第十二章 願いは鏡花水月の如し
眩しい光が消えて視界が開けた時、ルナの目の前には中也が立っていた。
急に景色が変わったと思ったら目の前に現れたルナに中也は目を見張って固まっている。一体何が起こったか判らない様子の中也にルナは微笑みかけた。
『ただいま、中也』
ルナがそう云えば中也はやっと我に返ったのか、目の前に立つルナを胸に引き寄せた。
やるせない思いでルナを待ってること数時間。突然、眩しい光が辺り一面を覆った。既視感のある眩しさに目が眩み、漸く開けた目に映ったのはルナの姿。
「…遅ぇンだよ、莫迦野郎」
耳元で中也は囁く。ぶっきらぼうで、優しい声。安心するその声にルナは頰を緩めた。
「イチャついてる処申し訳ないけど、鏡の国の少女とは逢えたのかい?ルナ」
空気を読もうとしないのか将又態とかは知らないが、二人の間に水を差した太宰がルナにそう問うた。その問いにルナは頷く。
「何かされたか?」
『ううん、少し話をしただけだよ』
そう答えれば中也は安堵したように息を吐き出した。そんな中也を見て、ルナはアリスと話した事を思い出す。今でも本当に楽しそうに笑顔で話すアリスの顔が浮かぶ。
そして、最後の頼みも。
爽やかな風に振り返れば、視界に広がるのはあの湖。それを眺めてルナは自身の胸に手を当てる。
「…僕達は戻って来れたのでしょうか?」
「恐らくね」
「はあ、よかった。これで一件落着ですね」
『否、まだだよ』
何度も額を伝った汗を拭い安堵の息を吐き出した敦にルナは背中越しに云った。振り返らず湖を見つめたまま、ルナは続ける。
『頼まれたんだ、あの子に。鏡をお願いって』
「それが、彼女のお祖父さんの……、あの世界を展開しているものなのだね」
太宰の問いにルナは静かに頷く。そして、目の前に広がる湖を指した。
『この湖の底に沈んでいる筈。それを取って来て、太宰が触れれば消える。そうでしょう?太宰。アンタは最初からその為に此処に来たんだから』
太宰は首を縦に振らなかったけれど、声に出さず静かに苦笑した。それを横目で見たルナは再び視線を湖に戻して、持っていた鞄を地面に置く。
「おい、ルナ」
『私が取ってくる』
ルナが何をするのか理解した中也が呼び止めるもルナはそう即答する。
『頼まれたのは私。だから、私が行くよ』
真っ直ぐ中也の目を見て、ルナは続けて云った。揺るがないその瞳に中也はそれ以上云う事が出来ず、ただ「無理すんじゃねぇぞ」とルナの瞳を見つめ返す。
「と、取ってくるって…、この湖の中を?底が何処まであるか判らないのに」
『この中じゃ息が続くのは私だろうしね』
不安げな敦ににこりと笑ってみせたルナはもう一度中也に視線を戻して微笑む。
『直ぐに戻ってくる』
「…嗚呼、気をつけろよ」
その言葉を聞いてルナは右眼のコンタクトを外し、湖に飛びこんだ。
冷たい水の感触。服がそれを吸い込んで体温までも奪っていく。水面がキラキラと輝くに反して、底は真っ暗だ。下へ下へと泳ぐにつれて重く冷たい水が躰全体にのし掛かるようだった。
–––––––––––光?
暗い湖の底。そこに一点だけ淡い光が見えた。遠目からでも判った。あれが、アリスの云っていた鏡なのだと。それは何百年という年月を感じさせない。繊細で美しい装飾。そこに込められたアリスへの愛が伝わってくる。
ルナがその鏡の元へと行こうと再度水を掻いた時、鏡の側で水が不自然に動いた。ルナはその場で止まり、様子を窺う。すると突然、物凄い速さで何かが此方に向かってきて、それに巻き込まれる。
『……ッ』
これは渦だ。自然のものとは違う、何か別の力が作用して動いている渦。まるで生き物のようなそれはルナの躰を飲み込んでいく。
水圧がルナを襲う。全く制御が出来ない躰を嘲笑うかのようにその渦はルナを弾き飛ばす。ようやく渦から抜け出し体の自由が戻ったものの、今自分がいる場所は鏡から遠く離れた位置。
『(成程…。鏡はこれに守られてるって訳ね)』
何百年もの間、誰の手にも触れられていない鏡。
〝永遠〟を約束された世界。
–––––––––––一人の少女の願いによって。
ルナは遠くで光る鏡を見据え、そっと胸に手を当てる。
ずっと引っかかっていたものがあった。
何故、アリスの祖父ルイス・キャロルは最愛の孫娘をこんな世界に閉じ込めたのか。もし、アリスの話のようにあの鏡が彼女の願いを叶えたのなら、彼女の祖父はこうなる事に屹度気付いていた筈だ。体が弱いからと嘘を吐き、それでも彼女をあの鏡の世界に閉じ込めておきたかった理由。たとえ彼女が永遠に苦しむと判っていても。
もしかしたら、本当は–––––––––––。
『……。』
これは、憶測に過ぎない。
けれど、もしそうなら。
––––––––––––終わらせてやろう。
それが、彼女の願いなのだから。
ルナはスカートの下に隠していた短刀を手にして、オッドアイの瞳を閉じる。
『 』
そして、呼んだ。
***
中也と太宰、そして敦の三人は湖畔でルナを待っていた。
中也が二人の数歩手前でルナを待つ。あれからもう何分待っただろうか。今すぐに飛び込んでいきたい衝動に駆られながらジッと目を逸らす事なくその水面を見据えていれば、突然湖の底から巨大な渦が湧き出てきた。
それと同時に辺りに響く咆哮。
巨大な渦がいとも簡単に飛び散り、辺りへ大粒の雨を降らす。中也は上から降ってくる雨粒を腕で防ぎながら、上を見上げた。
水に濡れて白銀に輝く毛と水浅葱色の髪が夜空に架かる天の川のように光っている。
すとん、と音を立てて中也の前に着地したルナは濡れた前髪を払ってにこりと微笑んだ。
『ちょっと息が危なかったけど、無事取ってこれたよ』
ルナは持っているそれを両手でずいっと前に出した。
短刀がど真ん中に深々と刺さったガラスの鏡。それを手に微笑むルナ。髪やワンピースから滴る水が地面にぽたぽたと落ちた。その姿を見て中也は着ていた上着を脱ぎ、それをルナにかけてやる。
「それがあの世界の正体なのか?」
『うん』
短刀が刺さったその鏡を見据える。一見ただの鏡にしか見えないそれだが、ここにはあの不思議な世界が広がっている。ルイス・キャロルが孫娘を守る為だけに作った世界。今尚、アリスはこの中で生きている。
『…太宰』
ルナはそれを太宰に差し出す。「本当にいいのかい?」と太宰が問うが、答えなんて決まっている。ルナはただ彼女が最後に望んだ頼み事を叶えてやるだけだ。
躊躇いのないその瞳を見て太宰はゆっくりと鏡に手を伸ばす。そっと指先が触れた。
***
アリスは湖上で一艘の小舟に乗っていた。
ゆらゆらと揺れながら遠く愛しい思い出を懐かしむように。小さな白い兎が気持ちよさそうにアリスの膝で眠る。その背中を優しく撫でながらアリスは歌を紡ぐ。穏やかに優しい声で。
ふと、アリスは空を見上げた。
まるで陽の光が照らすかのようにキラキラと、世界が光と共に消えていく。
長い年月変わる事のなかった世界。
美しい思い出を残したまま自分を守ってくれていた世界。
「––––––––––嗚呼、漸く終わるのね」
永遠を約束された世界に漸く“さようなら”が出来る。
アリスは目を閉じる。
森が湖が、アリスに寄り添うように膝で眠っていた白い兎が光と共に消えていく。
そして、アリス自身も。
「––––––––––ありがとう」
***
–––––––––––ありがとう、ルナ。
光と共に消えていく鏡。
硝子の粒子が光に輝きながら跡形もなく消えていくのを見届ける。ルナは最後に残った光をそっと掌で受け止めた。
鏡が消える瞬間、アリスの声が聞こえた気がした。気のせいかもしれないけれど、それはまるで感謝しているみたいだった。掌に残った最後の光さえ粉雪のように静かに消える。
「消えちゃいましたね…」
儚く消えていった鏡を見届けて敦はぽつりと呟いた。何処か憂いを帯びたその声音に太宰は「これでよかったのだよ、敦君」と湖の方に足を進めて云った。
「彼女は漸く解放されたのさ」
「……永遠、からですか?」
「違うよ」
砂色の外套が風に揺れる。湖を眺めたまま太宰は続けた。
「–––––––––––彼女の異能力からだ」
敦の目が困惑に揺れる。ルナは太宰が云ったその言葉に驚きはしなかった。代わりに握っていた掌を静かに下す。
「あの鏡は、彼女の祖父が彼女を彼女自身の異能力から守る為に作ったものだ」
「い、異能力から守るって一体……」
「云っただろ、異能力が当人を幸せにするとは限らないと。そして、生涯自分が異能力者だと知らずに生きている者もいると。彼女がそうだった。そうだろう?ルナ」
太宰の云う通り、アリスは知らなかった。自分が異能力者だと。否、抑異能力が何か知らなかった。そのような力の存在は知っていたらしいが、それがまさか自分もそうだとは思っていなかったのだろう。自分の祖父を“魔法使い”と思っていた彼女は。
「あの鏡はね、異能技師である彼女の祖父が彼女の異能力を彼処に閉じ込める為に作った。そうする事で、彼女の能力が現実に影響してしまわないように。世界を変えかねない、強力な異能力。それは––––––」
〝 願いが叶う能力 〟
単純でいて、迚も危険な能力。
その異能力に制約がなければ、それは無限だ。アリスが願えば、何でも手に入る。アリスが願えば、人だって生き返る。アリスが願えば、世界の全てが平和になる。
そして、その逆も然り。
アリスが願えば、世界だって滅びる。
もしもそんな危険な異能力を持った者がこの世に存在すると知れば、世界の人々は如何する?どんな手を使ってでもアリスの力を利用しようとするだろう。アリスが幸せになる事は決してない。
彼女の祖父であるルイス・キャロルは誰よりも疾くそれに気付いたのだろう。愛する孫娘に幸せな未来などないと。
だから、ルイス・キャロルはアリスをあの鏡の世界に閉じ込めた。彼の異能技師としての力の全てをかけて。アリスの異能力が現実に作用しないように、現実とは隔絶した世界を作り上げた。そうする事で、アリスを世界から、彼女自身の異能力から守っていたのだ。
それが、ルイス・キャロルがあの鏡に最愛の孫娘を閉じ込めた理由。
なんて残酷で美しい愛だろうか。
アリスという少女。そして、鏡の世界。
そこに隠された真実が漸く見えた気がした。
「異能力が当人を幸せにするとは限らねぇ、か…、本当にその通りだな」
中也が己の掌を見据え、零すように呟いた。その言葉は此処にいる全員の胸に響く。
敦は己の両手を握り締め、太宰は遠くの空を見上げ、ルナは己の胸に手を当てた。
4人はその言葉の本当の意味をよく知っていたから。
「彼女は永遠の時を生きて尚…、幸せだったんでしょうか」
「さあね。けれど彼女が永遠を望み、それに苦しんだ事は紛れもない事実だ。永遠の時を生きた彼女が最後に何を思ったのか……。今を生きる私達には到底図り知れないだろうね」
『–––––––––アリスは…』
太宰に続けてそっと呟いたルナに皆の視線が向いた。ルナはその続きの言葉を探す為に視線を地面に落とし、目を閉じる。
「私には彼を愛した思い出がある。それだけでもう幸せな事だもの。ちゃんとお祖父様が願った通り、私は幸せに生きたもの」
そう云って幸せそうに笑ったアリスの姿が脳裏に浮かんだ。
閉じていた目をゆっくりと開けて、ルナは中也に視線を向ける。そして微笑んだ。
『屹度、アリスは幸せだったよ』
自分を友達と云ってくれた彼女の笑顔を思い出して、ルナは何処か寂しげにそう囁いた。