第十三章 Hidden pieces of Heart
『あ!中也!』
拠点に帰ってきた三人はエントランスで中也に逢った。携帯を片手にフロントの台に寄り掛かっていたのを見ると如何やらルナ達を待っていたのだろう。
「戻ったか」
携帯をしまいこちらに歩み寄ってくる中也にルナは駆け足で近寄り、ただいま、とはにかむ。ルナの足元から頭の天辺まで目を配らせた中也はルナが何処も怪我していないと確認すると優しくルナの頭をくしゃりと撫でた。
そんな二人を何処か上の空で眺めていた樋口は視界の端に芥川が二人に近づくのを見た。芥川は二人と少し距離を空けて、徐に頭を下げる。
「中也さん、申し訳ありません。昨日は無礼を働きました。記憶を無くしているとは云え、許されぬ事と理解しています。ルナさんにも…」
自分は手を出してはならないものに手を出してしまったのだ。記憶を無くしているとは云え、どんな理由があろうとも彼女に他の男が手を出す事は許されない。それは、マフィア内で中也とルナの関係を知る者には暗黙の了解だろう。
「どのような処罰も受けます」
深々と頭を下げる芥川を中也は無表情に見据える。そんな中也と芥川に交互に視線を彷徨わせながらルナは何も云わずに中也が口を開くのを待った。
「記憶が戻っても記憶がなかった時の事は覚えてんだな?」
「はい」
中也の問いにしっかりと答えた芥川。その返事を聞いて、中也の瞳がギラリと獣のような光を放った。それは芥川の真意を暴くような威圧感を持っていて、芥川の背中に冷や汗が滲む。まるで抗えない猛獣に狩られる寸前のような緊迫感だった。
しかし、数秒して中也は静かに目を閉じ、息を吐き出した。
「なら、もう何も云う事ァねぇよ」
芥川は下げていた頭をゆっくりと上げて中也を見遣る。
「手前が手前のした過ちを忘れてねぇなら、手前はもう二度と同じ過ちを繰り返さねぇだろ。手前はそういう奴だからな。だから、今回は見逃してやる」
「…しかし」
「まあ、でも」
眉間に皺を寄せ渋る芥川に被せるように遮った中也は一度ルナに視線を向ける。不安そうに此方を見上げるルナを一瞥した後、中也は芥川に視線を戻した。
「若しも手前が綺麗さっぱり自分の仕出かした事を忘れていたら、一発殴ってやろうとは思ってたがな」
冗談なのか本気なのかわからない表情でそう云った中也。その言葉を受けて芥川は朧気の雲を掴んだような小さな笑みを零し、もう一度頭を下げた。
芥川は許されない事をした己が許された事に納得などできない。だが、中也のその言葉を聞き、自分の犯した過ちは確かに自分の中に残っている事に気づいた。それが罰だと云うなら、そうなのかもしれない。
「ルナ、行くぞ」
踵を返した中也にルナは、うん、と頷いて芥川達の方に向き直る。
『そうだ。首領への報告は私がしとくから、樋口ちゃんを医務室に連れてってあげて。じゃあ』
手を振って去っていくルナに影に立っていた樋口は慌てて頭を下げた。数秒して、チラッと視線を芥川に向ける。芥川は頭を上げ、去っていくルナ達の後ろ姿を眺めている。
樋口は胸の前で拳を握った。芥川の視線は真っ直ぐに前を見据えて動かない。
「…芥川先輩」
気付けば唇から溢れるように声が出ていた。
「先輩は、ルナさんの事––––––––––」
ずっと避けてきた問いは、最後まで言葉にする事を拒んだ。
沈黙が立ち、樋口は胸の前で握っていた拳を強く握り締める。
「上司と部下」
凪ぐ海のように静かに、囁くように芥川が呟く。
「僕が、それ以上の関係をあの人に望んだ事など一度もない」
視線を動かさずにそう云った芥川を見据え、樋口はそっとその視線の先を追った。
廊下の先では、中也の隣をルナが歩いている。中也以外には決して見せない華のような微笑みを浮かべて。
芥川は静かに去っていくその背中を見据える。
–––––––––彼女の微笑みを見る事などないと思っていた。
嘗て、僕の師は云った。
“「あれは、感情のない人形でしかない。それはこれからもそうであり、そうあるべきなのだよ」”
あの人の言葉は絶対であり、僕も信じて疑わなかった。彼女と見えた時のあの闇より深い瞳を見れば尚更。何処よりも深い闇に身を置き、その恐怖も孤独も知らぬからこそ、彼女は強者であるのだと。だからこそ、彼女はマフィアの黒であると。
しかし、彼女は変わった。
決して変わる事などないと思っていたのに。
「(嗚呼、だからなのだろうな)」
芥川は心の中で自嘲地味に笑った。あの笑顔を咲かせた者は、微塵もそんな事を思わなかったのだろう。だからこそ、彼の傍には今の彼女があるのだ。
もし、預言者のようなあの人の言葉がいつか来たる真実だとしても––––––––––––。
「僕は、ただ願うだけだ」
誰に云うでもなくぽつりと溢した芥川は徐に反対方向へと踵を返した。樋口はそんな芥川の背中を見つめる。
その背中はいつもの芥川のようで、そうでなかった。綯い交ぜになった感情を下ろしたかのようにその背中には数日前にあった迷いはない。過去の感情の残滓は前に進む芥川には必要ない。己が求める強さに近づく為には、決して。
樋口は漸く過去の彼の心にあった秘められた感情の欠片が垣間見えた気がした。しかし、それは他者が触れれば壊れてしまいそうな程に繊細なもの。
樋口はそっと自身の胸に手を当てた。もう樋口の心に黒い靄はなかった。胸の内は晴れ、洗い流したようにすっきりとしている。
樋口は瞼を開け、前方を見遣る。そこには数米離れた先で芥川が視線だけ振り返って立ち止まっていた。それは、まるで樋口が来るのを待っているかのよう。無意識に樋口の頬が緩んだ。
「待って下さい、芥川先輩!」
芥川の背中を追いかける。そんな樋口の顔には、数日振りの自然な笑顔が溢れていた。