃんには共通点がある。
___それは、守りたい人ができたこと』


ルナのその言葉に俯いていた鏡花は目を見開いて顔を上げた。あまりにもルナが優しい声をしていたからだ。それは今まで聞いたどんな声よりも温かく鏡花の耳に触れる。


『___その人の傍にいたい。
その場所が闇だろうと光だろうと関係ない。ずっと傍にいたいなら、過去に抗って、足掻いて……たとえ自分の手が汚れていても、伸ばされた手に必死になって縋り付いて、自分の力で守らなくちゃ………そうでしょう?鏡花ちゃん』



鏡花の頬を温かな雫が伝った。それは止めどなく大きな瞳から流れていく涙。そして、その涙が零れる度に心の鎖が解けていき、瞳に光が戻っていく。


『自分の居場所は自分の手で守りなさい。
それが貴方の師として私が教える最後の言葉。
………切るよ』


プツッと切れた通話。無人機の中に声を上げて泣く鏡花の声が響き渡る。嗚咽を零しながら途切れ途切れで紡いだ“ありがとう”という言葉は透明な涙を流す少女の心に絡みついた最後の鎖を溶かしていった。







**



私は切った携帯の画面を暫く見つめていた。私と話した事で鏡花ちゃんを救えたかどうかは判らないけれど、後は彼女がどうしたいかだ。


『誰も殺さなくていい世界、か。
私には想像がつかないなぁ……。』


鏡花ちゃんは35人殺したと云うけれど、私はもう何人殺したとか覚えていない。数えられない程命を奪った事は確かだ。この手はもう洗い流せないくらい血に染まっている。でも、それを不快と思わない事が彼女との違いであるのかもしれない。


私は暫く自分の手を見詰めていた。
その時、ピクッとイヴの耳が動く。私に擦り寄っていた顔を上げて空に向かって唸り出すイヴ。牙を剥き出しにして、鼻の上に皺を寄せた威嚇。私もイヴと同じように空を見上げた。


その瞬間、雲の中から姿を現した白鯨。轟音と共にその巨大な機械の塊が落ちてきている。 龍ちゃんと虎の彼は組合の長に敗れたのだろうか?___否、違う。別の何かが白鯨を操っているんだ。


やっぱり、私がやるしかないか。


そう思った時、視界の端に入った一機の飛行機。それは真っ直ぐに白鯨へと向かっていく。その飛行機を見て、私の頭に鏡花ちゃんの顔が浮かんだ。


『……決めたんだね』


無意識に私は口元に笑みを浮かべていた。無人機が白鯨に衝突し、大きな音を立てて共に海へと落ちていく。


海に浮かんだ白鯨。


夕日に照らされてキラキラと輝く海が戦いの終わりを告げるように静かに凪いでいた。


こうして___横浜を巻き込んだ巨大な異能力戦争は幕を閉じた。




***


次の日の夕刻。
窓から差し込む夕焼けの光が照らす部屋に四つの椅子が並んでいる。そして、そこに腰掛けるのは森、ルナ、中也、紅葉の四人。手にはワインの入ったグラスを持っていた。


「ロマネの六十四年ものです」

「善いのかえ?秘蔵の品じゃろ」

「今日よりもコイツを開けるのに相応しい日があるってのかい?姐さん」

『私に隠してまで取って置いたのにね』

「手前が俺んちの酒瓶割るからだろうが」


青筋を立ててルナを睨みつける中也だがルナは中也に視線を向けずにワイングラスを回していた。


「勝利に」


森がそう云ってグラスを上げたのを合図に全員が同じようにグラスを上げる。


一口飲み、「これは旨い」と感嘆の声を上げた森。高級な酒というだけでなく、勝利を祝う酒は格別だ。


「首領、芥川の処罰は如何します?」

「処罰?彼は今回の功労者だ。それに芥川君は昔からそうだよ。独走し破壊し、結果的に最大の貢献をする。彼なりの嗅覚だろうね。成功している限り処罰はない」


森と中也の会話を聞きルナはワインに映る自分の顔を見ながら笑みを浮かべた。芥川の独走癖には手を焼く事も多いが、それを上回る成果を出す彼は流石と云うべきか。それは首領も同じ考えらしい。


「処で、紅葉君。探偵社に囚われた時、何故逃げなかったのかね?君なら脱出は容易だったろう」

「却説、何故じゃったか…。茶が旨かったからかのう」


紅葉は探偵社に囚われていた時に太宰と話した事を思い出す。鏡花を救う為の計画。その取引をしようと話を持ち出してきた太宰は恐らく凡てを予測して、彼の頭に描き出したシナリオを実行していったのだろう。


「太宰は今回の結末まで凡て見えておった。恐ろしい男じゃ」

「紅葉君。君は強い……君がマフィアここから去る気なら、追うのは難しいだろうね」


紅葉が探偵社から逃げなかった理由。それは鏡花を救う為であると森は判っているからこそ、彼女がマフィアから抜けた今同じように紅葉もマフィアを抜けるのかと遠回しに問うた。


だが、紅葉は口元に優しい笑みを浮かべて「無論じゃ」と答える。確かに紅葉が本気でマフィアを抜けたいと思うなら出来るだろう。だが、それをしないのは紅葉にとって今のマフィアが居場所であるからだ。その思いを胸にしまって、紅葉は揶揄うように笑った。


「じゃが、生憎と頼りない首領が組織を立て直す手伝いがあるでのう」


紅葉の言葉に一度目を見開いた森だが、その後にふっと笑みを零す。


「嬉しい話だが。
私の守備範囲は十二歳以下だよ?」

「黙れ、口を縫い合わすぞ」


真剣なものから一変した雰囲気。楽しげに話す二人の会話から外れ、一杯目で酔った中也が「太宰ィィ!次は絶対死なす!!」と叫んでいる。そんな中也を横目に呆れた溜息を吐いたルナはこれ以上酔わせない為に中也の手からグラスを奪い取った。そして、取り返そうとしてくる中也の手を避けながら残った酒を飲み干したのだった。











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