第十四章 あの空をもう一度見れるなら
「手前が目を奪う異能力者か」
混乱した戦場から、少し離れた場所。使われなくなった造船所跡地。そこに中也はいた。
外では雨が降っている。曇り空は黒く、夜のように暗い。屋根に跳ねる雨音がやけに五月蝿かったが、建物の構造上か広々としていてもその空間に中也の声はよく響いた。
その空間の真ん中に佇んでいる男。傍には目の抜かれた死体。服越しでも判る程痩せている男は屋根が開けている場所から雨空を静かに見上げていた。
「こうやって見上げても、空はいつでも綺麗な訳ではないんだね」
その声は雨音に掻き消されてしまう程小さかった。囁くような哀愁を含んだ声が雨のようにポツリポツリと零される。
「朝は温かな光が零れて、昼には街を照らす太陽があって、夜は無数の星々と美しい月がある。でも、今は何もない。迚も寒い」
男は濡れた体を自身の腕で摩り、ゆっくりと中也の方へと振り返った。男の目元には包帯が巻かれており、その両の目は隠されていた。
「この世界はもっと輝いていると思ってた。でも、どの目で見ても想像と違う景色ばかり。もっと綺麗な…そう他とは違う特別な瞳なら見えるだろうか。ねぇ、君の目はこの世界が如何見える?」
「…それが手前の最後の言葉でいいのか?ポートマフィアは縄張りに土足で踏み込んだ手前を易々と見逃したりしねぇぞ」
その男、相馬泰三の声とは対照的な中也の威圧的な声が放たれる。しかし、相馬は中也のその言葉にも怯む事なく一歩一歩中也に近づいて行く。
「ポートマフィア…、知っているよ。僕の妹が世話になっているからね。横浜の闇を統べる凶悪な組織。権力も財力も武力もこの横浜のどの組織よりも勝る。だからこそ」
ゆっくりと歩きながら相馬は自身の目に巻かれている包帯に手をかけた。
「闇の中は生き慣れているだろ?」
相馬の目元から包帯が解かれる。現れた黒い眼窩の奥から怪しい光が放たれた。
それを見た瞬間、中也は自身の体がピクリとも動かなくなるのを感じた。足の爪先から手の指先まで石になったかのように。
「(…ッ。何だ?奴の異能力か)」
何故あんなにも非力そうな肉体をした男が黒社会の連中から目を奪えたのか。この抗争の中、悠々と目を奪うことができたのか。その疑問が今漸く判った。動けなくなるのだ。奴のその黒い眼窩の奥から発せられるあの怪しげな光を見ると。これが相馬泰三の能力。
ニヤリと笑みを浮かべて中也にゆっくりと近付いていく相馬。中也は背中に冷汗が伝うのを感じた。
だが、相馬がピタリと歩みを止めた。
造船所の壁が振動で揺れている。
次の瞬間、壁を突き破って巨大な塊が姿を現した。土煙が辺りに立ち込める。それに視界が遮られる中で、一対の赤い眼光が鋭く光り、その巨大な口元からは鈍色の外套の男の死体と大量の血が滴り落ちている。
『中也!』
「兄さん!」
巨大な白銀の獣によって破壊された壁穴からルナと藍花が叫んだ。ルナは瓦礫を掻き分けて中の状況を見遣る。
中也と相馬泰三が対峙している。しかし、中也の様子がおかしい。呼び掛けてもまるで石になったかのようにピクリとも動かない。その中也の様子に藍花も気づいた。
「兄の能力です。疾く助けないと!」
ルナは瓦礫に足を掛け、中也の元へと駆け出そうとする。
しかしその刹那、背後から銃を構える音が聞こえた。ルナは振り返る。視界の端に見えた鈍色の外套を纏った男。その腕に付けられている銃とは違う妙な機械。それが此方に向けられ光が放たれた。
「な、何ですかこれ」
気付いた時にはルナと藍花は怪しげな空間の中にいた。その空間は幾つもの呪文のような文字が浮かび、ルナと藍花だけを囲うように展開されている。それはまるで嘗てポートマフィアにいた異国の異能諜報員、アルチュール・ランボオの異能力である亜空間に酷似していた。
『(異能力空間?……ッ!)』
そこでルナはハッと気づき、イヴに視線をやった。白銀の獣の姿だったイヴがぐにゃりと歪み、黒い影となってそのまま跡形もなく消えた。イヴがいたその場には大量の血と死体だけが転がっている。
『(何で…此奴等…)』
「やめて!兄さん!!」
突然、藍花の叫び声が空間内にこだました。藍花の叫びに反応してルナは彼女の視線の先に目をやる。
動かない中也に相馬泰三が近付いて行く。
「何故邪魔をするんだ?藍花。前は協力してくれてたのに。もしかして兄さんが嫌いになった?」
遠く離れていても相馬泰三の声は此方にも届いた。歪んだ笑みを浮かべる兄を見て、藍花は滲む涙を堪えて首を振った。
「違う…そうじゃないよ兄さん。でも、もう厭なの。こんな兄さんを見るのは。だから、お願い……お願いだから昔の優しい兄さんに戻ってよ」
「昔の、優しい僕…?」
藍花の悲痛な願いに相馬は首を傾げる。そして、自身の手で目元を触り、そっと前を見据えた。
「そんなもの……
––––––––––––もういないさ」
相馬は冷たくそう云い放ち、止めていた歩みを動かした。藍花の顔に絶望が浮かぶ。崩れるようにその場に膝をついた藍花。そんな藍花に一度目をやったルナだが、今は彼女を慰めている暇はなかった。ルナは手を振り下ろし、短刀を空間の壁に勢いよく突き刺す。だが、その亜空間は割れるどころかヒビすら入らない。ルナは舌打ちを零して、亜空間の壁を拳で叩いた。
『逃げて!中也ッ!!』
空間の中でルナは声が枯れる程叫ぶ。だが、それでも中也は動かない。相馬は亜空間の中から叫ぶルナを横目で見て、そして中也に視線を向けた。
「もしかして、恋人?愛されてるんだね」
中也の目の前に立った相馬が小首を傾げて続ける。
「羨ましい。皆愛する人をその目で見る事ができる。でも、残念。それも今日までだよ」
「く、そがっ…」
中也の足元の地面に亀裂が入る。しかし、未だに足は地面に張り付いたかのように動かない。相馬の手が伸び、中也の頬に触れた。
『中也ッ!!』
ルナの声が遠くで聞こえる。
その悲痛な声で名を呼んでいる。
黒い眼窩が目の前に迫るその時、中也は先程相馬が云った言葉を思い返した。
殆どの人が当たり前のように愛しい人の姿を見られる。でも、その当たり前がない人は一体どんな気持ちで生きているのだろう。他人の当たり前が、当たり前でなかった時の過去の自分が脳裏を過った。
嗚呼、今如何しよくもなくルナの姿がみたい。
中也はそう思った。
中也の目が奪われるのを亜空間内で見てる事しかできないルナは地面に力無く蹲っている藍花に呼びかけた。
『ランちゃん!ランちゃんの異能で私を中也の処に飛ばして』
「…え、で、でも」
『疾く!!』
ルナの叫びに藍花の瞳に光が戻る。藍花は強く頷いて立ち上がり、ルナの手を掴んだ。
そして、そっと目を閉じた。
相馬が異能力を発動するその瞬間、彼は突然動きを止めた。そして、ニヤリと嗤った。
「なんてね、僕が欲しい瞳は最初から君じゃないさ」
不敵に上がる口角。相馬の視線が中也から外れ、遠くの方を見た。その視線の先に誰がいるか中也が気付く。そして、動かない体を無視してありったけの力を振り絞り、喉から叫んだ。
「ルナ!!!こっちに来るんじゃねえ!!」
中也の叫びと藍花の異能力が発動したのがほぼ同時の事だった。