第十三章 Hidden pieces of Heart
「知らぬ」
拠点の廊下に響いた無情な声。
その場に白目を剥いて蹌踉けた樋口をルナが支える。
『樋口ちゃん!ここで諦めちゃ駄目!Never give up!!』
樋口の自宅を後にしたルナと樋口は拠点に戻って、芥川を探していた。丁度、廊下を歩いていた彼を見つけ、声を掛けたが、相変わらず睨むように振り返った芥川にルナは単刀直入に『この子わかる?』と訊いた結果があの一言だった。
「侵入者ならば排除するが?」
『いやいや龍ちゃんよく思い出して?ほら、この金髪の可愛い子。龍ちゃんの部下でしょ。鬱陶しいくらいに付き纏ってはいつも置いていかれてるしつこいのが取り柄の部下の樋口ちゃん』
本当に斬り刻みかねない芥川を制してルナは樋口をフォローするが、それは樋口の心臓にとどめを刺すようにグサグサと刺さる言葉のナイフ。ルナはただ芥川に思い出させようと説明している心算だが、その言葉に毒が入ってるなんて気付かず樋口の心臓を抉る。仕方ない、ルナは人のフォローというものに慣れていない。
「同じ事を幾度訊かれても答えは同じだ。知らぬものは知らぬ」
「あ、芥川先輩…」
瞳に涙を溜めて肩を落とす樋口にルナは『大丈夫?』と慰める。相変わらず鋭い視線を送ってくる芥川に聞こえないようにルナは樋口の耳元で『ところでさ』と小声で話す。
『抑何で龍ちゃんがこんな事になってんだっけ?遊撃部隊の任務でこうなったんでしょ。樋口ちゃん何か知らないの?』
「わ、わかりません。任務中は問題なかったんです。組織への襲撃を目論んだ敵組織の拠点を突き止め、我々遊撃部隊が一掃したのですが、何分、芥川先輩は独断専行を主とする故、任務を終えた頃には既に……」
『うーん。つまり、本当に誰も知らないんだね。龍ちゃんが記憶を無くした理由』
腕を組んで暫く黙考していたルナだが、くるっと向きを変えて芥川に向き直った。
『ねぇ、龍ちゃん。何か変に感じてる事ない?何でもいいんだけど』
考えても何も浮かばなかったルナはもう本人に聞こうと自棄糞である。その問いに芥川はルナの後ろで此方を不安そうに見詰めている樋口へと視線を向けた。
「違和感があるとすれば貴女とそこの小娘だ。まさか貴女とあろう者が部外者を拠点に招き入れるなどと、首領専属護衛の所業とは思えぬ」
『いやだからさ、部外者じゃないってば。いつもだけどこの頃はほんともう頑固だったんだね龍ちゃん』
へらっと笑ったルナを見据えて芥川は眉を顰めた。ルナが問うた違和感。それは先程から芥川の中にあるものだ。拠点にいる知らない顔触れ。そこから感じる違和感。否、何より目の前にいるルナを見る度にそれは大きく膨らんでいく。感情の抑揚が見られる声。誰隔てなく向けられる笑顔。それを目の前にする度に芥川の胸の奥で沸々と顔を出す何か。芥川はそれに気付きながら外套に仕舞った拳を握り締めた。
「やはり腑抜けておられる。あの人が消えたというのに貴女は探すどころか何事もなかったかのように振る舞うのか」
『悪いけどそれはもうとーっくに過ぎた事だからね。もういい加減認めてよ、自分が記憶喪失だってこと。今の龍ちゃんは四年前の記憶で止まってるの』
「何を云ってるのか理解できぬ。僕は僕を認識している。記憶に不備があるとは思えぬ」
『いやどう見ても不備ありでしょ』
自身が記憶喪失だと認めない限り芥川に記憶を取り戻す意思は芽生えない。こうなると、結構厄介だ。元々頑固な性格が更に極まった今の、もとい四年前の芥川。自分の知らないものは知らないの一点張りだ。
『はぁ、やっぱもう頭殴る?そっちの方が疾い気がする』
「止めて下さいルナさん!先輩の頭は繊細なんです!どうか丁重に!丁重にお願いします!」
『いや昔読んだ文献に打撃療法が最良な治療だって書いてあった気がする』
「ルナさんもう面倒くさくなってませんか!?先刻まであんなに応援してくれるって云ったのに!」
拳を作り腕を回すルナの腰にしがみついて必死に止める樋口。女二人でギャアギャアと騒がしく攻防を続けているが、主に樋口がルナに泣きついている。しかし、ルナはそんな樋口をいとも簡単に腰から引っ剥がして、面倒臭そうに落ち着かせている。
コロコロと変わるルナの表情を芥川は暗い瞳で見据える。また自分の中から顔を出した何かに苛立ち、自分でも判らないそれに戸惑った。
「不備があるとすれば、貴女の方ではないか」
気付けば芥川は口を開いていた。その言葉にルナと樋口が視線を向ける。細く目を伏せていた芥川が鋭利な眼差しでルナを睨み付けた。
「貴女は僕の知る貴女ではない。その口調、その表情、全くの別人だ。マフィアの威厳すら感じぬ」
『そんなものあったっけか』
「っ」
ルナの傍を猛スピードで走った黒布。それが樋口の目の前に瞬きする間も無く迫った。樋口が何が起こったのか理解したのはルナに腕を引かれて避ける事ができた後だった。放心状態でへたり込んだ樋口を横目で見ろしてルナは溜息を吐く。
『あのさ龍ちゃん。いきなり攻撃するのやめない?危ないでしょ。ほら見て樋口ちゃん腰抜かしちゃったじゃない。可哀想』
「僕の知る貴女はそんな労りなど知らない」
『私どんな人だと思われてたの。非道い』
床にへたり込んだ樋口の背を優しく摩るその姿があの日の光景と重なる。違うのは、ルナの表情とその手にある温もり。己が感じた温度とは似ても似つかないその光景に芥川は拳を握りしめた。
「“可哀想”などという感情は貴女にない。そう、あの人は云った」
芥川のその言葉にルナは樋口の背を摩る手を止める。
「そして、こうも云っていた。だからこそ、貴女はマフィアの黒であると。その闇と血で出来た貴女の功績がマフィアの利であり、そして、決して変えてはならぬと」
『何が云いたいの?』
「貴女は変わった。僕にはそれがどうしても…」
芥川は歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。自分の感情が判らなくなった。もやもやと胸の中で騒ぎ立てる色んな感情を怒りで抑えつける。
苛立ちを隠せず、殺気を飛ばす芥川は直ぐにでも誰かを殺してしまいそうだった。ルナはそんな様子の芥川と未だに床にへたり込んでいる樋口に其々視線を向ける。樋口は随分ショックだっただろう。実際、芥川に殺されそうになったのだ。四年前の芥川が激情のままに誰振り構わず牙を立てるのはどうやら本当らしい。そうなれば、ルナとて見て見ぬ振りはしていられない。
『龍ちゃんはさ、要するに私が気に食わないんでしょ?』
ルナはゆっくりと立ち上がり芥川の前に立つ。
『私は別に気にしないし、どうでもいいけど、私以外は無闇に攻撃しないで欲しいな』
「笑止、己より他人の心配をすると?」
『うん、そうだね。約束してくれる?』
ルナのその言葉に芥川は眉を顰める。正直に肯定したルナは何処までも自分の知らない彼女だ。
「…口約束は好まぬ」
『まあそうだよね。でもさ困るんだよね、誰にでも斬りかかられると。首領に龍ちゃんのサポートを頼まれたから、もし龍ちゃんが仲間を傷付けようとすらなら止めるし、大抵の事は私も目を瞑ってあげられるけど……
でも、もし_____』
一拍置いたルナが芥川を静かに見据える。その瞬間、芥川の背中を冷たい汗が伝う。先刻まで柔らかかったルナの視線が急に冷たいものになった。
『少しでも中也に手を出したら、
––––––––––––––容赦しないから』
ルナの足元で黒い影が揺れる。コンタクト越しに隠された鋭い瞳が赤く光るのを見て、芥川は息を呑み込んだ。
芥川の殺気を凌駕するルナの殺気。それは芥川の知っているルナのもの。否、芥川の知るそれより遥かに鋭い殺気だった。
『と、まあそう云う事で、程々にね龍ちゃん。取り敢えず自分が記憶喪失だって疾く認めなさい!』
けろり、と表情を戻したルナが芥川をビシッと指差して笑顔でそう云った。いつの間にか黒い影も消えている。
『ん?…あ!中也仕事終わったって!樋口ちゃんごめん!龍ちゃんの記憶取り戻すのはまた明日ね』
急に携帯の画面を見たと思ったら満面な笑みを浮かべてそう叫んだルナはくるっと回れ右をして走り出す。
「え、ちょっルナさん!?」
『龍ちゃーん、もう樋口ちゃんに攻撃しちゃ駄目だぞー』
我に返った樋口が笑顔で去っていくルナを呼び止めるもルナの姿はもう見えない。まるで風のように去っていったルナに樋口は虚しく手を伸ばすだけ。こんな状況で残されてしまった。背中に鋭い視線がずさずさと刺さる。
「あ、あの…せんぱ」
「あの人は」
被せられた言葉に樋口は口を噤み、何も云わずに芥川の言葉の続きを待った。
「……貴様の知るあの人は、どんな人だ」
「ルナさんですか?……ルナさんはいつも明るくて、可愛らしくて。そして何より、大切な人を守る強さがある人、だと思います」
私の憧れです、と最後に呟いた樋口を横目に芥川は小さな声で「そうか」と呟いた。その後は何も云わずに芥川は踵を返す。樋口は去っていくその背中を見詰める。
いつも追いかけるその背中は、今はどこか寂しささえ感じた。
四年前の芥川。
樋口の知らない芥川。
時間の隔たりとは違う、何か見えない一線が引かれた気がした。それに気づいた時、樋口の足は動かずに去っていく芥川の背中をただ見送る事しか出来なかった。