第十二章 願いは鏡花水月の如し
アリスの話をルナは黙って聞いていた。
「私はずっとこの世界で生きているの。もう何百年経ったのか判らない。この世界は永遠の時を回るけれど、外の世界は一分一秒狂いなく進んでいく」
『…ずっと此処に一人で?』
「そうよ」
『……。』
何て声を掛けたらいいのか判らなかった。そんなルナの様子に気付いたのかアリスは苦笑して、ルナの手を取る。
「でも、ほら。こうして偶にお客様が来てくれるわ。貴女もそうよ。だから、とっても嬉しかったのよ。しかも、私と同じ女の子よ!お喋りが弾んだでしょ?」
『いや…、弾んでないと思う』
「あら、そう?私は楽しいわ」
ふふん、と鼻歌を歌いながらアリスはスキップしだす。その背中を追いながら、ルナはアリスに問う。
『アンタが此処から出れないのに、私達がこの世界に入れたのは如何して?』
そのルナの問いにアリスはぴたっとスキップをやめて振り返る。うーんと顎に手を立てて、「多分これじゃないかしら」…とある物を取り出した。
アリスの手にあったのはあの小箱だった。ルナの意識が自分の鞄の中に入っているそれにいく。
「この箱はね、私にしか開けられないの。そう云う風に出来てるんだと思うわ。この箱を開けると、お祖父様の声が聞こえるの。屹度これは鏡の世界から出られなくなった私に向けたお祖父様からのメッセージなのね。……ルナ、貴女も持っているわよね?」
『……この箱がこの世界の鍵って事?』
「ええ、多分ね。此処にくるお客様の全員がこの小箱を持っていたわ。これはお祖父様が作ったもの。だから鏡がそれに反応しているんだと思うの。それにこの小箱、皆さん開けられないって云ってたけど、私は簡単に開けられるからこれもお祖父様の力なのね」
ルナは鞄の中から小箱を取り出した。アリスはそれを見てやっぱりねと笑う。一つはルナが老人店主から買った物、もう一つは太宰が持っていた物。
『(…嗚呼、そうか。成る程ね)』
そこでルナは気付いた。もし、この箱に異能が掛かっているのだとしたら、太宰はそれを無効化で解いて箱を開けられたんじゃないか。そして、この世界の事を知った。依頼人というのは恐らくこの箱を残した彼女の祖父。
『太宰が…、あー……無駄にデカくてひょろっとした男いたでしょ?』
「デカい…ああ!貴女を抱き締めた殿方ね!」
『それはもう忘れて。あれは中也を揶揄っただけだから』
「あら?そうかしら。貴女の事が好きなのかもしれないわよ。きゃあ!三角関係ね!素敵!」
『そんな事ある訳ないでしょ』
意味不明なアリスの発言をキッパリと切り捨て、ルナは続ける。
『で、その太宰からアンタに伝えて欲しいと頼まれたの。“お祖父さんが心配していたよ”って』
「彼はこの小箱を開けられたの?」
『まあ、多分ね』
「……そう。……今迄、この世界に迷い込んだ方達がこの小箱を残していった。でもね、私、この小箱に残されたお祖父様のメッセージをどれもちゃんと最後まで聞いたことがないの」
その箱を見つめるアリスの瞳は不安と悲しみに揺れていて、小箱を優しく撫でるその手は震えていた。
「知るのが怖いの。お祖父様が何を考えていたのか。如何して鏡の世界なんて作ったのか」
『体が弱かったからじゃないの?』
「……えぇ、そうね。でも、本当にそうだったのかしら。体が弱いって云われていたけれど、私自分の何処が悪いのか判らなかった。ただ小さい頃からそう云われて来たから、そうなんだろうなって思い込んでいた気がするの」
カタカタと震えるアリスの手。それを見てルナは自分の手にある小箱に視線を落とす。
『本当の理由を知るのが怖い?』
「……。」
『アンタのお祖父さんが何を考えてアンタに異能力で作ったこの世界を与えたのか想像もつかないけど』
孫娘をこんな世界に閉じ込めた理由。それも異能力という一般人には理解できない力がこの世にある事すら知らせずに。彼女の祖父が何を考え、何をしようとしていたのか。彼女はこの世界で永遠を手に入れたのに、何も知らずに生きている。まるで彼女の祖父が真実の全てを彼女と共にこの鏡の世界に隠しているようだ。だが、それでも––––––。
『どんな形であれ、死んでしまった後でもアンタにメッセージを届けるのは、アンタが大切だからなんじゃないの?』
他人に自分の心を決めつけられるのも、他人の心を理解しようとするのもルナは嫌いだ。けれど、アリスを見て、アリスの話を聞いて、何となく彼女が重なった。昔、自分が何者なのかを探していた愛しい彼と。
だから、慰めるとは少し違うけれど、少しでも不安を取り除いてあげたいと思った。
「うん、そうよね。ありがとう、ルナ。勇気が出たわ」
アリスは嬉しそうに笑い、手に持っている小箱を見据えた。そして、ごくりと喉を鳴らしてそっと箱の蓋を開ける。
〈愛しい、アリス〉
箱の中から年老いた老人の声が聞こえる。その声にアリスは瞳を潤ませ、お祖父様…と呟いた。
〈お前は今、あの世界で独りで泣いているのだろうか。すまない、アリス。私はお前を助けてやる事は出来ない。あの世界はお前の為の世界だったのに、お前を苦しめたのかもしれない。けれど、許してくれ。こうするしかなかった。お前が幸せに暮らすには、お前はあの世界で生きるしかないのだよ〉
声はそこで切れて終わった。アリスはぱたんと小箱を閉める。ルナは自分の手にある二つの小箱をアリスに渡した。アリスはそれを受け取って、一つ目を開ける。
また、老人の声が聞こえる。
〈愛しい、アリス。今、泣いてはいないか?私はお前の笑顔が大好きだった。愛しいお前が幸せになれるなら、私は何でも出来た。お前が生まれながらに背負ったものがどれだけ大きかろうと、私はお前を幸せにしたかった。たとえ、お前が他人とは違う世界で生きる事になってもお前が幸せに生きるのなら…〉
そこでメッセージが終わった。アリスは三つ目の最後の箱を手に取る。震える手から緊張が伝わってきた。
〈愛しい、アリス。私はもう長くはない。お前は今幾つになったのだろうか。成長したお前の姿をこの目で一目見たかった。お前の婆様や母親のように屹度美しいのだろう。嗚呼、アリス。私は結局お前に何をしてやれただろうか。お前の体が弱いと偽って、お前を鏡の世界に置いた。すまない、寂しい思いをさせて。お前を独りにさせて。こんな酷い祖父を許さなくていい。だが、これだけは約束してくれ。絶対に外の世界で強い願いを抱くな。その願いはお前の全てを変えてしまう。どうか、幸せになってくれ。私が願うのは、アリス、お前の幸せただ一つ〉
まるで、事切れたように最後のメッセージが終わった。アリスはそっと小箱を閉じる。ルナはそんなアリスの様子を黙ったまま見つめた。
「……お祖父様は、私を心から心配してくれていたのね」
『……。』
「…でも、やっぱり私の体が弱いのは嘘だったみたい」
アリスは小箱を手から離す。地面に落ちると同時にその小箱は吸い込まれるように消えていった。そして、アリスはクルッとその場で回り空を仰ぐように深呼吸をした。何処となくすっきりとした面持ちで。
「お祖父様は嘘を吐いていた。けれど、それは私の幸せを願っての事。……うん!これで決心がついたわ!!」
先程とは比べ物にならない程の明るい声でアリスは云った。そして、ルナの手を取って森の中を走る。
『ちょっと、何処に行くの?』
「思い出の場所!」
アリスがぴょんと飛び跳ねれば地面に鏡が現れる。ルナの手を引っ張りながらアリスはその鏡に飛び込んだ。
ルナは目を見開いて目の前に広がる湖を見据えた。隣ではアリスがニコニコと笑いながらルナの手を引っ張る。
湖の畔まで来たアリスはルナの手を離して湖の前に立った。
「ねぇ、ルナ。私、貴女にお願いがあるの」
湖の方を向いたままルナにそう云ったアリスがゆっくりと振り返る。アリスは今迄に見たこともない顔で儚げに笑っていた。
「こんな事を貴女に頼むなんて、残酷なことかもしれない。けど、貴女にしか頼めないの。ううん、貴女にやってもらいたいの」
『……何?』
風で靡いた髪を押さえてアリスが微笑みながら目を閉じる。そして、小さな唇で云った。
「私の永遠を、終わらせて欲しいの」
強い風がアリスのドレスとルナのワンピースを揺らす。風がやみ、名残惜しげに木々が音を立てるのを聞きながらアリスは続けた。
「現実世界にあるこの湖。その何処かにこの世界の元がある。お祖父様が作った鏡よ。多分、水中の奥深くに沈んでいるわ。それを壊して欲しいの。そうすれば屹度、この世界は無くなる。そして、屹度、私も消える」
それはつまり、死ぬと云う事なのか。アリスは自ら望んだ永遠をこの世界と共に終わらせる心算なのだ。
『……望んだものなのに、いいの?』
「いいの。私が望んだのは彼との永遠。私が永遠に生きても意味がないって気付いたの。多分私、意地になってたのね。彼に裏切られて、永遠が否定されたのが悲しかったから。でも、もういいのよ。私には彼を愛した思い出がある。それだけでもう幸せな事だもの。ちゃんとお祖父様が願った通り、私は幸せに生きたもの」
アリスは本当に幸せそうに笑った。もう何の悔いもない、そんな笑顔で。
『殺されるのに、そんな笑顔の人初めてだよ』
「あ、御免なさいルナ。私、別に貴女を人殺しにしたい訳じゃ…」
『いいよ、もう何人も殺してきた。今更、誰を殺そうと人殺しである事は変わらない』
ルナのその言葉にアリスは目を見開く、けれどその後にふっと頬を緩めた。
「私、貴女の事まだ何にも知らなかったわね。でも、貴女が何者であれ私には関係ないわ。ルナ、貴女は私の心を救ってくれた恩人で、–––––––––私の一番のお友達よ」
ルナはその言葉に目を見開いた。
『……とも、だち?』
何て、聞き慣れない言葉だろうか。だが、嘗てその関係の意味を知ろうとした時があった。ルナが最初にアリスと話した時、何となく感じた居心地の悪さ。その正体は屹度これだったのだ。アリスは最初からまるで友達に話すみたいにルナと接していたから。歳の近い同性。組織の仲間でもなく、ましてや部下でもないただ女の子。
「さあ、そろそろお別れの時間だわ」
アリスはそう云って優しく微笑み、ぱちんと指を鳴らした。
その瞬間、目の前が眩しい光に包まれる。ルナは光に目を閉じた。白い光の中、細めた視界にアリスが手を振っているのが見えた。アリスの口元が動く、“鏡をお願いね”と。それを最後に突然浮遊感に襲われて、一瞬で全てが真っ白になった。