第十四章 あの空をもう一度見れるなら
私の兄は、生まれつき目が見えなかった。
元々体も弱かった兄はいつも病院にいて、私が兄と逢えるのも白い壁に囲まれた病院の中だけ。
「お兄ちゃん!見てみてお花!藍花が摘んできたの!このお花ね。鈴蘭って云う名前なのよ。白くて綺麗でしょ!」
幼い頃の私は目が見えないという事があまり理解できずによく兄に外で見つけた物を持っていった。兄はそんな私の声にいつも微笑んで、温かい手で頭を撫でてくれた。
兄は陽だまりのような人だった。
春の空から零れる日差しのように。
春の草木を揺らす温かい風のように。
穏やかで、優しい人。
だから、私は知らなかった。
判ってあげられなかった。
兄の見える世界がいつも暗闇であった事に。
その恐怖と、孤独に。
ずっと傍にいたのに気付いてあげられなかったんだ。
「……兄さん…。何してるの?」
両親もいない私達兄妹は稼ぎもなく。唯一私は異能力者で、その力を糧に黒社会で暗殺者として仕事をするようになった。病気の兄の為に少しでも稼ぎが欲しくて、大好きな兄の為に自身の手を他人の血で染める事など厭わなかった。
仕事帰り、兄のお見舞いに花束を買って病院に向かった。
そこにあった光景は、恐ろしい程今でも脳裏に焼き付いている。
「…嗚呼、藍花。お前は、そんな顔をしているんだね。僕とそっくりだ。まあ、自分の顔も先刻初めて見たんだけど」
微笑む兄。その傍に横たわる看護師。仰向けに転がっているそれはもう息をしていなくて、
––––––––––––そして、目がなかった。
代わりに兄の目は、兄のものではなかった。いつもの優しい眼差しはなく、あるのは兄の目ではない誰かの目。それが床に転がる目のない死体と一致した。
「これはね、神様がくれた
目を細めて笑う兄。
その微笑みは、いつもの優しく穏やかな微笑みではなかった。
知らない。
こんな兄を私は知らない。
窓の外では、夕焼けが差し込んでいる。
それはいつか兄と見た優しい色ではなく、暗く赤黒い。その色はまるで目を奪われた黒い眼窩のようだった。
***
「それから兄は人が変わったようになりました」
藍花はルナの前で兄の事を語った。話す間の藍花の顔は悲しげで後悔と葛藤が綯い交ぜになった表情だった。
「けど、他人の目を奪ってでもこの世界を見る事ができた兄を私は止める事も出来ず…。私が兄に協力していたのは紛れもない事実です」
『それで?ランちゃんは如何したいの?』
核心を衝くルナの問いに藍花は手を強く握り締める。自分は如何したいのだろう。
ずっと目を逸らしてきた。変わっていく兄から。
兄が自分の野望を達成できれば、いつか昔の兄に戻るのではないか。そんな確信もない望みを持って今まで他人を犠牲にしてきた。敵も、仲間も。
しかし、どんなに目を奪っても兄が昔のように戻る事はなく。今ではもう取り返しのつかないところまで来ている。兄は自らの足で目を奪い出し、この街で幾つもの抗争を起こしている。そして、ポートマフィアに目を付けられた。この街の脅威となりつつある敵を排除しようと組織は兄を始末する為既に動き始めている。そして、その共犯者であった自分も同じ。ポートマフィアの裏切り者である事実は変えられない。
であれば、自分は如何するべきか。ただ最期は奇跡を祈る事しかできないのかもしれない。だが、ずっと目を逸らし続けてきた事に向き合わなければ何も変わらない気がした。
藍花は拳を握り締め、そして、顔を上げた。
「私は、兄を止めたい。もうこれ以上優しかった兄が変わっていくのを見たくないのです。願うなら、もう一度穏やかで優しい兄に逢いたい。
そして、いつか兄さんと約束した。
––––––––––––“青い夕焼け”を見せてあげたいのです」
懇願するように藍花は涙を目尻に溜めて云った。しかし、その瞳にもう迷いはない。決意と覚悟。自分のやるべき事、すべき事を藍花はもう見失わないだろう。
それがどんな最期を迎えようと。
その目を見て、ルナは漸く相馬藍花という人間がどういう人間なのか判った気がした。もし、彼女がポートマフィアの裏切り者とならなければもっと彼女が成長できた未来もあったのだろう。
『ランちゃんは、強いね』
「……え?」
ルナの思いがけない言葉に藍花は目を見開く。圧倒的な力を持つルナが自分に対してそう云った事に藍花は驚きを隠せなかった。しかし、その言葉の真意を聞けないまま、ルナが踵を返す。
『判っていると思うけどポートマフィアは温くないよ。抗争の鎮圧と黒幕の排除。この方針は変わらない。けど、ランちゃんがお兄さんを説得したいなら私は止めない』
藍花はルナのその言葉を聞いて目尻に溜まった涙を拭い立ち上がる。そして、芯の篭った声で、はい、と返事をした。
『ランちゃんのお兄さん、相馬泰三の所在は今でも掴めていない。ランちゃんはお兄さんが何処にいるか知ってるの?』
「いえ。今、兄は自分の足で動き、目を奪い続けています。私も今兄が何処にいるのか…」
藍花は悲しげに目を伏せて首を横に振った。ルナは顎に指を置いて黙考する。藍花に聞けば相馬泰三の居場所が判ると思っていたのだが、当てが外れたようだ。しかし、この抗争の混乱の中を闇雲に探すより、相馬泰三を知る藍花に協力してもらう方が賢明だろう。
『ターゲットになる者に特徴とかないの?』
「その…以前は病気でベッドから動けない兄に私がターゲットを選んで兄に差し出してました。それはどれも黒社会の者で、暗殺のターゲットだった者など行方不明になってもあやふやにできる人物をなるべく選んでいました。…けど、今の兄の行動は過激的且つ無差別なのです」
『んー、厄介だな』
たとえ抗争の混乱の中であっても次のターゲットさえ判れば罠を張る事もできたが、無差別となると予測がつきにくい。
『取り敢えず、中也に連絡するか』
ルナはそう呟き、耳につけていた通信機を作動させる。
『もしもし、中也。……中也?聞こえる?』
雑音が鳴り響く。通信は安定せず、中也の声も聞こえない。
『(…通信妨害?)』
酷く胸騒ぎがする。
『ランちゃん、今直ぐに中也の処に……如何したの?』
ルナは通信機から指を離し、藍花に視線を向ければ、藍花が蒼白した顔でルナを見据えていた。両手を胸の前で握り締め、藍花は震える唇を動かす。
「き、昨日…兄と別れる前に私…兄を説得しようと話したのを思い出して…」
『何を話したの?』
「青い夕焼けの話を……でも、兄はその話をしても聞く耳を持たなかった…だから私、悲しくて……兄に中原幹部の話をしたんです」
『何でそこで中也が出てくるの!?』
ルナは思わず藍花の肩を掴む。びくりと跳ねた肩がその勢いに強張った。
「ご、ごめんなさい。…でも似ていたんです。中原幹部が綺麗で…、まるでいつか見た夕焼けみたいで…。だから…、だから次に兄が狙うとしたら…」
『–––––––––中也…』
ルナは拳を握り締め、藍花から手を離す。
『ランちゃんの異能力で今すぐ中也の処に行く事はできない?』
「私の異能には制限があります。中原幹部が何処にいるのか、正確な場所がわからなければ、移動する事はできません」
『なら、イヴの足で……!』
口を噤み、ルナが鋭い視線で辺りを見渡す。遅れて藍花が辺りの様子に気付いた。
突如、まるで蜈蚣が地を這うように静かに現れた者達。鈍色の外套を纏うその雰囲気は異様だった。その者達にルナと藍花は一瞬で囲まれる。あまりにも静かなその動きと気配。ルナは鈍色の外套を深く被っている者達を鋭い視線で睨み付ける。
『(…傭兵?…それにしては雰囲気も、気配も気味が悪い)』
相手の様子を窺っていた時、ルナは瞬時に手を振り上げた。袖から放たれた暗器がルナの背後上に迫っていた鈍色の外套を纏った者の首に突き刺さる。
瞬きする間に起こった事に藍花は茫然とする。今の一瞬で鈍色の外套を纏った者が動く気配は感じられず、そしてそれを瞬時に殺したルナの殺気すら感じられなかった。これが殺気を消すという事だと藍花は目の当たりにした。
しかし次の瞬間にはルナから恐ろしい程の殺気が溢れ出した。無からのこの殺気の凄まじさに藍花は自分が向けられている訳でもないのに躰の芯から震えた。
ルナのオッドアイの瞳が光る。
『疾く中也の処に行きたいのに、一々構っている暇はない。アンタ達が何者か知らないけど、邪魔をするなら、
––––––––––––全員、蹴散らす』
ルナの足元から黒い影が溢れ出す。それが形をもち、大きな牙と赤い眼光が鋭く光った。