第十四章 あの空をもう一度見れるなら
首領執務室を離れたルナは人気のない廊下の窓に寄り掛かり、外を眺めていた。
本当は今すぐ中也の部屋に行きたかったのだが、右目を包帯で巻かれたルナの顔を見ると中也は憂いと後悔を帯びた表情をするから逢うのを少し躊躇う。あんな悲しい表情をさせたい訳ではないからこそ、今は少し距離をおいた方がいい気がして、ルナは人気のないこの廊下の窓で夜空に浮かぶ月を眺めていた。
昨夜よりほんの少しだけ欠けている月。
ルナはその月を眺めながら、昨夜の事を思い返した。
***
ポートマフィア拠点、地下牢。
「師匠、ありがとうございます」
地下牢に監禁された藍花は格子の前に立つルナに向け、鎖が巻かれた手を地面につけて深く頭を下げた。
『……何が?』
そんな藍花にルナは首を傾げる。
「最期、大好きだった頃の兄に逢えた気がしたのです。それに青い夕焼けも。師匠が私の言葉を信じて下さらなければ、屹度こんな救われた気持ちにはならなかったから」
––––––––––––救い?
ルナは心の中でその言葉を繰り返す。
あの場であの光景を見た藍花が兄の死の原因に気づいているのか判らないが、藍花自らそれについてルナに問おうとはしなかった。
顔を上げた藍花が黙っているルナを格子越しから見据える。ルナの顔は無表情で今何を考えているのか判らなかった。藍花は鎖で繋がれている自身の手を軽く握り、「師匠」とルナに呼びかけた。
「師匠が昨日仰った…“私の事が強い”って、あれ如何いう意味だったんですか?」
ルナが顔を上げる。右目に包帯が巻かれたルナの顔。残ったアメジスト色の左目がその問いの答えに少し迷っているようだったが、ルナは静かな声で『それを知って如何するの?』と問いで返した。
「特別な意味はありません。でも、私にとって師匠は憧れ…だったんです。絶対的力があって、弱さを感じさせない人。全てが完璧で、揺るぎのない強さを持っている。…そんな人が何故私に“強い”という言葉をかけたのか…気になって……」
その時、顔を上げた藍花が見たルナの表情は何処までも無だった。だが、アメジスト色の瞳が一瞬陰ったのを見て藍花は口を噤む。地下牢に沈黙が漂う中、ルナはアメジスト色の瞳を閉じ口を開いた。
『貴女が人間らしかったから。ただそれだけだよ』
ルナが云った言葉の真意は藍花には判らなかった。だが、ルナのその言葉は妙に重みがあった。だからこそそれ以上聞いてはいけない気がして藍花は口を閉じる。
地下牢の灯りが消えかける前の足掻きのように点滅を繰り返す。ルナはその光から目を逸らすように静かに藍花に背を向けた。
『2日後に処罰が下る。最後に何か云い残す事はある?』
感情のない声で告げられた言葉に藍花は首を横に振る。
「いいえ。この世界に踏み込んだ時から覚悟はできていますから」
藍花の手首に付けられた鎖が錆びれた音を立てる。それを聞き届けてルナは目を閉じる。そして、一つ『そう』と呟いて、地下牢を後にした。
***
月の光は青く静かだ。
『人間らしさ、か…』
ルナは月を眺めながら小さく呟いた。そして、自身の胸に手を当てそっと目を閉じる。
相馬泰三を殺したのは、イヴだ。
相馬泰三はルナの右目を奪い、自分のものにした。
ルナの赤い右眼。それはイヴの一部。
イヴの一部を取り込んだ相馬泰三は、あの瞬間イヴの魂に触れた。
––––––––––––だから、死んだ。
イヴの中に踏み込めば人間など一溜りもない。踏み込んだその瞬間、魂を喰われる。
人間の魂など神の前ではあまりにも弱く、脆いのだから。
『ねぇ、イヴ』
ルナは自身の右目に巻かれている包帯に手をかける。そして、シュルッと音を立てて白い包帯が解かれた。
『私は…、私の心は–––––––––––』
窓硝子に映る赤い瞳。この世の全ての宝石よりも鮮やかで、美しい瞳。その瞳で遠くを眺める。この世界を何処までも遠く、遠く見渡せる。嘗て暗闇しか映せなくなった右目が、イヴのおかげでこんなにも美しい世界を見る事ができる。
そして、
「ルナ」
––––––––––––––––誰よりも愛しい人の姿も。
『…中也』
声のした方へ視線を向けると其処には中也が立っていた。その表情は静かだったが、ルナが包帯を取り、いつも通りのオッドアイの瞳で此方を見据えている事に一瞬目を見張った。
中也はルナの傍までより右目を見つめる。そこにはいつもの赤い瞳。中也は手を伸ばして、そっとルナの右眼の下を優しく撫でた。
「もう痛みはねぇか?」
『……うん』
本当は痛みなんてとっくに消えていた。普通の人間なら戻る筈のない失った瞳もこの通りすぐに治る。
だから、心配しないで。
そう何度も伝えても中也は心配してくれる。
「此処で何してんだ。任務もねぇんだろ?…部屋に来ないから心配した」
『ごめん』
俯くルナの顔は月光の光に照らされ精巧に作られた人形のようだった。憂いを帯びたその顔は美しくて、そしてどこか儚い。
中也は俯き口を閉じたルナに視線を向けながらルナが腰掛けている窓枠を背に寄り掛かる。いつも部屋に飛んでくるルナがこんな場所で躊躇っているのは、大体何かある時だ。
中也は横目で月が輝く夜空を見上げる。如何した?と訊いても良かったが、中也はルナが話し出すのを待つことにした。二人の間に澄んだ沈黙が漂う。
『ねぇ、中也。中也には私が、“完璧”に見える?』
突然のルナの問いに中也はルナに視線を向ける。ルナが何を考えその問いを口にしたのか判らなかった。だから、何も返さず次のルナの言葉を静かに待つ。中也が言葉を待っていると感じ取ったルナは再び口を開いた。
『憧れ、とか。樋口ちゃんも…相馬藍花も私にそう云ったけど…、それって“強さ”があるから、そう見えるのかな。……でも、“強さ”って何だろ』
ルナは自身の掌を見つめて云った。“強さ”とは他人を暴力で捩じ伏せることなのか。“強さ”に種類がある事は知っている。それは中也を見ていればよく判る。力と地位。そして、優しい強さを持つ人。
でも、自分には暴力以外に何の強さがあるのだろう。他人には自分の何処が完璧に見えるのだろう。
「“強さ”の本当の意味は、俺にもよく判らねぇよ」
ぽつり、と中也が囁くように云った。顔を上げ、中也を見遣ると中也は視線を何処か遠くにやっていた。
「敵を捩じ伏せる強さも、仲間を守る為の強さも、完璧じゃない。それを思い知る度に何度も無惨に死んだ仲間達の姿が目の前に浮かぶ。……だから、憧れや完璧って云うのは、自分にないものを持っている相手をそう思うだけなんだろうな。それが表面的なもので、相手の本当の弱さが見えなくてもな」
中也の声はいつもより重く、過去を思い出すようなその青い瞳は夜の海のようだった。中也は被っている帽子を直し、ルナに視線を向けた。
「だとしても、もし他人がお前をそう思っているのなら、それを否定する必要はねぇし、そうなるように無理に努める必要だってねぇ」
ルナを見つめる中也の瞳は先程と変わり迚も優しい。ルナにしか向けることのないその瞳からルナは目が離せなくなった。そして、黒手袋を嵌めた手が優しくルナの頬に伸ばされる。
「お前の“弱さ”を知っているのは俺だけでいい。受け止めるのも、そんなお前を愛しいと思うのも、俺だけでいい」
ルナの右の瞼に口付けが落とされる。泣きたくなる程のその優しい口づけにルナの心は温かな光に包まれて、胸がいっぱいになった。頬に触れるその手にルナは自身の手を重ねて、擦り寄る。
中也はいつだって弱さを受け止めてくれる。それがどれだけ救われるか。中也は気づいていないだろう。中也が弱さを受け止めてくれるからこそ、それが新たな力になって一歩ずつ前に進める気がした。
迷って、迷って、引き返そうか悩んだ道に踏み出す勇気をいつもくれる。
『これで決心がついた』
静かにそう呟いたルナの言葉に中也は首を傾げる。でも、ルナは微笑み、小さく首を振った。ルナの表情は先程より晴れやかだ。その顔を見て、中也はそれ以上何も問わずに頬を緩ませた。
「そろそろ部屋戻るぞ」
窓枠から背を離した中也がルナの手を取る。ルナは頷いて腰掛けていた窓枠から降り、中也の隣に並んだ。
窓から青い光が差し込む。その美しい月光は寄り添いながら歩き出した二人を見守るように照らしていた。