第十四章 あの空をもう一度見れるなら
『ポートマフィアは労働基準法を見習うべきだよ』
「マフィアがそんなホワイト企業な訳ねぇだろ」
今は任務中。例の事件で勃発した抗争が漸く鎮まる中、未だに鎮火仕切れていない火種もある。今夜はそんな組織の殲滅だ。敵拠点へ芥川率いる遊撃部隊が襲撃している間に中也とルナは建物から少し離れた林の中に身を潜み、逃げ出てきた残党を排除する役目だ。
『はーあ、ほーんと首領は人使いが荒いよ全く』
木の陰に隠れながらルナが不貞腐れたように愚痴を溢す。中也はそんなルナを横目で見やる。ルナは木から落ちてきた葉っぱを空中で掴み、それを指でくるくると回して遊んでいる。任務中だというのに何て緊張感の無さだろうか。
中也はルナの横顔をジッと見据えた。もうとっくに痛みはないのだろう。いつものようにそこには赤い右眼がある。
『何?』
回していた木の葉を放ったルナが中也の視線に問いかける。ルナを見据えたまま考え事をしていた中也だが、ルナが此方を覗き込んできた事に気づき首を振った。
「いや、何でもねぇよ。考え事してた」
『任務中に余計な事考えちゃ駄目だよ』
「どの口が云ってんだ手前は」
ルナと同じように木に寄りかかった中也が青筋を浮かべてルナを睨んだ。だが、ルナはその睨みを無視して中也との間を詰める。
『ふふ、嘘。中也、私の事考えてたでしょ』
「……。」
恐らく視線でバレたのだろう。中也は何とも云えない顔をして腕を組んだ。ルナ自身は気にした事ではないと思うので話そうか迷ったが、中途半端な間を空けてしまった為中也は渋々と口を開く。
「…先刻、樋口が車の中で云ってたろ。根も葉もねぇ噂の事」
『嗚呼、その事ね』
ルナはカラカラと笑い肩を竦めた。矢張りルナの反応を見ればその噂を気にも留めていない事が判った。
今回の事件で生まれた噂。ルナに関する噂は殆ど善いものなしだ。悪が悪を呼ぶように悪い噂は根を持たずに拡張する。そして今回もまた然り。
『相馬藍花は死んだ。それも直属の上司である菊池ルナに殺されて…って。まぁ、間違ってないけどね』
「違ぇだろ。…そうじゃ、ねぇだろ」
中也は拳を握りしめる。裏社会にあって根を持たない噂が蔓延るように存在しているのは当然だ。中也もそれを理解しているし、それを一々気にしていたらキリがないと云ってしまえばその通りだ。
だが、真実を知っているからこそ、その噂には腹が立った。
『相馬藍花が死んだ事は事実だよ。そして、殺したのも私』
ルナは抑揚のない声でそう云った。オッドアイの瞳は何処か遠くを見つめるように、空の上で輝く星達に向けられている。
屹度その噂は、偽りで真実を隠す事への代償なのだろう。だからこそそれを決めたルナは虚偽の罰を受けなくてならない。だが、ルナは後悔などしていない。
『中也が気にする事じゃないよ。どんな噂が立とうと、私は自分の決めた事に背を向けない。その勇気を中也がくれたから』
ルナはそう云って笑った。
ルナはずっと首領の命令で生きてきた。何をするにも自分で決める事はしない。自分の意思ではなく、首領の命令がルナの行動を決める。
そんな生き方をしてきたルナが自分の意思で決めた事。首領の命令でもなく、自分の意思で。
己の意思に従う。
人にとってそれは当然にできる事なのだろう。だが、それがどれだけ当たり前の事だろうと、ルナは違う。否、違った。だからこそ、自分の意思な従った決断はルナにとってそれだけ勇気のいる事だったのだ。
『中也が私の弱さを受け止めてくれる。それだけで私は救われてるよ』
ルナは中也の肩に頭を預ける。安心する居場所が直ぐ隣にある。その幸せに浸るようにルナは中也に寄り添ったままそっと目を閉じた。
中也は自身の肩に寄り掛かるルナを見やる。ルナは微笑みながら目を閉じている。中也はそんなルナを見つめ、そっとルナの頭に唇を寄せた。そして、その愛しい存在に口付ける。
ルナはその静かな接吻に気づき一瞬目を見開いたが、直ぐに気付かないふりをして再び目を閉じた。あまりにもその口付けが優しかったから。
「仕事がひと段落したら、首領に休みを貰うか。久しぶりに二人でゆっくり過ごそうぜ」
中也のその囁くような声に胸の鼓動が疾くなる。胸の内から鳴り響くこの音が中也に聞こえてしまうだろうか。でも、この心音は迚も心地よい。もしかしたら中也の鼓動も同じように鳴っているのかもしれない。
『うん』
任務中である事さえ忘れてしまう程、この時間が幸せだ。
幸せ……。
パンッ!!
『……。』
寄りかかっていた木の幹を何処からか飛んできた銃弾が掠めた。耳元で鳴った不快な音。唇を寄せていた中也が離れ、後ろを振り返った。
「建物から逃げ出てきた残党かぁ?思ったより逃げ足が疾ぇな」
中也は木の陰から出て、その場にいた敵組織の連中を見渡す。ざっと20人はいる。重武装のところを見ると逃げ出てきた輩という訳ではなさそうだ。
「嵌められたのは貴様等の方だポートマフィア。我等は逃走兵ではない。この建物は囮。中にいる貴様等の仲間をこの爆弾で吹っ飛ばされたくなければ……がっ!!」
起爆装置を掲げた男が突然額から血を流して倒れた。脳天のど真ん中を撃ち抜いた銃弾。男は起爆装置を掲げた姿勢のまま絶命した。
そのあまりにも一瞬の出来事に中也は目を瞬かせた。だが、背中に感じる恐ろしい程の怒気に身震いして、中也は冷や汗を垂らしながら背後を振り返る。
『本当にさぁ何の?ねぇ?此間から。私と中也の佳い
———————織姫も我慢の限界かな』
織姫…?とその場の全員がその可愛らしい言葉に疑問を持った。どう考えても今凄まじい殺気を放っている彼女は地獄の閻魔だ。
「(やべぇ、完全にキレてる…)」
自分が向けられている訳でもないのに中也までその殺気にはゾッとした。ルナの足元から湧き出た影がルナの怒りに呼応するようにその巨躯を表す。
一対の赤い瞳が鋭く光り、地獄の鐘を鳴らすかのように白銀の獣が咆哮を上げた。
絶叫、地響き、咆哮。
中也はその場に突っ立ったまま、怒り狂っている自称織姫の暴虐を見届ける事しか出来なかった。
、、、、、、、、。
「……何があったんですか?これ」
建物の中に残っていた残党を始末した遊撃部隊は外で待機している中也達の元へと帰ってきた。というより、外から聞こえた凄まじい轟音が気になり、急いで戻ってきたのだが、既にそこは襲撃前と激変していた。
先程まで生い茂っていた木々は薙ぎ倒され、寧ろ荒地状態。巨大な竜巻でも通り過ぎたかのようだ。
荒地を呆然と見据える樋口は頬を引き攣らせてその惨状を指差した。所々人間だったものが転がってる気がする。最早地獄絵図だ。
「ルナが暴れたんだよ」
中也は溜息を吐き出して、隣にいる犯人を指差す。当の本人は膨れっ面でそっぽを向いていた。
「何故?」
当たり前の疑問が思わず樋口の喉から出た。当初の作戦ではルナが暴れるなどなかった筈だが。
『だって、ムカついたから』
腕を組んで当然と反省の色もなく云い切ったルナにその場の全員が思った。ルナの悪い噂が絶たないのはこのような行いが原因でもあるのでは?と。誰もが思ったが、誰もそれを口には出来ず、その場の後処理を開始させたのだった。
***
これは、数日前の
———————或る隠された真実。
埃と湿った空気。
金属とその臭いにこの牢で2日間過ごしても慣れはしなかった。だが、不思議と不快さはなく、それが自分に与えられた死に場所なのだと妙に納得していた。
遠くから微かに足音が響いてくる。地下牢は壁に囲まれた空間だから音がよく響く筈なのだが、その足音は通常の人間よりあまりにも小さく、微かな音の振動で淡く灯っていた蝋燭の火が揺れる程度だった。
気付けば頑丈な鉄でできた鍵が開けられ、錆びれた音を立てながら牢屋の扉が開いた。
相馬藍花は牢屋に入ってきた人物を見上げた。
薄暗いその場所でも、この人の髪は輝いている。髪は珍しい水浅葱色で毛先は白銀だ。そして、オッドアイの瞳も同じように美しかった。
「随分と、遅かったですね」
牢に入ってきたルナを見上げて相馬藍花は苦笑した。
最後にルナと逢った日から2日が経った。あの日ルナは2日後に処罰が下ると宣言し、地下牢を去った。
その言葉通り、ルナは此処に来たのだろう。
組織の裏切り者を処刑する為に。
だが、今はもう日が暮れ、時間帯はそろそろ一日が終わる時間。2日後直ぐに処刑されると思っていたのに、実際ルナが訪れたのは夜になっての事だった。たとえ覚悟の上でも死ぬと判っていて一日を過ごすのは精神的に悪い。
しかし、漸く最期の時が来たのだ。藍花は無抵抗のまま無表情で此方を見据えるルナに視線を向けた。
ルナはオッドアイの瞳を光らせ、右手を上げる。その瞬間、ルナの足元から黒い影が湧き出るように蠢いた。
死の権化。
藍花にはその黒い影がそう見えた。
一対の赤い瞳が自分を捉えた時、藍花は己の死を悟り、ゆっくりと目を閉じる。
そんな藍花を無表情に見下ろして、ルナは手を藍花に向かって下げた。その瞬間、瞬く間に黒い影の一部が鋭い爪へと形を変え、目に見えない疾さで切り刻んだ。
––––––––––––藍花の手についていた鎖を。
高い金属音が牢に響く。砕け散ったそれが音を立てて地面に落ちるのを藍花は驚きのあまり呆然と眺めた。
「…え」
『—————相馬藍花は死んだ』
ルナの声が頭上で響く。藍花が戸惑いながら顔を上げればルナは変わらず無表情で立っていた。しかし、先程の黒い影は何処にもない。呆然と見上げる藍花をお構いなしにルナが続けた。
『裏切りの罪で。昨日ね』
ルナが自身の携帯を藍花の前に出した。そこに表示されていたものは時計だ。時刻は0時。つまりルナが云う昨日とは一分前の事なのだろう。……しかし、だ。
「ま、待ってぐださい。……それは如何云う意味…ですか?」
藍花にはルナが一体何を云っているのか判らなかった。彼女の真意が判らず藍花は先刻まで手首についていた鎖とルナの瞳に交互に視線を向けながら戸惑いを隠せない。
『そのままの意味だよ。敵との内通及び共謀により、組織への裏切り行為の罪で相馬藍花は処刑された。よって、首領専属護衛の直属部下が空席となり、新たに部下を迎え入れる事にした』
ルナは全く状況が読み込めていない彼女を見下ろす。
ルナ自身、この選択が本当に正解なのか判っていなかった。昔の自分なら決して有り得ない、考えもしない選択だろう。だが、それを今のルナは選ぼうとしている。正解が判らない選択を迷いながら、足掻きながらそれを掴む事を選んだ。自分の力で選んでみようと、昨夜、月の光の下で彼に勇気を貰えた。
––––––––––––––––だから。
『私の新たな部下に、直属上司である私が貴女を指名する』
「……で、でも、私は」
『何度も云うけど、〝相馬藍花は死んだ〟。それが如何いう意味か判る?』
藍花は首を振る。混乱で全く状況が読み込めないでいる彼女にルナは手を差し出した。
『私は今日、新たな人生を生きる貴女をポートマフィアに勧誘しにきた』
「私の、新たな…人生…?」
その言葉を繰り返し、虚ろだった藍花の瞳に光が差し込む。
『ポートマフィアでは組織に勧誘した者が部下になる者に何かを贈る決まりがあるの。
だから、私の部下となる貴女に私が贈る。
––––––––––––鈴見 蘭。
新たな人生を歩む貴女にこの名前をあげる』
それは、相馬藍花という人生を捨て、新たな道を、人生を、新たな名で歩むという事。もう彼女はそれでしか生きる事ができない。最愛の人は死んだ。もう
だが、全てを失った彼女にルナは新たな名前を贈った。それは生きる居場所を、理由を、意味を、もう一度彼女に与える事だ。それが唯一、彼女を生かす道。
藍花‥否、鈴見蘭の瞳から大粒の涙が止めどなく溢れる。声をあげて泣く蘭はまるで生まれたばかりの赤子のようだった。
そんな蘭の前にルナは蹲み込み、ハンカチを渡す。蘭は泣きながら感謝を述べそれを受け取った。
『最初は貴女に何をあげたらいいか判らなかった。……だから、いつか首領が私にくれたものを、私も貴女にあげたの』
嘗て、ルナが森から貰ったもの。
それは、名前と、生きる道。
昨日の会議で、ルナは相馬藍花を殺し、彼女だった者に新たな名前と人生を与え、生かす事を選択した。
正直ルナ自身も驚いた。この選択をした事を。
裏切り者を許さないマフィアの中で、それを始末すのがルナの仕事である筈なのにルナはそれをしなかった。
マフィアで裏切りは珍しくない。だから、ルナは誰に裏切られても何も感じない。それは裏切り者を始末すれば済む問題であり、仲間だった事への情けなど毛程も持ち合わせていなかった。それは屹度今でも根本的な事は変わらないだろう。首領に、組織に、害があれば排除するのがルナの使命だ。
でも、その考えは中也と出逢ってから少し変わったように思える。中也は過去に仲間から裏切りを受けた。中也の心に残ったのは悲しみと如何しようもない程の自己嫌悪。それは屹度今でも信頼した仲間の裏切りというのは中也にとって心が痛むものなのだろう。
そんな中也を見るのが苦しくなったのは何時からだっただろう。悲しそうな、泣き出してしまいそうな顔を見るのが辛くなった何時からだっただろう。
その頃から屹度、ルナの中で“裏切り”が許せないものになっていた。
なのに、ルナは彼女を生かすことを選んだ。
この選択が正解なのか間違っているのかは今のルナには判らない。
答えのない選択で、迷い続けるしかないのかもしれない。
でも、それでいい。
自分の弱さを受け入れてくれる人が傍にいるから。迷いながらでも道を選ぶ勇気をくれるから。
「ありがとうございます師匠。この御恩は忘れません。私は…、蘭は、貴女がくれたこの名と人生を無駄にはしません。決して、決して」
涙をこぼしながら微笑む蘭を見つめてルナは頷き、そっと目を閉じた。
いつか自分の選んだ道に胸を張れるように。自分の力で掴み取る強さを手にする為に。人は皆、迷っても歩み続けるしかないのだ。
しかし、慥かに今、ルナは誰かに意味のあるものを与えた。それでいいのだ。
その道に光が差す事を祈っているから。