第十四章 あの空をもう一度見れるなら
「異能力【陽炎の空へ】」
辺りに異能の光が立ち込めた。
そして、数秒してその光は消える。
何が起こったか判らなかった。ただ判るのは背中に感じる冷たさが地面だと云う事と自身の体が動くという事だけ。
中也は仰向けになっていた上体を起こそうと腕に力を込めた。しかし、そこで気づいた。自身の上にある重み。視界に入った水浅葱色の髪にその重みが何か直ぐに判った。
「ルナ?」
上体を起こしながら顔を伏せているルナに触れる。その瞬間、ルナの顔から落ちた赤に中也は目を見張った。
「ルナッ!お前!」
『ッ…』
ルナは血が滴る自身の右眼を手で押さえて、歯を食いしばり呻いていた。
中也はそこで漸く理解した。相馬が異能力を発動したその瞬間、目の前にルナが現れた。相馬と中也の間に入ったルナが中也を庇うように押し退けたのだ。
そして–––––––––––。
『ちゅう、や…大丈、夫?』
「莫迦野郎ッてめっ!何で庇って…」
血が流れる右眼を押さえながらルナが無理に微笑む。中也が無事だと判ると残ったアメジスト色の左目が優しく細められた。
『中也が無事なら、よかった』
「よかったじゃねぇよ!俺を庇ってお前が傷付いたら……クソッ」
中也は拳を握りしめる。そして、目を押さえているルナの肩を抱き、元凶である男へと視線を向けた。
「手前ッ」
相馬は両手で目元を覆い、天を仰いだ。そして、ゆっくりと手を離して目を開く。
「不思議だ」
感嘆の吐息と共に呟かれた言葉。相馬は辺りを見渡した。
––––––––––––赤いルナの瞳で。
「今までの瞳とは全く違う。遠くまでよく見える。まるで世界の全てを俯瞰しているみたいだ」
相馬は両の手を広げて歩き出す。その右瞳はキラキラと輝き、まるで無邪気な子供のような表情だった。
「手前、最初からルナの目が目的だったのか」
中也は相馬を睨みつける。歩みを止めて振り返った相馬がその中也の殺気にも動じずに笑みを深めた。
「彼女の瞳は他の人とは違う。異様で、恐ろしく、そして美しい。あの日、ビルで彼女のその瞳を見た時欲しいと思った。彼女のその人ならざる目ならば、僕が見たかった世界が見れると思ったからだ」
ルナの耳に相馬の声は聞こえていなかった。ただ残った左目で地面を見据える。右目から滴り落ちる血が地面を点々と赤く染まらせていく様をルナは茫然と眺め、右目に感じる鋭い痛みに眉を寄せた。
『(嗚呼、この痛みは……厭な記憶だ)』
奥深くから滲み出る痛みは神経が感じる痛みとは違う。それは過去の記憶が齎す痛み。その痛みと共に、胸の奥が黒ずんだもので覆われていく。
心まで蝕み、記憶の傷みに喰らい尽くされる。
「巫山戯んな。これ以上奪わせねぇぞ」
その時、中也の声が頭上から聞こえた。意識を遠くにやっていたルナが右目を押さえながらゆっくりと顔を上げれば、中也の横顔が見えた。肩に回る手で強く抱き締められている。その手の温もりは心を蝕んだ闇を一瞬で払ってくれる。いつの間に記憶が齎す右目の痛みもなかった。ルナの左目に光が戻る。
「残念、残った左目も貰おうと思ったけどまぁいいか。この目さえあれば十分だし」
肩を竦めて踵を返した相馬だが、すぐに足を止める。
「そこを退いてくれないかい?藍花」
両手を広げて相馬の前に立ち塞がる藍花は相馬の言葉に首を横に振る。そんな藍花の様子に溜息を吐いた相馬は腰から拳銃を取り出し、妹である藍花に銃口を向けた。藍花の瞳が絶望と悲しみの色で揺れる。
「僕の云う事が聞けないのかい?なら、今此処で死んでくれ。僕の邪魔をする者は誰であろうと殺す。勿論、妹のお前も例外じゃない」
「聞けない。今の兄さんは、兄さんじゃない。私の大好きな兄さんじゃないもの」
涙を堪えて藍花が決死の表情でそう云った。そんな藍花を相馬は無表情で眺め、銃のトリガーを外す。
「なら、さようならだね藍花。
………?……何だ?」
相馬が何か違和感を感じてルナから奪った右目と自身の胸を手で押さえ、首を傾げた。
「…待て、何だ!?来るな!やめてくれ!がっ、あ"あ"、やめろ来るな、僕の中に、やめ、ぐッあ"あ"」
突如として相馬は苦しみだし、何か譫言のように叫び出した。相馬の右目から異様な黒い影が沸々と湧き上がる。
「兄さん?」
「何だありゃ…」
『……。』
その場にいた全員が唖然とした。ルナも残った左目を見開いて、相馬の様子を見据える。苦しみに踠く相馬の体から漏れ出す黒い影にルナは見覚えがあった。
『––––––––––イヴ?』
ルナは自身の胸に手を当ててそう呟いた。あの禍々しい黒い影はイヴなのだろうか。その場にいた全員がその異様な光景をただ見てる事しか出来ない。
黒い影が相馬の体から溢れ出し、相馬の口と目から大量の血が流れた。相馬は自身の胸元を掻きむしり、苦しみ踠きながら視線を上げて藍花の方へ手を伸ばした。
「がっあ、あ"…らん、か」
自身の血に濡れた手を必死に茫然と立ち尽くしている妹に伸ばす。
「違う…そんな事、望んでない…。違うんだ……僕は、ただお前と、青い夕焼けを…お前の笑顔を…」
「兄さん?」
相馬の瞳から涙が溢れ落ちる。先刻までとは違う苦しみの中に馴染む優しい声。その懐かしい声を聞いて藍花の瞳が見開かれた。
「兄さん…なの?」
「らん、か……僕は、ずっと、お前の幸せを…願って………」
伸ばされた手を藍花が掴もうとした。だが、相馬はそのまま力が抜けたように地面に倒れる。
「兄さん?……兄さんっ」
相馬泰三はもう息をしていなかった。目は虚で、まるで魂の抜けた抜け殻のようにピクリとも動かなくなった。
「…何が起こった?」
『……。』
絶命した相馬を眺め、中也が神妙な声で呟く。ルナは右目を押さえながら胸元の服を強く握り締めた。そんなルナの様子を横目で見た中也はそれ以上何も云わず、地面に倒れた相馬と彼に近づく妹に視線を戻した。
藍花はもう息をしていない兄をそっと抱き起こす。そして、虚に開かれたままの瞼をそっと閉じてやり、口元の血を拭った。静かに眠っているかのような兄を見つめ、藍花の瞳から一つ一つ涙が溢れる。
「兄さん…、青い夕焼け……覚えていてくれたんだね…」
消えいりそうな声で藍花はもう動かない兄を抱き締める。藍花の啜り泣く声がその場に響いた。
ルナは胸から手を離し、泣いている藍花に視線を向ける。そして、立ち上がった。ルナを支えるように中也も立ち上がる。
「ルナ、平気か?」
『大丈夫』
中也に微笑み、ルナはもう一度藍花とその腕に抱かれている相馬を見遣った。一体何が起こったのだろうか。ルナにもよく判らなかった。
そして、その疑問を残したままルナは頬にあたる陽の光に目を細め、そっと、視線を外に向ける。
『–––––––––––青い、夕焼け?』
ルナのその言葉に中也はルナが見ている視線の先を追う。兄を抱きしめていた藍花も同じように外の光に涙で滲んだ目を向けた。
いつのまにか雨が上がり、曇天は晴れている。
晴天の空は青とオレンジの二色で染まり、その美しさは見る者全てを魅了した。
「あの日と同じ空…」
あの約束の空が今目の前にあった。その奇跡のような景色に藍花の心は美しい記憶でいっぱいになった。
記憶の景色が映し出される。
「わあ!きれいな空!」
白のカーテンが揺れる部屋には私と兄がいる。
「どんな空なんだ?」
幼い私の無邪気な声に対して静かな陽だまりのような声で問う兄は私の髪を撫でる。
「んー……オレンジと青で……あ!
––––––––––––青い夕焼け!」
その空の名を思いついたように幼い私は自慢げな声で窓の外を指差す。
「青い夕焼けか。それは素敵だね」
私の手より大きな兄の手が窓の向こうにある空に向かって伸ばされる。
「迚も綺麗なんだろうな…」
あの時の兄の声はどこか寂しげだった。
だから、私は空に向かって伸ばされた兄の手に自身の手を重ね、
「なら、大きくなったら藍花がお兄ちゃんの目に意地悪している病気をやっつけて、この空を見せてあげるよ。本当に綺麗なんだから、青い夕焼け!はい、藍花との約束!」
指切りの小指を兄に差し出した。
そんな私に兄は目を丸くして、驚いていた。だが、その後に優しく、迚も幸せそうに微笑み、私の小指に自身の小指を絡ませた。
「それは楽しみだ。ありがとう、藍花。
––––––––––––––––約束だ」
美しい思い出は消えることはない。今、この瞬間も藍花の記憶にある。
藍花は腕の中で眠る兄に視線を落とした。そして、大粒の涙を流しながらそっと微笑む。
「ほら、兄さん。青い夕焼けだよ。迚も、本当に迚も、綺麗だよ」
もう兄が応える事はない。だが、深い眠りについた兄の顔はどこか穏やかで、迚も幸せそうに微笑んでいる気がした。
陽が沈むその時まで、藍花は大好きな兄と共にその空を眺め続けた。