第十四章 あの空をもう一度見れるなら
『もうっ!何なの!“エリスちゃんの着替えに時間掛かるからあと一時間くらい待っていておくれ”ぇ!?まったく人を呼び出しといてあの糞ロリコンは!巫山戯んな!!』
鋭い怒号が廊下に響く。
首領からの呼び出しはいつもの買い物の護衛だった。その如何でもいい仕事で呼び出されたのにも腹が立つのに、幼女の着替えに忙しい、と待たされる羽目に。情緒不安定だったルナの怒りパラメータが最頂点を吹っ飛ばしたのは云うまでもない。
鬼の形相で歩くルナを見て廊下にいた構成員達はその怒気に体を震わせて逃げていく。
『幼女趣味も大概にしろ!人の時間を何だと思ってるのよ!………まあ、どうせ…中也いないし、やる事もないけど』
ルナの怒りが今度は喪失感に変わる。心にぽっかりと穴が空いたような感覚にルナは瞳を揺らして俯いた。しかし、どんなに想いを馳せても物理的な距離が縮まる事はない。中也は少なくとも後数日は帰って来ないだろう。はぁあ、とルナは悲しみの溜息を吐いて、今度はとぼとぼ覚束ない足取りで歩き出した。
突如、ルナが通りかかった部屋の扉が開いた。
此方に向かって伸びてきた手。ルナは瞬時に反応し腕を掴もうとしたその手を避けようとしたが、その手が見慣れた黒手袋を嵌めている事に気付き思考が停止した。
黒手袋を嵌めた手がルナの腕を掴む。そのまま引っ張られ部屋の中に引き摺り込まれた。ルナは抵抗もなしに、訳が判らないままその腕の中に抱きとめられる。
背中に回った手の温もり。
鼻を擽ぐる大好きな匂い。
『…ど、しているの?中也』
「速攻で仕事終わらせて帰ってきた」
ルナは中也の腕の中で身を捩り顔を上げる。
青い瞳と目が合って愛しさが溢れた。
『でも、連絡なかった』
「お前を驚かせようと思ってな」
中也はニヤリと悪戯が成功したかのように笑う。そんな中也のしたり顔にルナは赤らませた頬をぷくっと膨らませた。
『むぅ、ずるい』
「予定ではニ週間以上掛かる筈だったんだぜ?それを一週間で終わらせて来たんだ。許せよ」
そんな風に云われたら許す以外の選択肢なんかないではないか。ルナは中也の胸板を軽く拳で叩いた後、そこにそっと自身の額を当てる。中也の鼓動を感じる。今、傍にいる。
『逢いたかった』
甘えるような声で擦り寄るルナに中也は胸を高鳴らさる。中也はルナの肩を掴み、そのままグイッと引き寄せた。
『んっ』
ルナの桃色の唇に自身のそれを深く重ねた。舌を絡ませて、唾液を交換する。口内の熱さも唾液の味も互いのを知り尽くしている二人。しかし、離れていた時間がそれを更に熱く、甘くしてくれる。まるで砂糖の入った紅茶に蜂蜜を混ぜ入れるかのようなキスだった。
『ん、ふぅ、んっ、ん』
「ん、」
この時間を邪魔するものがなければどれだけ幸せだろうに。しかし、現実はそんなに甘くない。二人の耳に無機質な機械音が届いた。
閉じていた瞳を開き、同時に唇を離す。
『…幼女の着替えが終わったみたい。行かなきゃ』
「……そうか」
中也は俯くルナを見下ろす。前髪に隠れたルナの瞳は見えなかったが、引き結んだ唇から無理に我慢している事が窺えた。それを見て、中也はふっと微笑む。
「今夜、時間あるか?」
ルナがゆっくりと顔を上げた。強く結んでいた桃色の唇を指で撫でて、優しくほぐす。
「逢えなかった分、今夜は手前といたい」
中也の言葉にオッドアイの瞳が嬉しそうに細められる。ルナは頬を緩ませて中也にぎゅっと抱き付いた。
『じゃあ、今は夜まで充電』
そう云って少し痛いくらいに強く抱きついてくるルナに中也は顔を綻ばせ、その小さな躰を抱き締め返した。
空いていた心の穴が満たされる感覚に二人は再び携帯の音が鳴るまで浸っていた。
***
『ふ、ふふん♪ふふ、ふふん♪』
ルナは鼻唄を歌いながら道を歩く。今にもスキップしそうなそのご機嫌さに、ルナの前を歩いていたエリスが振り返った。
「あら、ルナ。何だかご機嫌ね」
「本当だねぇ。先刻は怒って出て行ってしまったから、てっきりまだ機嫌を損ねていると思っていたのだけれど…」
エリスと手を繋いでいた森はそのルナの変化に戸惑う。
『え、怒ってるよ?でも、いいの。だって充電したから』
ふふ、と頬に手を当ててはにかむルナに森は、嗚呼そう云う事か、と悟った。唯一中也から連絡を受けていた森は中也が任務を早く終わらせて今日帰ってきた事を既に知っている。それをルナに伝えなかったのは、ルナへのサプライズを聞いていたからもあったが、一番の理由は誰かが恋人である自分を差し置いて疾くに中也からの連絡を受け取っていると知ればルナがまた拗ねるだろうからだ。
結果、伝えなくて正解だったようだ。羅刹のような形相で怒っていたルナが今ではこの通り周りにお花を咲かせている。森はそんなルナを見て、ふっと明後日の方に視線を向けた。
「中也君、君という男は本当に恐ろしいよ」
『何か云った首領?』
「否。それよりもう一軒だけいいかね?次の店にはエリスちゃんに似合う服が沢山あると思うのだよ」
にこり、と笑顔で買い物袋を掲げた森にルナは『仕方ないなぁ。あと一軒だけですよ』と面倒臭そうに云ったが厭がってはいない様子。改めて中也効果は凄い、と感じた森であった。
ルナ達は高級洋服店がある建物に入る。この建物は30階以上ある高層ビルだ。外観こそシンプルだが、このビルに構える店の殆どがVIP専用。一般人が簡単に入れる処ではない。
「先ずは20階のドレス店を見て、次に15階のアクセサリー店に寄ろうか。ねぇエリスちゃん」
昇降機に乗り込んだ森は締まりのない顔でエリスに話しかける。そんな森の言葉を聞いてルナは眉を顰めた。
『一寸首領、あと一軒て云ったじゃん』
「この建物にある店合わせて一軒さ」
人差し指を立てて屁理屈を並べる森にルナは舌打ちを零した。
昇降機は12階を過ぎて、13階、14階と進んでいく。壁に寄りかかって上がっていく階の表示を眺めながらルナはこれはまだ当分帰れそうにないな、と大きく溜息を吐き出した。
––––––––––––刹那。
ルナの本能的察知能力が鋭く反応した。
『イヴ!!』
ルナが叫ぶのと同時に昇降機が爆発。
炎と黒煙が昇降機に充満する。激しく燃えていく昇降機。地獄の釜と化したそれが激しい炎と黒煙を撒き散らせてビルのフロアを、逃げ惑う人々を呑み込んでいく。
昇降機があった場所から何重にも壁に巨大な穴を開けて飛び退いたルナは黒煙が立ち込めるそこを鋭く見据える。
森を守るようにエリスが、そんな二人を守るようにルナが、そして、砲弾にさえ傷をつけさせない巨大な獣の強靭な体が爆弾の威力も衝撃も全て受け切ってみせた。あんな至近距離の爆発であったのにも関わらず誰一人として怪我した者はいない。
『如何する首領?』
「近くに敵の気配はあるかね?」
『殺気は感じられない。多分、首領を狙った訳じゃないね。もしそうなら昇降機に乗る前に爆弾に気付けた』
「無差別な
森は立ち上がり白衣に付いた埃を払った。そして、唯一右手に残った紙袋を手に持って踵を返す。
「帰ろう。此処にも直ぐ火が回る。それにこのビルは著名人の利用も多い。直ぐに警察が駆けつけるだろうからね」
ルナは遠くで燃えている炎をオッドアイの瞳で見据えた後、森の後を追いかけ炎が広がっていくビルを後にした。