第十四章 あの空をもう一度見れるなら




最上階、首領執務室に夕陽が差し込む。


橙色の光に照らされながら森は街を一望できる窓の前に腰掛け、報告書を読んでいた。


執務室の扉が開かれる。森は書類から顔を上げ、入ってきた人物に視線を向けた。


「目の調子は如何かね?」

『これが鏡見る度に何か気に入らない』

「慥かに懐かしい感じだ」


執務室に入ってきたルナは眉を顰めながら自身の顔を指差す。右目には白い包帯が巻かれており、それは昔の誰かの姿と重なりあまり良い気はしなかった。


ルナは森の横に置いてある椅子に腰掛け、残った左目で横浜の街を眺める。



目を奪う異能力者事件から一日が経った。各地で勃発していた抗争もまだ余韻を残してはいるが、これ以上街に被害はなく終わりそうである。と云っても此処は魔都。闇社会の抗争が全てなくなるなどあり得ない訳だが、今回の一連の事件には終止符が打てるだろう。


しかし、ルナの瞳は全く別のものを見ているようだった。ルナは残ったアメジスト色の左目で光る海の向こうを見据える。


「浮かない顔だね。今回の事件で何か気になる事でもあるのかい?」


森は包帯で半分隠れたルナの顔を横目で見ながら問いかけた。ゆっくりとアメジスト色の瞳が森に向く。ルナは指で肘置きを軽く叩きながら地面に視線を落とした。


『不可解だったのは鈍色の外套を被った奴等、かな。あれは雇われた傭兵とは違う…よく判らないけど不気味な感じ。結局彼奴等の正体を掴めなかったし』


事件の最中、ルナ達を襲った鈍色外套の怪しい者達。外套の下は仮面を被っており、正体が判らなかった。イヴが蹴散らした死体さえ事件の後まるで最初からそんな者いなかったかのように消えたのだ。証拠の一つさえ残さずに。


『それに奴等、イヴの封じ込め方を知っているようだった』


奴等の腕に付けられていたあの銃に似た異質な機械。あの機械から放たれた光が空間を展開し、標的を閉じ込める為だけのものなら、それが亜空間である必要はない。


だが、奴等は現実と切り離した空間の中にルナだけを閉じ込める事でルナとイヴを断絶した。つまり、ルナとイヴ、何方かが現実世界から切り離されるとイヴは白銀の獣の姿を維持できなくなる。


『それは、奴等が私とイヴの繋がり・・・を知っていたって事になる』


硬い声でルナはそう云った。森は何も答えなかった。代わりに神妙な面持ちで静かに横浜の街を見据え、手を組んだ。




『…相馬藍花が云ってたの』


昨日の事件後、首謀者であった相馬泰三の死体は遺体処理班の構成員に運ばれ、妹であった相馬藍花は相馬泰三の共犯者として拠点の地下牢に監禁された。


ルナは昨夜地下牢で相馬藍花とした話を思い出しながら続けた。


『〝兄は元々異能力者ではなかった。兄はこの力を神様から貰ったんだ〟って』


異能力は便利な道具ではない。目が見えない人が他人から目を奪える能力など都合が良すぎる。そんな都合の良い能力が急に使えるようになるなど有り得ない。たとえどんな強大な力で、どんなに偉大な能力でも、本人を幸せにする事はない。


「…神様ねぇ」


森は組んでいた手を指で叩きながら得心が行かない表情でそう呟いた。


『昨日の会議でも話したけど、相馬泰三は誰かに踊らされていた可能性があると思う。まあ、相馬藍花の話を信じるならだけど』


この事件にはまだ裏がある。そんな予感を感じずにはいられなかった。


相馬泰三の云う“神様”。与えられた異能力。
そして、イヴを知る鈍色の外套を被った謎の集団。


しかし、それはどれも雲隠れしたかのように何の証拠も残っていない。



外で船の汽笛が鳴った。


その音を耳にしながら森が口を開く。


「この事件は引き続き秘密裏に部下に調査を続けさせよう。それと報告書には閲覧制限を設ける。いいね?」

『うん、異論はないよ』


森に頷きルナは夕陽が沈んでいく街に視線を向ける。街の全てが橙色になったかのようだった。


夕焼けは好きだ。彼の髪の色に似ているから。


しかし、その景色はいつもと見え方が違った。半分だけ真っ暗で何も見えない。この窓から見える景色は近くに感じていたのに、街も、海も、空も、この窓から見渡せる全てが今は酷く遠い。


ルナは包帯が巻かれた自身の右目に触れた。そして、無意識に口は開いていた。


『あの時、目を取られた時

––––––––––––昔を思い出したの』


ルナの声は遠い場所に置いて行かれたかのようにとても静かだった。そんなルナの様子に森は何も云わず耳を傾ける。


『ずっと、何も感じていなかったのに。私の記憶の中には、あの時の痛みが残っていたみたい』


ルナの云った“あの時”がいつの話なのか、長年共にいる森でも定かではなかった。しかし、右目に巻かれた包帯を撫でるルナの表情を見ればそれがずっと前の話であると悟った。何故ならルナの表情があまりにも無であったから。


森は足を組み直し、沈んでいく夕日を眺めながら云った。


「過去の傷は自分が思っているよりも大きいものだよ。たとえ、傷を植え付けられたその瞬間に何も感じていなくてもね」


森のその言葉を聞いて、ルナは触れていた包帯から手を離し、肩を竦めて微笑んだ。


『そうだね』


そう云ってルナは椅子から立ち上がり、扉に足を向けた。そして、そのまま出口まで歩き、扉に手をかけて森の方へと振り返る。


『でも、今の私には過去の痛みを癒してくれる人が傍にいるから。だから、たとえその見えない傷が残っていても大丈夫だよ』


ルナの言葉に森は一瞬あっけに取られる。だが、ルナのその微笑みを見て、ルナの言葉の意味を悟った森は目を細めて頷いた。


「嗚呼、そうだね。でもそれは屹度、彼も同じ事を思っているよ」


今度は森の言葉にルナが目を丸くした。


『そう…かな……。そうだといいな』


ルナはどこか自信なさげにそう呟き、執務室を出て行った。


森はルナが出て行った扉を数秒見つめた後、テーブルに置かれた書類の束を手に取る。その書類は昨夜事件後に行われた会議の議題とその議決が書かれたもの。


森は一度それに目を通し、執務室に入って来た黒服の部下にその書類の一枚目を差し出した。


「これを構成員達に通告するように」

「はっ」


黒服の部下はその書類を受け取り敬礼して部屋を出て行った。


森は部下が出て行ったのを確認し、手に残ったもう一枚の書類に視線を落とす。そして、それを懐にしまい、再び横浜の街を眺めた。


地平線の向こう側へ太陽が沈み、月の時間になっていく。森は開けていた葡萄酒をグラスに注ぎ、洋燈に色づいていく街を眺めながら一口それを喉に流した。


「以前の君では他の選択など考えられなかったが、屹度これも中也君効果なのだろうね」


そう云って森は肘掛けに頬杖をつき、苦笑気味に微笑んだのだった。







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