『はぁ、もうやる気がないよ。もう無理だよ。こんなに頑張って仕事しても何にもならないよ。呼吸するのも面倒くさいよ』

「し、師匠！どうかお気を確かに！」

『その師匠ってのやめてランちゃん。柄じゃないし』


机の上でぐてっと伏せているルナ。現在中也不足で立ち上がる元気もない。中也と逢えないでいるこの1週間のルナの情緒は云わずもがな不安定。以前、半年と云う期間中也と逢わない日が続いたが、ルナにとって日数の長さなど関係ない。一週間だろうが半年だろうが中也と逢えないという事実だけでルナにはダメージが大きい。


あからさまに元気のないルナを藍花は心配と戸惑いの面持ちで見据える。部下として自分はどうすればいいのだろうか。抑も何故こんなにルナはやる気と元気がないのだろう。藍花はうーんと頭を悩ませる。しかし、ルナと逢ってまだ数日。好きな物も嫌いな物を知らない。藍花にとってルナは未知だ。


藍花が意気消沈しているルナを如何しようなく眺めていれば、部屋の扉が開いた。藍花は其方に視線を向ける。部屋に入ってきたのは金髪の女性。誰だろ…と思ったが、目が合ったので会釈した。相手も此方に会釈し、視線を彷徨わせた彼女は机の上に伏せっているルナに目を向けて、ギョッとした顔をした。


「一寸ルナさん大丈夫ですか？」


駆け足に近付いてきた女性に藍花は場所を空けた。


『あー、その声は樋口ちゃんだね。樋口ちゃんも久し振り…でも樋口ちゃんに逢えてもなぁ』

「若しかして中也さん不足ですか？そう云えば出張中ですものね」

『ふっ、織姫と彦星の仲を引き裂こうとするなんて全くの愚行よ。天は二人のラブラブな日常に嫉妬してるのさ。ちっ、忌々しい』

「ルナさんキャラ可笑しくなってますよ。抑も中也さんの出張なんて珍しくもないでしょう？いい加減に慣れないと」


机に伏せたまま変な台詞を口走るルナは慥かに情緒が不安定らしい。


「そうだ、ルナさん。首領が貴女を探してましたよ」

『えぇまた仕事ぉ？厭だもう厭だ。中也に逢いたい。逢えるまで私仕事しない』

「そんな事仰らずに」


駄々を捏ねるルナの肩を揺する樋口。


藍花は少し離れた処で樋口を見据える。首領専属護衛であるルナと親しく話す女性。慥か遊撃部隊の人だ…と藍花は記憶を辿った。知り合いなのだろうか。何だか直属の部下である自分より親しそうだ。ついていけない会話に藍花は戸惑う。


「（うーん、先程から話に出ている“チュウヤ”って誰のことだろう……）」

『ねぇ、ランちゃん』

「は、はい！」


ルナにいきなり呼ばれ、考え事をしていた藍花は肩を跳び上がらせて返事をする。視線を向ければ先程まで机に突っ伏していたルナが上体を起こし、小さな紙を差し出した。


『私、用が出来たから代わりに此処に取りに行ってくれる？』


藍花はその紙を受け取る。書かれているのは何処かの住所みたいだ。


「…あの、これは」

『受け取ったら私専用の冷蔵庫に入れといてね』


冷蔵庫？と藍花が首を傾げていればルナは伸びをして面倒臭そうに立ち上がった。部屋を出て行こうとするルナに藍花は慌てて呼び止める。


「あ、あの、今日の特訓は…」

『時間が空いたらね。私がいなくても殺気を消す訓練くらい自分で出来るでしょ？』

「が、頑張ります」

「え！ルナさんの特訓！？そんなものやってるんですか！？」


ルナと藍花の会話に横槍を入れてきた樋口。驚きに開かれた目をこれでも輝かせてルナに詰め寄る。


『そんなに驚く事？』

「是非私も受けたいです！ルナさんの特訓！」

『えー。樋口ちゃん暗殺者じゃないじゃん』

「そこを何とか！」


眉を顰めながら面倒臭そうに呟くルナにもお構いなしに樋口は扉を開けて部屋を出ていくルナの背中を追って出て行った。


「少しでいいので！銃の腕をもっと上げたいんです」

『ねー樋口ちゃん。早く任務に行きなよ。龍ちゃんが待ってるよ』

「え、本当ですか！はっ！本当だ！先輩から連絡が！じゃあ、ルナさん約束ですよ！それではまた！」

『してないからねー約束なんて』


扉の向こうから聞こえるルナ達の会話を耳に藍花は部屋に佇んでいた。遠くなる声。藍花は扉から床に視線を落とし、俯いた。


「…折角直属の部下になれたのに、中々上手くいかないなぁ」


口から溢れる溜息は重い。取り敢えず上司に頼まれた事をこなそうと藍花は紙に書かれている住所を記憶し、重い足取りでゆっくりと歩き出した。






***



「わっ、とと」


何個も重ねた箱をぐらつかせながら藍花は拠点の廊下を進む。藍花がルナにお使いを頼まれ、向かった先はシュークリーム屋だった。最初、本当に此処でいいのかと疑ったが、ルナに渡された紙に書かれていた場所は慥かにシュークリーム屋。しかも、注文内容はシュークリーム200個だ。何度も聞き返したが店員のお婆さんが「ルナちゃんの注文だろ？なら何時もこれくらいさ。ほんとご贔屓にどうも」と笑顔で渡してくれた。


冷蔵庫。ルナが云ったその意味が判ったが、受け取った藍花はこれを落とさず無事にそこまで運べるかが不安だった。もし落とそうものなら柔いシュークリームはぐちゃぐちゃになるだろう。


慎重に慎重に…、と藍花は自分に云い聞かせながら200個のシュークリームが入った箱を運ぶ。積み上がった箱の所為で前が見えない。しかし、藍花はハッと思いつく。前が見えないこの状況。障害物の気配を感じ、前に進む。これは暗殺の特訓の一つになるのではないか。


「若しかして、師匠は私の特訓の為にこの試練を与えて下さった？」


藍花はそれに気づき、意を決す。この任務を無事達成すれば少しはルナに認めて貰えるかもしれないと。彼女は、純粋であった。


「よし！そうとなれば、これを無事に冷蔵庫までお届け……

––––––––––––きゃっ！」



曲がり角。


意気込んだのも束の間、何かにぶつかり藍花は蹌踉めく。



倒れる直前、あっ、と気付いた。持っていた箱が反動で宙を舞う。今先刻、期待に躍らせた胸が嫌な音を立てた。


シュークリームが入った箱がスローモーションのように空中で一回転し、床に落ちる。



……………ことはなかった。



シュークリームの入った箱が空中に浮いたまま動きを止めていたからだ。



「…ぇ」

「あっぶねぇ。悪ィ、大丈夫か？」





夕焼け色の髪。

此方を覗き込む瞳は何処までも青かった。




藍花は目を見開く。




「––––––––綺麗…」



震える唇が無意識にその言葉を零した。



「あ？」

「……はっ！も、申し訳ございません！」



藍花は自身の口を押さえて立ち上がる。そして、黒帽子を被った彼が受け止めてくれた箱を慌てて受け取った。


「中は、……あ！ど、如何しよう。一寸崩れてる」

「……なぁ、アンタ。それって」

「ご、ごめんなさい！私急いでいて！」


藍花は何度も頭を下げた後素早く箱を集めて持ち上げ、それを手に廊下を早足に進む。


「と、取り敢えず先にこれを冷蔵庫に！崩れちゃったのはもう一度買い直して…嗚呼でも師匠が帰って来ちゃったら！あわわわ！如何しよぉぁ」



叫びながら箱を抱えて去っていく彼女の背中を「何だ？彼奴」と、出張から帰ってきた中也が訝しげな視線で見送る。



「あの箱、ルナの行きつけのシュークリーム屋のだよな…」



中也は廊下の先に消えて行った少女を見送り、ポツリとそう呟いた。