第十二章 願いは鏡花水月の如し
部屋を出て、少し廊下を進んだ先にもまた部屋があった。
またもヒラヒラと上から降ってきた紙を今度は敦がキャッチする。未だに中也の怒りは収まらず、太宰からルナを離すように一定の距離を置いている。そんな中也の怒気に肩を震わしながら敦は紙に書かれているお題を読み上げた。
「ぇ、えっと、【お題2 一番年下の人が誰かに普段聞かないような質問をすること☆】……だそうです」
「なんだそりゃ。訳判んねぇな」
舌打ちを溢す中也に肩を揺らして、敦は再度紙に視線を落とす。確かに意味が判らないお題だ。こんなお題を出して一体あの声の主は何がしたいのか。
「(年下……、この中で一番年下なのは…)」
敦はそろっとルナに視線をやった。ルナと目が合い思わず敦は表情を硬くさせる。それに気付いたルナが、首を傾げて『何?』と問うた。
「あ、いや…その…。と、年下って書いてあったから、この中じゃルナちゃんが質問するのかなって…」
未だにルナと上手く話す事が出来ない敦。それもそうだ殺されそうになった相手と気軽にお喋り出来る筈がない。思い出すだけで身震いする程のあの時の殺気が脳裏を掠める。それにしても何だか場が止まってしまった事に敦は気づく。周りに視線を向ければ、ルナはきょとんと目を丸くしており、中也は黙って此方を見ている。何云ってんだこの餓鬼って目で。敦は冷や汗をかいて拙い事を云ってしまったのかと俯いた。
「敦君、敦君」
「は、はい。太宰さん」
トントンと肩を叩いた太宰に振り返る。太宰はニコニコと笑いながら冷や汗を垂らす敦に耳打ちする。
「ルナは20歳だよ。つまり、君より年上だ」
「………へ。………ええっ!?本当ですか!?」
敦は出逢ってからずっと勘違いをしていた。見た目からルナは同い年か、自分より年下だろうと思っていたのだ。その見事なまでの勘違いを今こんな形で知る事になるとは、敦の全身から大量の汗が流れ出た。
「ごめん!ごめんなさい!ルナちゃ、ルナさん!僕てっきりルナさんは同い年か年下だとずっと勘違いしてて」
『あー別にいいよ。いつも通り呼んで。2歳しか違わないんだしそんな畏まられても。私だって中也に敬語なんて使った事ないしね』
「で、でも…」
『いいってば。それよりお題早くクリアしちゃおう。人虎君が質問するんだよ』
敦はどこか申し訳ない気持ちのまま質問を考える。普段訊かないような質問とは一体どんな事を問えばいいのか。
「(質問…質問……普段訊けないような質問…ええっと、僕は太宰さんに誘われて此処に来て、よく判らないままこんな事になって、マフィアである中也さんとルナちゃんがいて、そうだ温泉、温泉旅行だと思って……温泉で…マフィアがいて……中也さんと、ルナちゃんが2人きりで…)」
敦はぐるぐると渦を巻く頭で質問を考える。そして、パニックになりながら頭に浮かんだ質問が勢いのまま口から飛び出した。
「中也さんとルナちゃんは恋人同士なんですか!?」
何故、こんな質問が口から出たのだろうか。敦はそれを云い終えた後にそう思った。膝から崩れ落ちたい気分だ。情けないが泣き出したい。絶対に、は?って顔してる。マフィアにこんな質問阿保過ぎる。でも、温泉旅行に来ていると聞いた時からまさかなって思っていた。それに先刻も太宰がルナを抱き締めた時、怒り狂った中也を見て再度思ったんだ。だから、この質問は仕方ない事だ。
『ふふ、そうだよ』
そんな言葉が聞こえて、敦はルナを見やる。ルナは小さく微笑んでいた。こんな風に柔らかく笑うルナを初めて見た気がする。心なしか先程まで怒りを露わにしていた中也もルナのその言葉で少し雰囲気が柔らかくなった気がした。そんな二人を見て、自然と敦も頬が緩んだ。
「迚もお似合いですね」
『えーもうやだなぁ人虎君たら、当たり前じゃん。ありがとっ!』
「うぐっ」
照れ隠しにルナがバシッと敦の背中を叩けば、その衝撃に敦は呻き声を上げる。痛みに蹲る敦に『ありゃ、ごめん。大丈夫?』と背中を摩るルナに大丈夫と涙を滲ませながら頷く敦。そんな二人を見て、中也は何やってんだと呆れながらも蹲る敦の腕を引っ張り立たせた。
ただ一人太宰だけはそんな三人のやり取りを無視してスタスタと次の部屋へ入り、お題が書かれた紙を眺める。
ふむ、と考えた後ニヤリと不適に嗤った。
「次のお題は何ですか?太宰さん」
先ほどより幾分か緊張が解けた敦が太宰の背中に声を掛ける。それに振り向き、太宰は持っていた紙を敦に渡した。敦はそれを受け取り、読み上げる。
「【相手の恥ずかしい過去を暴露すること☆】…何ですかこの陰険なお題は」
眉を顰めて敦がそういうのを他所に太宰が口許に笑みを溢しながら「私に任せ給え」と自信満々に自身の胸に手を当てる。
「これは私がまだポートマフィアにいた頃の話だ」
厭な予感がする…とその場の全員が思った。
「ある夜、私が蟹缶を求めて食料庫を訪れたときだ。そこは暗がりで灯も付いていない。しかし、奥の方に進むにつれて淡い光が見えた。こんな時間に誰かいるのかと私はそこに向かった。そしたら……そこに、いたのだよ…」
ごくりと敦の喉が鳴る。
太宰は真剣な眼差しを床に落とした後、ビシッと人差し指である人物を差した。そして、云った。
「大量の牛乳を飲む中也が!!」
「如何でもいいだろうがぁぁ!!!!」
太宰の叫びに中也も叫ぶ。
「あの時は特に身長を気にしていたのだろう?今も小さいけど。一時期ルナの身長が伸びた事に焦って、飲み始めたみたいだが。毎夜毎夜食料庫に忍び込んでは次の日腹を壊していたのは傑作だったよ」
「それをルナと丁稚の前で云うんじゃねよ!!」
「なら、これは如何だい?ある日、中也が書庫で」
「もう口閉じろよ手前はァ!!何で俺の話ばっかしやがんだ!嫌味かゴラァァ!!!」
一体何の時間なのだろうかと、敦は最早げっそりと言い争う中也と太宰を眺める。主に叫んでいるのは中也だが、太宰は太宰で中也の恥ずかしい過去をあれよこれよと暴露しまくっている。溜息を吐く敦の横を通り、ルナは扉を開いた。
『阿保らし。行こ、人虎君』
流石のルナも呆れ顔で淡々と云い、敦に声を掛ける。それに返事をして敦は未だに言い争っている二人を置いて、ルナの後を追った。
***
ある部屋、ある場所。
そこは明るい光を満たした部屋。そこに少女が一人いた。彼女は膝に乗る真っ白な兎を撫でながら目の前にある鏡に映し出された4人の姿を眺める。
「う〜ん、如何しようかしら」
羽根ペンをコツコツと紙の上で叩き、少女は首を傾げる。そして、鏡に映っている四人の中、唯一の女のであるルナを見遣り、そしてその隣を歩く中也に視線を向けた。
「このお二人って恋人同士って云ってたわよね……。ふふ、素敵なお題考えちゃったわ」
鼻唄を歌いながら少女は紙にペンを走らせる。書き上がったその紙をポイっと鏡の中に投げ込めば、その紙は鏡の中に吸い込まれるように消えていった。
***
後ろで喧嘩している二人をおいて、ルナと敦は次の部屋を目指す。辿り着いた部屋で本日何度目かになるお題が書かれた紙を敦がキャッチした。今度はどんなお題が書かれているのだろうか。今迄の感じでいけば、決してクリアできないお題はない。一悶着はあれ冷静にいけば、きっと大丈夫と敦は深呼吸をしてから紙を見た。
しかし、敦はそのお題を見て固まる。
一度、前方を見据え、次に一歩後ろにいるルナに視線をやり、最後に未だに騒いでいる中也と太宰を見た後、再度紙に視線を落とす。
直後、顔を真っ赤にさせて俯いた。
『人虎君?お題なんて書いてあったの?』
様子が可笑しい敦にルナは声を掛けたが、彼はびくりと肩を揺らし何とも云えない顔で赤面していた。
『如何したの?そんな如何わしいお題だった?』
「いや、その……き、」
『き…?』
吃る敦にルナは首を傾げる。敦は一度息を吸って、それを躊躇うように少しづつ吐き出しながら、云った。
「き、キス……だ、そうです。お題」
『なんだ、そんな事か』
「そんなこと!?」
さらっと云い退けたルナに対して敦は弾けるように声を上げる。そんな敦をお構いなしにルナはくるっと向きを変えて真っ直ぐに足取りを進める。
「んがぁぁ!もうウゼェ!!ぶっ殺してぇ!」
「君先刻からそんな叫んで疲れない?」
「疲れるわ!!たださえ休暇中に訳わかんねぇ事になってんのに、手前がいるだけで___」
『中也』
ルナは未だに太宰とギャンギャンと騒いでいる中也の傍に立ち、ぐいっと襟元を引っ張る。見開かれた青い瞳が此方を向いた瞬間、中也の唇に自身の唇を重ねた。
中也がひゅっと息を止めたのが判った。今さっきまで中也と言い争っていた太宰も目を見開いて固まっている。敦は顔を真っ赤にして乙女みたいにお題が書かれた紙で口元を隠している。
ちゅっ、と小さなリップ音を残して唇を離す。放心状態の中也を余所に、ルナは扉の方を振り返る。
『よし、開いた』
襟から手を離して開いた扉に歩き出すルナの腕を中也は慌てて掴んだ。
「おまッ……今、何で」
『何でってお題だから』
ルナのその言葉に中也は扉の前に佇んでいる敦に視線をやった。その手元には一枚の紙。
「お題…ああ、そうかお題か」
『うん。それと、中也が全然構ってくれないから』
少し拗ねた口調でそう云ったルナ。その言葉の意味が一瞬判らなかったが、ジッと此方を見上げてくる瞳を見て理解した。
『さ、早く行こ』
足を進めるルナの背中を見つめ口許を隠す。すぐ近くでその様を見ていた太宰が呆れたように溜息を吐き出した。
「イチャつくなら他所でやってくれ給えよ。あと、そのニヤケ顔止めて貰える?」
「るせぇ。彼奴が可愛いのが悪ィ」
***
部屋を出てまたもや廊下を歩く。今迄と少し違うのは次の部屋に一向に辿り着けない事だ。今迄は部屋を出て廊下を少し歩けば次の部屋があったのだが、今回は長い廊下が続いているだけ。四人はただ只管その廊下を歩いていく。太宰と敦が先に進み、その後ろを中也とルナが少し距離を保ちながら歩く。
ここまでの中で一体あの声の主が何をしたいのか皆目見当もつかない。敵意がない事は感じ取れる。しかし、掌の上で遊ばれているような感覚は否めない。もし最初から敵意があって何かしら罠を仕掛けてきているのだとしても、そんな厭な感じはない。寧ろこの世界にいると不思議な気分だ。
『そう云えば、変なお題の所為で根本的な事を忘れてたけど、何で私達この異能空間にいるんだろうね』
「あ?…あの湖に行ったからじゃねぇのか?」
『まあ、そうなんだろうけど…。あの湖がこの世界の入り口だとして、如何して私達が此処に入れたんだろう。あの声の主が最初に云った言葉……何か変なんだよね。意図的じゃないって云うか……』
「んじゃあ、あの声の奴が俺達をこの世界に連れてきた訳じゃねぇって事か?」
中也の問いにルナは暫く黙考した後、前を歩く太宰の背中に視線を向ける。
太宰は云ってた。“依頼されてきた”と。彼ならどうやってこの世界に入れたか知ってるのではないか。
そして、もう一つ。
この世界を展開している物の存在。
その正体が明確なのかは判らないがその存在がある事を知っている太宰。もしかしたら、あの声の主が誰なのかも知ってるのかもしれない。
けれど、前を歩くその背中は今でもそれを話す心算はないと云った様子だ。
「あれ、行き止まりだ…」
前方を歩いていた敦と太宰が足を止める。廊下の先にまた部屋があるのかと思っていたが、そうではなかった。扉もなく、部屋もない。唯一その場所にあったのは、一つの立ち鏡。明らかに不審なその鏡には当然のこと、自分達が映っている。
そして、また何処からか少女の声が聞こえてきた。
〈「ご苦労様でした、皆さん。楽しんで頂けたかしら?」〉
「中々ユニークなお題だったよ。もうこのゲームは終わりかい?お嬢さん」
少女の声に応えたのは太宰だった。少女はその太宰の返答に楽しそうに笑う。
〈「ふふ、そうでしょう?本当はもっと楽しみたかったのだけれど、私……、今すぐ直接逢ってお話してみたくなったの。
–––––––そこの綺麗な水色と白銀の髪をした貴女と」〉
少女の言葉にその場にいた全員がルナに視線を向ける。ルナは…私?と自分を指を差す。
『……何で私?』
〈「貴女に逢いたいから。駄目かしら」〉
理由になってない…と思いながらも遅かれ早かれ此処から出る為には少女に逢わなければならなかったのだから、断ると云う選択肢はないだろう。
〈「そこに立っている鏡に触れてみて。そうすれば私の処に来れるわ。それと、その鏡は貴女しか通れないから殿方達はそこでお待ちになってて。じゃあ、待ってるわね」〉
少女の声はそこで途絶えた。ルナは鏡に近づき、それに手を伸ばす。しかし、その腕を中也が掴んで止めた。
「おい、待て。罠かもしれねぇだろ」
『でも、他に方法もないし』
「だからって、手前だけ行かせられるか」
「いいじゃないか、行かせてやれば。どの道ルナしか通れないんだ。私達は如何することも出来ない」
口を挟んだ太宰に中也は鋭い視線を向ける。
「手前は黙ってろ糞太宰」
殺気で大気がピリついた。先程とは違う空気。少し離れた処で三人の様子を見ていた敦の背中に冷や汗が垂れる。中也はずっと太宰に対して嫌悪感を出していたけれど、此処までピリついた感じではなかったのに。今の太宰の言葉でその嫌悪感が一気に冷たいものになった。
「お題をクリアしないと絶対出られねぇ部屋。特定の者しか通れねぇ鏡。異能か何かは知らねぇが此処はそう云うシステムがある世界ってのは判った。そんな訳判らねぇ世界でルナを一人行かせて危険がねぇと云い切れんのかよ」
腕を掴む中也の手に力が入る。ルナはそんな中也を見上げた。
「ルナが危険な目に合うかもしれねぇ。その可能性がある以上、此奴一人を行かせられるか」
太宰を睨み付けたままルナの腕を離そうとしない中也は心から自分を心配してくれているのだ。今ルナはイヴを出せない。一人になれば助けてくれる者もいない。此処に来る前、中也と約束した。絶対、傍を離れるなよ、と。それを思い出して、ルナは胸が苦しくなるのを感じた。
「はぁ、ほんっと変わらないねぇ君」
首に手を当てて大きく溜息を吐き出した太宰。明らかに重い空気が流れる。そんな中、敦は如何する事も出来ずにいた。
『中也、大丈夫だよ』
しかし、この思い空気を絶ったのはルナだった。
『絶対に此処から出る方法を見つけて、戻ってくるから。だから、待ってて』
「…けどな」
『此処を早くて出て、旅行の続きしたいから。だから、ね?』
ルナはにこりと中也を安心させるように微笑む。そのルナの言葉に中也は云い返す事もできずに奥歯を噛み締めた。
「……絶対、戻ってこいよ」
『うん』
ルナは頷き、ゆっくりと中也の腕が離れるのを見届ける。そして、踵を返して鏡を見据えた。
「ルナ、これを持っていき給え」
太宰がそう云ってある物を取り出す。それにルナも中也も目を見開いた。太宰の手元にあったのは、一つの小箱。それは湖に行く前、ルナが骨董屋の老人店主から買った小箱と似たものだった。
「彼女に逢ったら、伝えてくれ。
“お祖父さんが迚も心配していたよ”、と」
太宰のその言葉の意味を理解する事は出来なかった。けれど、どこか真剣な表情から彼が今此処にいるのは全てその依頼の為なのだろうと理解した。その依頼は屹度、誰かを救う為の––––––。
ルナはその小箱を受け取り、鞄の中にしまう。そして、目の前にある鏡に触れた。
その瞬間、体がまるで鏡の中に吸い込まれるような感覚に呑まれる。不思議なその感覚に眩暈を起こしながら、鞄の中に入れた二つの小箱が小さな音を立てたのを感じた。