第十三章 Hidden pieces of Heart





『ごめん!樋口ちゃん!』


パンッと掌を合わせる音が廊下に響く。


「そ、そんな。頭を上げてください」


樋口は謝るルナを慌てて制す。ルナはそれでも手を合わせたまま、樋口を見上げて申し訳なさそうに眉を下げた。


『ううん、謝らせて…。本当に勝手な事して、それに私、樋口ちゃんを悲しませちゃったと思うから』


しゅん、と俯いてしまったルナ。確かにあの部屋で見た光景は今でも樋口の脳裏に色濃く焼き付いている。胸が張り裂けそうな程痛んだのも事実だ。だが、詳細を聞き、幾分か落ち着いた。


「ルナさんは私の為にして下さったのでしょう?なら、私は何も気にしていませんよ」


にこり、と笑った樋口。その笑みを見て、ルナはホッと胸を撫で下ろす。事故とは云え、樋口の事だから、あんな光景を見てしまえばショックで死んでしまうかと思った。不謹慎だが、芥川の事となると正気でいられない樋口なので、本気で考えた事だ。


「それよりもルナさんこそ大丈夫だったのですか?」


声量を落とした樋口がルナの耳元でそう尋ねる。何の事?とルナが首を傾げれば、樋口はチラッと視線をルナの後ろにやって、ルナに耳打ちする。


「中也さんに焼きを入れられるとか仰ってましたから…」


樋口のその言葉に、ルナの顔が真っ赤に染まった。ヤカンが沸騰したかのように急に赤くなったルナを見て、今度は樋口が首を傾げた。


「ルナさん?」

『あ、えっと…、だ、いじょうぶだったよ』


どもりながらそう云ったルナは思わず視線を後ろにいる中也にやった。


書類を片手に部下と話している中也がルナのその視線に気付く。青い瞳が此方に向いた瞬間、昨夜のお仕置きとシーツを汚してしまった恥ずかしい記憶がフラッシュバックし、ルナは火照る顔を隠すように中也に背を向けた。


赤い顔を手で仰ぐルナと再び部下に向き直った中也を交互に見遣り、樋口はそれ以上詮索しない事を決めた。


『そ、そう云えば、あの後龍ちゃんの様子は如何だった?薬の効果は切れてると思うんだけど』

「はい、恐らく大丈夫かと。首領が診て下さいましたし。あ、でも熱があるようで今は医務室で安静にしています」

『そう。……あ、一寸ごめん』


突然鳴り出した携帯を取り出す。表示には首領という名前。ルナは応答釦を押して、それを耳に当てた。その様子を樋口は黙って、通話が終わるのを静かに待つ。


『何任務?………え、樋口ちゃん?此処にいるけど……、』

「(私?)」


出てきた自分の名前に樋口は思わず自分を指差す。ルナは樋口を横目で見ながら相槌を打っている。


『あー、いやそれは私の所為で…。熱は知らない。檸檬君そんな事云ってなかったし。うん、反省してるってば、中也に怒られたもん……。え、今から?』


通話しながら何度も表情が変わるルナ。電話の向こうから聞こえる声に耳を傾けているのか数秒黙ったルナは徐に口角を上げた。


『へぇ、それはそれは』


そう云ったルナの雰囲気が変わった。その射抜くような視線に樋口は思わず固唾を飲み込む。


森との会話を終え、携帯を仕舞ったルナは樋口に視線を向ける。そして、樋口の手を取り、歩き出した。


「あ、あの、ルナさん?」

『良い報せと悪い報せ何方から聞きたい?』

「えっと、では良い報せで…」

『龍ちゃんの記憶喪失の原因が判ったかもしれない』

「え!?」


驚きのあまり思わず足を止めた樋口につられてルナも止まる。


「そ、それって」

『詳細は後で話す。兎に角、首領が呼んでる。今すぐ医務室に行こう』


ルナのその言葉に樋口は額から冷や汗が垂れるのが判った。首領からの呼び出しで何故、首領執務室ではなく、医務室なのか。厭な予感がして樋口はルナが先程云った言葉を思い出した。


「あの、ルナさん。悪い報せ、と云うのは?」

『龍ちゃんの記憶、疾く取り戻さないと手遅れになるかもしれない』


鈍器で殴られたかのような衝撃だった。樋口の顔は青褪め、呼吸が荒くなっていく。ルナはそんな樋口の様子を横目で見遣り、疾く医務室に行こうと樋口の手を引っ張った。


「おい、ルナ」


背後から呼ばれた名に振り返る。そこには中也と中也の部下が立っている。中也は何かを悟ったのか、真剣な表情をルナに向けた。


「俺は別の任務で外せねぇが、無理はすんなよ」

『うん。中也も』


中也に手を振ってルナは今度こそ樋口の手を引っ張り、歩き出す。そんなルナの背中を見送り、中也も自分に課せられた任務の為、部下と共に踵を返した。




***



『首領、龍ちゃんの容体は?』


薬品の匂いが染みついた医務室に着いたルナと樋口。白衣を着て、カルテを見ていた森が視線を白のカーテンが掛かっている寝台へと向けた。


「んー、宜しくないねぇ。急に苦しみ出したから、発作のようなものだ」


浅い呼吸が寝台から聞こえる。ルナは無遠慮にカーテンを開いて寝台の上で蹲っている芥川を見下ろした。


『これが例の時計の刻印?』


先刻、電話で森が云っいたもの。ゆっくりと、しかし狂いなく進んでいるその時計のような刻印。それが芥川の首に刻まれている。赤黒く光るそれは紛れもなく異能力によるものだった。


「先程宣戦布告状も届いたよ」


森の手から一枚の紙を受け取り、それをルナは読む。


『“黒き禍狗の記憶、取り戻したくば、同胞を解放せよ。でなくば、禍狗の記憶と命を頂戴致す”』


その紙にはそう書かれていた。ルナの読み上げたその内容に樋口は顔を青褪める。そして、寝台から聞こえた息苦しむ声を聞き、咄嗟に芥川の側に立った。


「芥川先輩!」


縋るような樋口の声。その泣き出してしまいそうな背中を横目にルナは森に向き直る。


『それでこの手紙の相手は判ってるの?』

「五日前に遊撃部隊が殲滅した組織さ」


五日前の遊撃部隊の任務。その任務後に芥川の記憶がなくなったと訊いていたが、矢張り無関係ではなかったようだ。


「だが、相手の頭目は抗争中に死んでいるし、捕虜は何人か捕らえたが既にうちの拷問犯によって処理されている」

『つまり交渉は既に決裂。捕虜が死んでるもんね。となると遅かれ早かれ龍ちゃんが危ないって事か。如何するの、首領?ダミーでも作っとく?』

「いや、交渉には乗らない」


森は人差し指を立てて即答する。その森の言葉に樋口は勢いよく振り返り、握った拳を震わせる。

「そ、そんな!交渉ができないなら芥川先輩は如何なるんですか!?まさか、芥川先輩を切り捨てるお心算でッ」


樋口の脳裏にいつかの記憶が過ぎる。嘗て人虎との対決に敗れた芥川は意識が戻らないまま他の組織の手に落ちた。あの時、樋口は芥川が組織から切り捨てられたと思った。その時の恐怖が今でも樋口の中にある。何も出来ない自分のやらせなさも。


「慥かにこれ以上被害が出ないように、芥川君を切り捨てる選択もしなくてはならないね」


森の非情な声がやけに耳元で響いた。樋口は恐る恐る森に視線をやる。冷たい瞳が樋口を真っ直ぐ見据えている。


「組織の命に優先順位があるように、命を数で量る事もある。命の重さと数、そして凡ゆるものを天秤に掛け、より重い方を組織の利の為に生かし、軽い方を切り捨てる。それが異能力者であろうとなかろうと」


白い白衣に無造作に流した髪はただの町医者の風貌。しかし、その冷徹な瞳にはマフィア首領の残酷なまでの威厳が感じられる。この男は、部下を切り捨てる事を厭わない。それが下級構成員だろうと、幹部だろうと、この男が“用済み”と判断すれば、その一声で処分される。全てはポートマフィアという組織を生かす為。


樋口は唇を噛み締める。口の中に微かに血の味が広がった。首領の命令は絶対。その言葉を心中で繰り返し、樋口はを閉じた。目の奥から溢れそうな何かを隠すように樋口は寝台に向き直る。もう、自分には何もできない。


『首領、少し意地悪なんじゃないの?』


その場に似つかないルナの声が診察室に響いた。樋口は隈のついた目でルナを見遣る。ルナは腕を組んだまま森に呆れた目を向けている。


ルナとて先刻の森の言葉が嘘偽りのない真実であると重々承知している。ルナが何よりこの男を知り、そして彼の命令で彼が天秤に掛けてきた命の半数以上を切り捨ててきたのはルナ自身だ。命の重さも軽さもよく知っている。この男は、芥川を切り捨てる事も厭わないだろう。この組織に例外はない。それは、中也でさえも–––––––––––。


だが、森鴎外は己の命すらも天秤かける男だ。だからこそ、彼はポートマフィア首領なのだ。


しかし、今回は。


『今は別に龍ちゃんを切り捨てる心算なんてないんでしょ?』


森をよく知るルナだからこそ判る。この場に、自分と樋口の二人が呼ばれた事が何よりの証拠だった。


そして、今回自分に課せられた任務も。


『龍ちゃんの記憶を奪ったのは敵組織の異能力者。今回の任務は、その異能力者の排除と龍ちゃんの記憶を無事に取り戻す事。そうでしょ?』


ルナの問いに森は一拍置いた後、ふっと微笑んだ。


「そうだよ。樋口君、君もルナちゃんと行きなさい」


樋口は一瞬二人の会話についていけずにその場に固まる。しかし、頭の中で整理しみる。つまり、つまり……。


「は、はい!必ずや敵を排除して先輩の記憶を取り戻してみせます!」


つまり、芥川先輩は助かる。自分が頑張れば、否何としてもこの任務を遂行してみせる。


樋口は握り締めた拳で自身の胸を叩いた。



「その、宣戦布告状の、主が…」



ふと、寝台から聞こえた声にその場にいた全員が視線を向ける。途切れ途切れの荒い息を溢しながら芥川が胸元の服を握りしめ、よろよろと上体を起こした。顔は青白く、目は虚ろで額には汗が滲んでいる。起き上がるどころか喋る事も辛い筈だが、芥川は並外れた精神力で自分を奮い立たせ、灰色の瞳を森とルナに向けた。


「嘗て、僕が逃した残兵ならば、僕が始末します」

「そんな!芥川先輩!いくら先輩でもそんな体では」

「うるさい‥僕に構うなッ」


蹌踉めいた芥川を支えようとした樋口の手を芥川は払い退けて寝台から降りる。しかし、芥川は眩暈によって床に膝をついた。


明らかに不調の芥川を任務に行かせるべきか。この様子だと戦闘はまともに出来ないだろう。寧ろ、邪魔になるかもしれない。


却説如何したものかとルナは森に視線を向ける。森は顎を摘み黙考ていたが、その後徐に床に蹲る芥川に向き直った。


「いいだろう。芥川君も行きなさい。相手の異能力が明確でない以上、此処でじっとしていても仕方ないだろうからね」


森は机に置かれた先の任務の報告書とカルテを横目に続ける。


「敵の異能力の詳細は判らない。芥川君の記憶は敵異能者を倒せば戻るのか、倒したとしても戻らないのか。何方にせよ芥川君がその場にいる事で、記憶を取り戻す糸口が見つかるかもしれない」


慥かに相手の異能が判らない以上厄介かもしれない。加え芥川は万全の状態ではない。しかし、もし芥川がその場にいなければ相手の異能が解除出来ないとなるとそれこそ此処に芥川が残っても無駄になるだろう。リミットがあるなら尚更。



そうと決まれば、任務開始だ。


『龍ちゃん行ける?フラフラだけど』

「…問題、ありません」


膝に手をついて立ち上がった芥川はそのまま覚束ない足取りで歩き出す。芥川を支えようと駆け寄った樋口だが、その足を止める。知らない者に肩を借りるのは厭だろう、抑芥川は人の力を借りるのを嫌う人間だ。


「(あんな、体で…芥川先輩は本当に大丈夫なのだろうか)」


もし、もしも任務中に……。


厭な考えばかりが脳裏を掠める。


『ねぇ、樋口ちゃん』


震える背中にルナは優しく声をかけた。樋口はゆっくり振り返る。その表情はまるで泣き出してしまいそうな幼子に見えた。ルナはそんな樋口の顔をしっかりと見据えて手を腰に当てた。


『安心して樋口ちゃん。私が龍ちゃんの事、守ってあげるから』

「ルナさん…」

『7年以上首領専属護衛なんてやってんだもん。龍ちゃんを守る事なんて、あのロリコンを護る事なんかより朝飯前よ』


にこりと微笑んだルナ。


そのルナの笑顔に、頼もしい言葉に樋口は口許が緩むのを感じた。強張っていた筋肉が解されていくように口許だけでなく、体中に張り巡らされていた針金のような不安と緊張が解けていく。


ルナが“守る”というだけで、こんなにも不安が消えていく。




矢張りルナさんは、私の憧れの上司だ。


そう思わずにはいられなかった。





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