「あ、お疲れ様です」

「おう、樋口か」


首領へ書類の提出を終えた樋口は最上階から昇降機に乗り、ルナに呼ばれた茶会部屋がある階へと降りる途中、同じく昇降機に乗ろうとした中也に逢った。
　

「大丈夫か？顔凄ェやつれてんぞ」

「は、はは…すみません、お見苦しいものを」


思わず乾いた笑いが溢れる。一体今日で何回云われ、また同じく云い返した言葉だろうか。先程、書類を提出しに行った際も首領に心配された。流石にこれ以上こんな酷い顔で仕事をする訳にもいかない。


「あんま無理すんなよ。つっても芥川の記憶が戻らねぇ以上、手前は落ち着いてられねぇか」

「…そう…ですね……」


中也の口から出てきた芥川の名に樋口は肩を揺らす。その樋口の反応に中也は気付き、敢えてそれ以上は訊かずに昇降機に乗り込む。樋口は端によって中也のスペースを空けて、「何階ですか？」と中也に行き先の階を訪ねるが、中也は「あー」と何か考えるように空を見遣った後、樋口に視線を向けた。


「ルナを探してンだが見てねぇか？」

「あ、それなら先程ルナさんからお茶に誘われまして今から向かう処だったんです」

「そうか。疲れてんのに悪りぃな。彼奴に付き合って貰っちまって」

「いえ、全然。寧ろ有難いです。こんな私に親身にしてくださって」


いつもより悲観的な樋口の発言に中也は顔を引き攣らせる。芥川の記憶喪失は樋口にとってダメージが大きかったようだ。ルナは樋口を励まし、芥川の記憶を戻す手助けをすると云っていたが、ルナの事だ、悪気はないが無意識に樋口の心を抉るような発言や行動をし兼ねないかと不安になる。


昇降機が目的の階に辿り着き、中也と樋口はルナが用意したお茶会部屋へと足を向ける。


「お前等よく茶会とかすんのか？」

「あ、いえ。そんな頻繁でもないですが。偶にルナさんに相談乗って貰ったりしてますかね」

「相談ねぇ…」


果たしてルナが相談相手として務まっているのか怪しいところではあるが、樋口の様子からしてルナはルナなりに上司として、先輩としてその立場を意識しているのだろう。


「まあ何だ。色々と大変かもしれねぇが、これからも彼奴と仲良くしてやってくれ」


一歩前を歩く中也の背中に一度視線を向けた樋口はその中也の言葉に一拍間を空けてから頷いた。無意識に視線を中也から逸らす。素直に頷けなかったのは少しの罪悪感からか。


今朝に逢ったルナの困惑した顔が脳裏を掠める。自分が決めた事だが、ずっと応援してくれていたルナには申し訳なかった。


また、それと同時にルナの目を真っ直ぐ見れなくなっている自分がいる事に気づく。自分の憧れである上司の筈なのに、そんな上司からお茶のお誘いを受けて嬉しいはずなのに、足は酷く重い。


今迄、こんな事はなかった筈なのに。何時からだっただろう。芥川が記憶をなくして、それから……。


ふと、樋口は歩みを止める。そして、前を歩く中也を力なのない声で呼び止める。


「…あの、中也さん」

「何だ？」

「えっと、その……、よ、四年前のルナさんと芥川先輩の関係ってどんな感じだったのですか？」

「何だその質問」

「…いえ、…その、何となく気になってしまって。芥川先輩が記憶をなくしてから、お二人の様子がいつもと大分違う様な気がしたので…」


ルナと芥川は特段仲が良いと云う訳でもないが、不仲ではない。歳は同じであるが立場的にはルナが上である為、芥川はルナに敬意を払っているように見える。


それと何処となく、芥川はルナとの間に一歩線を引いているようにも見えた。根拠はないし、気のせいだと云われればその通りかもしれないが、いつも芥川の背中を見ていた樋口からすれば何となくそう感じていたのだ。


だが、芥川が記憶を無くしてからと云うもの、二人の雰囲気に違和感を感じた。その違和感の正体は恐らく、四年前の……、否、もしかしたらそれ以前の二人の関係にその違和感の正体があるのかもしれない。


「………。」


中也は樋口の真意を探る為、彼女を横目で見遣る。樋口は視線を床に落とし、神妙な顔つきで何かを黙考しているようだった。


「四年前は分からねぇが…」


昔を思い出すように中也が樋口の先程の質問に答える。


「出逢った当初は、芥川はルナに敵意剥き出しだったな。その後は何の心境の変化か、嘘のようになくなったが…、彼奴等が関わってるイメージはあまりねぇよ。まぁ、彼奴はああ見えて他人と深く関わろうとしねぇけどよ。特に昔の彼奴は他人なんて全く興味ねぇしな」

「…確かに、芥川先輩はあまり人に興味を持つタイプではないですもんね」

「ん？…嗚呼、そうか芥川も（・）まあそうだな」

「……あれ？芥川先輩の話ですよね」


中也の云った言葉に少し話のズレを感じた樋口は確認の為に聞き返す。中也は苦笑して、首を横に振った。


「先刻のはルナの事な。昔のルナは他人なんざ興味ねぇし、他人との関わりは殆どしなかったからな」


中也のその話には少し驚きだ。樋口の知るルナは誰とでも気兼ねなく話せる明るい上司、そんなイメージが強い。いつも笑顔で、可愛らしくて、だが、いざとなると迚も頼れる人。樋口にとって憧れそのものの上司だった。


だからこそ、時に酷く、“羨ましい”と思う。



「だから、四年前もルナと芥川に関わりはねぇよ」

「……そう、ですか」


––––––––––––何故、私はほっとしているのだろう。


ルナと芥川に関わりがないと、なかったと知って胸の何処かでほっとしている自分がいる。その事実に樋口は困惑した。自身の胸のあたりの服を握り締める。ほっとしているのに、心臓が酷く痛んだ。


中也は樋口の様子を見やる。俯いて黙り込んでしまっている樋口。その様子を見て、中也は徐に口を開いた。


「手前は如何思った？」

「何がです？」

「芥川が記憶をなくしてから、ルナと芥川はどんなだったんだ？」


中也の問いに樋口は言葉を詰まらせた。また、酷く胸が痛い。心臓に杭を打ち付けられたかのように何度もズキズキと胸が痛む。


「…特には、」


声になった言葉は随分と説得力がなかった。中也もその樋口の返しが嘘である事は判った。


樋口の表情から彼女の中で困惑として現れている情が垣間見えたからだ。


その情に中也は既視感を感じる。それは屹度、嘗て中也自身が予期した事だからだ。昔、自身が感じたものと同じ事を、今樋口も感じてしまったから。



「……まぁ、何時から何ざ判らねぇし。知りたくもねぇがな」


ぼそっと呟いた中也に樋口は首を傾げる。


「何か云いましたか？」

「いや……、ん？」


その時、突然何かが倒れる音が中也の耳に届いた。その音は樋口にも聞こえた。





不穏に思い、中也と樋口は音がしたであろう部屋に早足で駆け寄る。





––––––––––––そして、その扉を開いた。





目の前に飛び込んできた光景に樋口は勿論、中也も視線を床に向けたまま固まった。



驚きに開かれたオッドアイの瞳が中也と樋口を見上げる。


数秒、時が止まったかのようにその部屋にいた全員が言葉を詰まらせた。


中也と樋口の視界に飛び込んできたのは、



床に押し倒されているルナとその上に跨る芥川の姿。



数秒、時が止まった。



芥川に押し倒されたルナ。
胸の谷間と白い太腿が露わになっている。



その光景を見て、最初に動いたのは中也だった。


ガッ、と乱暴に中也がルナに跨る芥川の胸倉を掴み上げた。殺気を含ませた眼光で芥川を睨み付ける。


「おい芥川。手前、記憶がなくなって手を出していい相手とそうじゃねぇ相手の区別もつけらんなくなったのか？ああ"？誰の女に手ぇ出してやがる」


いつもの何倍も声を低くした中也が芥川を今すぐにでも殺さんばかりの殺気を向けている。そんな中也の様子にルナは慌てて立ち上がり、芥川の胸倉を掴む中也の手を掴んだ。


『ちょ、ちょちょっと待って中也！違うの！龍ちゃんは悪くないの！』

「悪くねぇ？手前、襲われそうになって尚此奴を庇うのかよ」

『だから、その違くて……私の所為だから』

「どんな理由があれ、此奴ァ手前に手ェ出そうとしたんだ。拳一発じゃあ許されねぇぞ」


本気で芥川に殴りかかりそうな中也を見て冷や汗を垂らす。しかし、今回は本当に此方に非があるためいくらルナでも見過ごすわけにはいかなかった。それに恐らく中也は勘違いしている。


『本当に龍ちゃんは悪くなくてね。その……、私が龍ちゃんに惚れ薬なるものを飲ませちゃって』

「だからってなァ、…………ほれ？…は？」


そこで中也の言葉が止まる。芥川を睨みつけていた鋭い視線が緩みルナに向かれる。


ルナは自身の人差し指を合わせて悪戯がバレた子犬のような目で中也を見上げた。


『惚れ薬をね、飲ませちゃったの。龍ちゃんに。それで色々予定がズレて、こんな事に……てへ』

「……。」


中也が冷めた目でルナを見下ろす。ダラダラと汗を垂らすルナ。そんなルナを見て大きく溜息を吐き出した中也は掴んでいた芥川の胸倉を離した。そして、今度はルナの腕を乱暴に掴み、ズカズカと歩き出す。


「樋口、悪ィが後は任せたぞ。俺はこの莫迦に焼きを入れてくる」

『やきっ！？ちょちょっと中也！ヤキって何！？』

「五月蝿ぇ、いいから来い」

『やだやだ！樋口ちゃん助けて！樋口ちゃぁぁあん！』


泣き叫ぶルナを容赦なくズルズルと引っ張っていく中也。ルナの悲痛な叫び声を残して、二人は去って行ってしまった。


部屋に残された樋口と芥川。


暫く放心状態で樋口はその場に立ち尽くしていた。