第二章 過去に抗う者達よ




ルナは暗く長い廊下を早足で歩いていた。カツカツと鳴る靴音が響き、その場の静けさを物語っている。そして、そんなルナの眉間には皺がより誰が見ても彼女は怒っていると思うだろう。


ルナが辿り着いたのは首領執務室。その部屋の扉を早足で歩いてきた勢いのまま開け放てば大きな音が鳴る。


執務室にいたのは椅子に腰掛けている森と後ろ手で腕を組んで立っている広津の二人だけ。驚き、目を見開いた広津を無視してルナは森の執務机にバンッと両手をついた。その際にルナが手に持っていたトランプが机の上にばら撒かれる。何故、トランプ?と広津は突っ込みたくなったがそんな事聞ける雰囲気でもなかった。


「如何かしたかね?」

『何で中也を行かせたの』


ルナは怒りの篭った声でそう云った。
数十分前、ルナは中也とトランプして遊ぼうと思い彼の部屋に訪れたのだが其処に中也の姿はなかった。連絡は一つも来ていない。今夜、中也に任務があるとも一言も聞いてなかった。ならば拠点内にいるのかと探し回ったルナ。そんなルナの耳に入ってきた報せは中也がQの奪還作戦に参加したというものだった。


Qの奪還に動くと云っていたのは探偵社だった筈。その任務にポートマフィアも加わると云う事は、つまり探偵社との同盟が成立するという事。


もし、Qの奪還に動くのが太宰であると、組合が一筋縄ではいかない敵を送り込んでくると首領が判っているのなら……。


『中也に汚濁を使わせる気なの?首領』

「組合は強い。奴等を倒すには“双黒”の力が必要だ」

『だからってリスクが大き過ぎる!中也の汚濁を使わなくたって、私が行けば済む事でしょう!!』

「これは私の理論的最適解なのだよルナちゃん」

『納得できない!この戦争で私はずっとお留守番じゃない!』

「おや?君は昨日私の言い付けを破って外に出ていた気がするのだがねぇ」

『うげっ、バレてる』


確かに昨日、Qの詛いが街で発動した時ルナは森に内緒で拠点の外に出た。その事が森にバレていた事に構えのポーズを取って後ずさったルナ。だが、直ぐ様開き直って先程と同じように机に身を乗り出した。


『兎に角!もうお留守番はうんざり。
だから、今すぐに中也の処に行かせて首領!』


懇願するようにそう云ったルナを見据えて森は溜息を吐く。そして、「今はまだ君の力は必要ない」とはっきりと云い切った。その言葉にルナは俯いて唇を噛み締める。


中也が汚濁を使うのは、命に関わる程危険な事。本来、太宰の異能無効化能力がなければ死ぬ迄暴れ続ける禁じ手だ。きっと、今回それを使う事になる。もしかしたら、今こうしている間に中也は汚濁を使っているかもしれない。


それなのに、私はまだ拠点で大人しく待っていろと云うの?


『……お願い首領。中也の処に行かせて』


机についた手を握り締めてそう呟いたルナ。そんなルナを見た森は一度苦笑してから指を組んで口を開いた。


「まあ、娘の我儘を聞くのは慣れているがね」


ルナはゆっくりと顔を上げて森を見る。ルナの瞳に映ったのは優しく微笑む森の姿。
そして、森が云ったその言葉の意味はつまり……。


『首領……私、ロリコンの娘は厭』
「酷い!」


此処は素直に御礼を云われると思ったいた森だが、まさかの嫌悪感剥き出しで云ったルナの返し。森は思わず泣きそうになりながら立ち上がる。そんな森を見てルナは吹き出した。そして、黒外套を翻して扉の方へ歩いていく。扉を閉める瞬間、小さな声で『ありがと』と呟くルナの声が聞こえた気がした。


まるで父と娘の口喧嘩のような二人の会話を黙って見ていた広津は机にばら撒かれたカードを揃える森に目を向け、ずっと思っていた疑問を投げかける。


「首領、何故彼女を前線に参加させないのですか?」


森は広津のその問いにはすぐに答えなかった。そして、一枚だけ床に落ちていたカードを拾い、机から離れて月明かりが差し込む窓の前に立った。


菊池ルナ彼女は私の切り札ジョーカーだ。そして、切り札とは最後の最後まで隠しておくものだよ」


森の手にある道化師の絵が描かれたトランプカード。月明かりに照らされたそれを見詰め、森は笑みを深めたのだった。




**

私はQの監禁場所を目指して森の中を駆けた。目的地に近づくにつれて木々が倒れていて、何かが爆ぜたような跡が残っている。その跡に見覚えがあり、私はざわざわと音を立てるような胸騒ぎを感じた。


森を抜け、晴れた視界。


そして、その場に倒れている人を見つけて私は叫んだ。


『中也!!』


所々穴が空いた地面の中心に倒れていたのは中也。足元から脳髄まで駆け巡った不安が体を硬直させる。だが、それを無理矢理動かして私は倒れている中也に駆け寄って傍に蹲み込む。


『中也ッ!……って、あれ、……寝てる』


瀕死の状態でいるのかと心配して中也の顔を覗き込んでみれば、まさかの子供みたいな顔を晒して寝ているではないか。おまけに鼾までかいて気持ち良さそうに。


『はぁ……無事でよかった』


私の口から溢れたのはそんな言葉だった。先刻まで不安が体を蝕んでいるように重かったのに、中也が無事だと分かった今、全身の力が抜けたような安心感が広がった。


だが、血が付いてぼろぼろの中也と周りに広がる光景を見れば、中也が汚濁を使った事は一目瞭然だった。


そして、私はチラリと中也の隣に置いてある物に目を向けた。其処にあったのは丁寧に畳まれた中也の長外套、そしてその上に置かれた黒帽子。恐らく太宰が置いたのだろう。奴が笑いながら中也を置き去りにして帰る姿が容易に想像できる。


だが、今回ばかりは太宰に感謝しないと。
中也をちゃんと止めてくれたんだもの。





ルナはポケットからハンカチを取り出して眠っている中也の顔に付いた血を丁寧に拭いていく。


『(……血の量が多い)』


顔に付いてしまった血を拭き終わった頃には白かったハンカチが真っ赤に染まっていた。それを見てルナは瞳を揺らしてそのハンカチを持ったまま中也の手を取った。そして、温もりがある中也の手を両手で握り締めて、額に当てる。


数分、ルナはそのまま動かなかった。
中也が無事だった事の喜びを噛み締めるように。


だが、ルナはゆっくりと瞳を開き鋭い視線を後ろに向けた。


近づいてくる数多の足音。ルナが視線を向けた先には銃を武装した男達が十米程離れた位置で止まり、此方に銃を構えていた。


「貴様、ポートマフィアか?それとも武装探偵社の者か?」


その中の先頭に立っていた男がルナに問う。ルナはその問いには答えずに沈黙を通し、握っていた中也の手をゆっくりと地面に下ろす。そして、立ち上がって男達の方へと振り返った。


『組合に雇われた傭兵か……』

「女、質問に答えろ。貴様はマフィアの者か」


銃を構えたまま再度問う男を見て、ルナは口角を上げる。そして、自身のアメジスト色の右目に指を当て、スッと外した。


左目と同じ色のコンタクトによって隠されていた血のように赤い瞳が露わになる。そのオッドアイの瞳が月明かりに照らされて怪しく光ったのを男達は固唾を呑んで見入った。まるでその瞳に魂が吸い込まれているかのように。


『その質問、あんた達は知らなくてもいい事だよ。
だって___』


ルナは嘲笑うかのように笑みを深め、男達に向かって口を開いた。


『どうせ、死ぬんだから』


ぞくり、と恐怖が全身を駆け巡った男達は一斉に銃の引き金に指を掛けた。だが、そんな男達の姿さえ滑稽に思えたルナは優しく語りかけるように呼びかける。


『おいで、イヴ』


ルナの声に応えるように、ルナの背後から現れた黒い影。ルナに“イヴ”と呼ばれたそれは徐々にはっきりと形を作っていき、そこにはこの世のものとは思えない程の巨大な白銀の獣が姿を現した。狼のような姿形。どんなものも切り裂ける大きく鋭く尖った爪と牙。地獄の底から鳴り響くような唸り声。そして、細く鋭い瞳孔をもつ血のように赤い瞳。



ヒッ、と恐怖で息を詰まらせた声が男達から上がる。目の前に現れた異様な生き物に怯えた表情を晒し、体を硬直させていた。その姿はまるで蛇に睨まれた蛙のよう。


『さあ、狩りの時間だよイヴ』


ルナはそう云って男達の方を指さした。


その瞬間、宙に血が舞った。


それは水風船を地面に叩きつけたように地面にいくつも、いくつも広がっていく。それと同時に男達の劈くような絶叫が静かな森に響いた。


それはまさに地獄絵図。
人の何十倍もの獣が男達を切り裂き、嚙みちぎり、喰らっている。
これは殺戮だ。白き化け物を従えて行う惨虐な殺し方。
そして、これこそが《闇の殺戮者》と呼ばれる菊池ルナが恐れられる理由なのだ。


イヴは巨大な獣だというだけではない。人より大きな獣など沢山いる。虎や熊などの猛獣も同じに人よりでかい。だが、イヴは普通の猛獣とは違う。普通の虎や熊は人間が使う銃火器で死ぬだろうが、イヴは死なない。何故なら、イヴはこの世のものからかけ離れた異様な存在なのだから。


無力でありながら抵抗した男が撃った銃弾はイヴに当たったが、その鎧のような皮膚には傷一つ付かないのだ。人間が使う武器など全くの無意味。たとえ、爆弾であってもイヴを傷付ける事は不可能だろう。




そして数十秒後、辺りは静まり返った。
銃の音も男達の叫び声も消えた。
海の底のような静けさ。


ルナは冷淡な瞳を地面に転がる男達だったものに向ける。腕、脚、首、内臓。全てがバラバラに血でできた池の上に散らばっていて、人という姿を保てていなかった。


ルナは瞳を閉じる。そして、男達から背を向け未だに寝ている中也の方へ振り返った時にはもう先程の瞳はしていなかった。その代わりにいつもの優しい瞳に戻して中也の傍に駆け寄った。



『中也、中也』


中也の肩を軽く揺らして起こすのを試みるが、一向に起きる気配がない。汚濁を使ったのだ。いくら体力お化けである中也でも体力を限界まで使い切ったのだろう。このまま寝かせておいた方がいいかもしれない。


そして、拠点まで中也をイヴに乗せて運ぶかと立ち上がろうとしたルナはふと、空を見上げた。ルナの視界にはいくつもの星が瞬く幻想的な夜空が広がった。その美しさに見惚れたルナは中也と同じようにその場に寝転び夜空を見上げる。


サァァ、と木々を揺らしながら吹いた風が通りルナは一瞬身震いをした。温もりを求めてルナが中也に寄り添った時、中也とは別に感じた温かさ。ルナが顔を上げ見上げてみると、其処にはルナと中也を温めるように二人の傍に伏せているイヴがいた。白銀の毛は柔らかくて温かく、更に大きな尻尾がまるで掛布団のように二人を包み込む。


『イヴ、ありがと』


傍に寄ってきたイヴの顔をルナが優しく撫でてやれば、イヴは甘えるように赤い瞳を閉じてルナに寄り添った。そして、優しく微笑んだルナは中也が目を覚ますのをイヴと共に待っていたのだった。






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