第十三章 Hidden pieces of Heart





芥川の記憶を取り戻す任務が課せられたのは、菊池ルナ、樋口一葉、そして芥川龍之介本人の3名。


目的地は五日前、芥川率いる遊撃部隊が殲滅した敵組織の拠点だ。報告書には頭目は死んでおり、捕虜を数名捕らえたものの既に拷問班によって処理済みとある。最早組織統制は取れていないだろう。


『残党の報復か。にしても同胞を解放せよ、だなんて思い切った交渉だよね。組織は既に壊滅、そんな組織の仲間が捕虜としてマフィアに捕まって生きてるだなんて、一縷の望みでしょうに』


ルナは窓枠に肘を置き頬杖をつきながら、窓の外を眺める。景色が早送りのように変わっていく。助手席に座り、呆然と外を眺めるルナを樋口は横目でチラリと見やり、ハンドルを握る手に力を込めた。


「やはり芥川先輩への復讐が目的なのでしょうか」

『龍ちゃん個人かは判らないけど、まあ復讐だろうね』


後部座席では芥川の呻き声が寝息に混ざって聞こえてくる。車に乗り込んで直ぐに体力温存の為か眠ってしまった芥川だが、当然と眠りは心地よいものでないだろう。首に現れた時計の刻印の針が進む度に芥川の眉間に皺が刻まれていく。


ルナの云うような復讐にせよ、敵討ちにせよ、ポートマフィアの構成員に手を出せば、更に恐ろしいマフィアの報復を受ける事は敵も知っている筈だ。それでも、あの宣戦布告状を送ってきたのだから、相手は玉砕覚悟なのだろう。


「でも、何故芥川先輩だったのでしょうか…」

『何故?』


樋口の呟きにルナは不思議そうに首を傾げる。


『何故って、如何して?恨みを買うなんて裏社会では日常茶飯事でしょ。その憎悪の対象が個人であれ、組織であれ。殲滅任務に龍ちゃんが参加した、その事実だけでその対象に十二分なるよ。寧ろ、遊撃部隊のリーダーなんだから当然の人選じゃない?』

「し、しかし今回芥川先輩は誰も……っ!」


樋口は慌てて口を噤んだ。


思わず口から出そうになった言葉。すんでのところで止めてもそれはもう遅かった。ハンドルを握る手に厭な汗が滲む。静まり返った車内の空気が二、三度下がる。樋口は恐ろしくてルナの方を見れなかった。


樋口が云おうとした事。


それは既に報告書を読んだルナには知られている事だろう。知っていて尚、目を瞑っているのか。何もお咎めがない事が返って恐ろしい。


今回の任務は殲滅任務だ。


しかし、その任務の中で芥川は誰も殺していない。誰一人として、だ。その理由を知る者は、一体組織に何人いるだろう。


それは今回の任務に限った事ではない。
あの事件、共喰い事件から、芥川はマフィアでありながら誰一人として殺していない。


その事実を首領やルナが知らない筈がない。知っていて尚、そんな芥川を如何考えているのか。殺さずとも功績を残している内は問題ないかもしれない。今回も今のところお咎めなしだ。

しかし、これからも芥川が誰一人と殺さずにいれば、首領は芥川を如何するだろうか。最悪の場合……。


『–––––––––人を殺さないマフィア、か…』


ぽつり、と零すようにルナが呟く。樋口は肩をびくりと揺らしてルナを見遣った。ルナは窓の外に目を向け、頬杖をついたまま。窓硝子に映ったルナの顔が一瞬見え、樋口は厭に強張った肩を静かに下ろす。窓に映ったルナの瞳。一瞬見えたそれが何処か遠くを見つめているようで、憂いを帯びたその瞳を見たら樋口は何も云えなくなった。


『(まさか龍ちゃんがそうなるだなんて、考えもしなかったな)』


マフィアであって、殺しをしない。
そんなものマフィアの中では異端でしかない。


目を閉じれば、瞼の裏に或る男の背中が浮かび上がる。


嘗てポートマフィアにいた、マフィアでありながら誰も、誰一人として殺さない最下級構成員。


殺しこそがマフィアの本質。
闇こそがマフィアの安寧。


けれど彼はそれに抗って、

そして、儚く散っていった。


いつか、芥川も彼のような結末を迎えるかもしれない。


だが、いつかその時が来ても恐らく自分はその結末に、驚きなどしないだろう。



闇に生きている者は、己の手を血で洗う事しかできないのだから。



ルナはゆっくりと瞳を開く。
瞼に焼き付いていた男の幻像が消えていく。
霧のように、跡形もなく。



マフィアでありながら人を殺さず生きていくなんて、

そんなの––––––––––––。




『いつか自分自身を殺すだけよ』




誰に云ったでもなく零れたルナのその言葉。それは狭い車内で樋口の耳に届いた。だが、樋口はそれに聞こえない振りをして、ただ前を見据え、ハンドルを握り直した。





***





「この高速道路の二つ先にある分岐点を下りて、その先暫く一般道路を走ります」


樋口はアクセルを踏みながら欠伸をしているルナにそう伝える。ルナは、はーいと気のない返事をして、窓の外を眺めた。爽快と走る車は着々と目的地に近付いている。前を走る車を一台抜かし、また一台抜かす。その様子を横目で流すように見たルナはふと窓枠についていた頬杖を解いた。


そして、車のバッグミラーに手を伸ばして、その向きを変える。突然のルナの行動に樋口は驚き、前方とルナに交互に視線をやりながら「如何かしましたか?」とルナに問うた。


ルナはミラーに背後にいる車を映す。


大きな黒いワゴン車。それが一定の距離を保ってルナたちの乗る車の背後で走っている。


『…樋口ちゃん、頭伏せて』

「はい?」


樋口が首を傾げた、その瞬間。



銃声が車内に響いた。


後方と前方の窓硝子が激しい音を立てて割れていく。


ルナは体制を低くして、頭上を通る銃弾を避ける。樋口はというとルナに頭を押さえつけられながらも何とかハンドルを握っていた。ルナが樋口の頭を下げさせなければ樋口の後頭部は銃弾によって貫通していただろう。


「しゅ、襲撃ですか!?」

『そのようだね。誘き寄せたのは此処で始末する為かも』


ルナは腰から拳銃を抜き、背後に視線を向ける。そして、樋口の頭から手を離して散弾によってヒビが入った車の窓硝子を肘で割り、無理矢理窓を開けた。


『樋口ちゃんはそのまま目的地まで運転を続けて。タイムリミットがある以上、こんな処で立ち止まって奴等の相手する時間はないから』

「りょ、了解です!」


樋口が頷いたのを合図にルナは背後の様子を伺う。弾切れなのか銃弾は止んでいる。その間に窓から出て、車の屋根の上に飛び乗った。


同時に向こうの車窓からサングラスをかけた屈強な男が顔を覗かせ、銃口を此方に向けた。ルナは拳銃の引き金を引く。真っ直ぐ一直線に放った銃弾が吸い込まれるように男の米神に貫通した。


米神から血を流して倒れた男。ワゴン車を運転していた男が驚きに目を見開く。もう一人奥にいるのだろうか。何かを叫びながらハンドルを左右に振り出す。


ルナは運転手目掛けて銃口を向ける。



その瞬間、ワゴン車が右に大きく車線を変更し、その背後から新たな車が飛び出す。窓から上半身を出している重装備の男がルナ目がけて短機関銃を撃ち放った。ルナは最初の銃弾でめくれ上がったバックドアを剥がし、それを盾にして放たれる弾を回避する。


鉄の弾が雨のように放たれる中、一台のワゴン車がスピードを上げてルナ達の乗る車に並走してきた。次の瞬間には左側からそのワゴン車が此方の車を跳ね飛ばす勢いでぶつかってくる。衝撃にハンドルが取られ、樋口が悲鳴を上げる。


『(まさか)』


ルナは直ぐ前方の道路に視線をやる。この直ぐ先にあるのは目的の分岐点だ。そこで高速道路を抜けなければ目的地に辿り着くのに倍以上の時間がかかるだろう。


ルナは拳銃をしまい、運転席側の扉を開ける。樋口がギョッとした目で此方に視線を向けたが、お構いなしに樋口の肩を押し退けて助手席に座るよう促す。左側からの衝撃に取られそうになるハンドルを代わってルナは運転席に座った。


『如何やら奴等の目的は時間稼ぎみたい』

「え!と云う事は……って、あああ!!此処の分岐点で下りる筈だったのに!」

『五月蝿い樋口ちゃん』


焦る樋口を余所にルナは片手で左耳を押さえながら顔を顰めた。左からはワゴン車が何度も体当たりしてくる。その度に衝撃によって車の左側が厭な音を立てて破損していく。


再び体当たりする為に距離を取ったワゴン車。慌てふためく樋口を横目にルナはハンドルを握り直して、笑みを浮かべた。


「ルナさん!如何しましょうッ!?」

『しっかり掴まってて。あと、いい加減口閉じないと舌噛むよ』


そう云い終わるや否や、ルナは思い切りハンドルを右に切りながらブレーキを踏んだ。時速100キロ以上で走っていた車輪がその負荷に火花を上げる。咄嗟にしがみついた樋口だが車の遠心力に体が持っていかれる。脳が回る感覚に酔いが生じたが、前方に視線を向けて顔を青褪めた。


いつのまにか車が半回転している。先刻まで体当たりしていたワゴン車は背後で右側に横転していた。相手の車が此方の車にぶつかる直前でルナがブレーキをかけ、それを躱したのだ。


そんな現状を一つ一つ把握できていればどんなに良いか。それができていない樋口はただ顔を青褪めさせたままルナと前方の交互に視線をやる。前から此方に向かって走ってくる車。その間を縫うようにスレスレで躱していく。正面から迫ってくる大型車程恐ろしいものはない。つまり、逆走である。


「ルナさん!?ルナさん!?逆走ですが!?」

『知ってるけど』


声を荒げる樋口とは対照的にルナは淡々と云う。


『分岐点過ぎちゃったんだから仕方ないでしょ。此処下りなかったら、時間稼ぎしたい相手の思う壺だよ』


ルナがそう云いながら目的の分岐点を急カーブで曲がる。このスピードで如何やってハンドルを操っているのか全くの謎である。


高速道路を抜け、一般道に差し掛かる際、ルナはバッグミラーに視線を向けて後方を確認する。追って来ている車は一台。先程いたのは体当たりしてきた車とその後ろにいた車。そして、その更に後ろにいた車。目で確認できた敵はその計3台。そのうちの一台か、新たな敵か。どちらにせよ、一々構っている暇はない。


『しつこいな』


ルナはバッグミラーから視線を離して、舌打ちを零した。そして、ギアを変え、アクセルを踏む。急激に加速した車に樋口はヒュッと喉を鳴らした。


高速道路を抜け、一般道へ。ルナはそのスピードのまま駆け抜ける。曲がり角を車が横転する勢いで曲がり切れば、急に飛び出してきた車に驚いた乗用車が派手な警笛を鳴らした。


背後ではその乗用車を吹き飛ばしながらワゴン車が曲がり角を曲がったのが判った。


十字路の交差点を赤にも関わらず走る車。所々破損し、車輪から火花を散らしながら走るその車は魔法が掛かっているかのように車が往来する道路を走り抜けていく。


「ルナさん!!ぶ、ぶ、ぶつかりますって!!あ"あ"!」

『五月蝿いってば』


爆走状態の車の中で樋口はしがみつくように掴まりながら叫ぶ。もう目を開けているだけで怖いが、閉じていても怖いのだから如何しようもない。


こんな爆走していてもどの車にもぶつからないルナの運転技術は流石と云うべきか。否、しかし体と精神への負担が半端ではない。


交差点を抜け、一本車線を走る。道を阻むように横向きで止まっている車の窓が開き、そこから銃口が覗いている。ルナは銃弾が放たれる前にハンドルを左に切った。樋口が又もやギョッと目を見開く。


「此処車が通れる道じゃないですけど!?」


樋口の云う通り、此処は道ではない。路地裏と云った方が正しい。どんな技なのか片側の車輪を地面に、もう片方の車輪を壁にしてどうにか走れる道幅である。摩擦で火花を上げながらルナは暢気に溜息を零した。


『あーあ、中也の異能なら壁を走れるのになぁ。バイクで走ると凄く格好良いんだよ』

「そんな事云ってる場合ですか!」


路地を抜け、一本道に出る。車一台が通れるその道のその奥には目的の敵組織拠点。


ルナ達の乗る車の前方からノンブレーキで車が突進してくる。殲滅した組織の残党か、雇われた傭兵かもしれない。


急速に迫ってくる車にルナはニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。


『衝突してでも止めたいみたいね。いいよ賭った!』


オッドアイの瞳をギラリと光らせたルナはアクセルを緩め、ハンドルを強く握る。そんなルナの様子に樋口は歯を食いしばって目を瞑った。その顔は青褪め最早放心状態。神に祈るように座席にしがみ付いた。


敵はアクセルを緩める気はない。道は車一台が通れる一本道。避ける事も引き返す事もできない状況。ルナ達をこの先へ行かせたくないのだろう。正面衝突覚悟で突っ込んでくる。このまま何方かが突っ込んでも何方も無事では済まないだろう。


ルナは片手でハンドルを握りながら腰から拳銃を取り出した。前方から突進してくる車。ルナはその前輪目がけて弾を撃つ。乾いた音が何発も鳴り、相手の前輪が弾け飛んだ。敵の車が前方に傾いた瞬間、ルナはアクセルを思い切り踏んだ。此方の前輪が上がる。そのまま相手の車を乗り上げるように車輪が相手の車の上を走った。



激しい爆音が背後で響いている。前輪が外れ、制御を失った敵の車が派手に横転し、炎を上げて燃えていく。


ルナは大きく破損しボロボロになった車を停めた。



「おええっ」


樋口がすかさず扉を開けて外に嘔吐する。極度の緊張と恐怖。そして、脳が回る程の酔いに吐かずにはいられなかった。こんな爆走劇は二度と御免である。


『よし、着いた着いた。久し振りに運転したけど鈍ってなくてよかった』


爆走劇を繰り広げた当の運転手はケロッとした様子で車から降りる。この時、樋口は二度とルナの運転する車には乗るまいと誓った。


『そう云えば、龍ちゃん生きてる?』


ルナが後部座席を指差しながらそう云えば、樋口は「あ"あああ!!」と叫びながらボロボロになった車の扉を開け放つ。


「大丈夫ですか!?芥川先輩!…って、あああ!先輩がぁぁ!」


再度叫んだ樋口は後部座席で白目を剥いて伸び切っている芥川の肩を揺らす。如何やらルナの爆走運転の所為で意識を手放したらしい。敵の異能に加え、酔の所為か、頭打ったのか判らないが、幸いにも銃弾は当たっていないようだ。


『一寸一寸、まだ前菜だよ。これからが本番なんだから。役立たずじゃ困るよ』


態と挑発をこめたその言葉に失神していた芥川の耳が動く。そして、むくりと起き上がった。


「任務を、遂行します…」


汗を掻きながら車から降りた芥川に樋口は手を貸そうとしたが、「僕に構うな」と手を払われてしまう。樋口はやり場のなくなった手を下ろし、悲しそうに瞳を揺らしている。


ルナはそんな二人から目を離し、目の前にそびえ立つ建物を見据えた。



『さあ、とっとと龍ちゃんの記憶を取り戻しに行こうか』





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