第十二章 願いは鏡花水月の如し




「鏡の湖ねぇ」

『水面が鏡みたいなってるのかな?空が映るとか。それとも透き通る程水が綺麗とか?』


老人店主の言葉頼りに中也とルナの2人は山道を歩く。最初は緩やかな傾斜が続いていたが、進むにつれて高い木が聳え立ち、道を生い茂る茂みが邪魔をしていた。最早ハイキングというより山登りだなと思いながらも先を進む。


「あの爺さん。間違った道教えたんじゃねぇか?つか、抑も道がねぇ」


中也が垂れ下がった木の枝を払い退ければ、枯葉が帽子に乗っかる。それに舌打ちを零して、帽子についた葉を乱暴に払い落とした。


『昔に一度だけ行ったっきりって云ってもんね。それに、何か変な話もしてたし。有名になったのは、“鏡の湖”って云う名前のお陰で、有名じゃなくなったのはその名前の所為だって』

「確かに名前だけ聞きゃ有名になりそうなもんだが、有名じゃなくなったのもその名前ってのが判らねぇな」

『若しかしたら、すっごく小さいんじゃない。水溜りみたいに』


手で輪っかを作って大きさを想像する。若しそうなら、“鏡の湖”ではなく、“鏡の水溜り”の方が適当かもしれない。


『…ん?』


ふと、ルナは前方にある茂みの奥にキラキラと輝く光を見つけた。それと共に聴こえる澄んだ水の音。


『中也、着いたんじゃない?』


立ち止まって茂みの奥を指差すルナ。一度顔を見合わせて、二人は茂みを掻き分けそこに進む。


太陽の光に反射する水面。


海のように波はなく、川のように流れはない。


吸い込まれそうな程透き通った青が光に輝き、水面は静かに凪いでいる。


ルナと中也はその湖の湖畔に立ち、一言も声を出さずに数秒眺めた。


それは、美しい湖。


しかし、二人が沈黙したまま黙っている理由は本当に此処があの店主の云った“鏡の湖”ならば同じだろう。


「此処…か…?」

『…多分?』


確かにその湖は水溜りとは比べものにならないくらい広大だ。しかし、しかしだ…。


「鏡…って程じゃねぇよな。つーか普通の湖じゃねぇか」


中也の云った通り、その湖は鏡と比喩するならば少し違う気がした。空が映っている訳でも、木の葉が映っている訳でもない。太陽の光だけがただその水面を反射して光らせているだけ。


此処に来て漸く名前の所為で・・・・・・有名ではなくなった意味を理解した。恐らくだが、思ってた程鏡ではなかった…そう云う事だろう。


「ンだよ期待させやがって」


首を掻きながら中也は舌打ちを零す。ハイキングというより山登りさせられた挙句に辿り着いたのは普通の湖。若しかしたら、自然の特別な条件が揃わないと鏡のようにはならないのかもしれないが、今はそれを見れそうもない。中也は取り越し苦労かと深い溜息を吐いた。


『ねぇ、でも見て。鏡みたいじゃないけど、水はすごく綺麗だよ。ほら』


両の掌で水を掬ったルナはそれを中也に見せる。指の間から流れ落ちる雫は陽日に照らされ、宝石のようだった。


『それに、風も涼しくて気持ちいい』


ルナの髪と白いワンピースの裾をふわりと揺らした風が中也の頬を撫でた。潮風とは違う爽やかなそよ風。その風を感じながらルナが目を閉じて微笑む。


期待通りではなかったが、来てよかった。


中也はルナの笑顔を見てそう思った。


『あ。アレなんだろ?』


ルナが指を差した方に視線を向ける。ぷかぷかと浮かぶそれは古い小舟カヌーだ。もう何年も使われていないのだろう。所々傷んでいた。


『これ乗れるかな?』


ルナの言葉に中也は小舟に飛び乗り自身の体重で揺らした。ギッ、ギッ、と木が軋む音が鳴るが小舟は浮力でしっかりと浮いている。


「大丈夫そうだな」

『本当!?わーい』


思い切りジャンプして小舟に飛び乗るルナを慌てて中也はキャッチする。先程よりも危うい音が鳴り、小舟が上下左右に揺れ動く。


「っぶねぇな。古ィんだから慎重に乗れ」

『へへ、ごめんごめん』


まあ万が一沈みそうになっても異能を使えば何とかなるかと中也は支えているルナの手を取り座らせる。その向かいに座り、中にあったオールを手に取りそれで水を掻いた。


ゆっくりと小舟が湖の上を走る。浮き沈みする小舟に揺られてルナは景色を見渡した。緑に囲まれた湖。風が吹けば、木々の匂いを乗せて水の上を軽やかに通る。まるで自然の中心にいるようだった。ルナは船を漕ぐ中也を見つめる。オールが水を掻き、雫が跳ねる音が心地よかった。


「ん?何だ?」


ジッと見ていたからか中也が手を止めて首を傾げた。ルナはそれに微笑み、何でもないと笑った。水面を指先で触れるルナを見据え、中也はゆっくりと再び船を漕ぎ出す。


湖の中心辺りで一度小舟を止めた。湖の上と云うのも案外いいものだ。波が立つ海では感じられない程よい揺れが新鮮だった。


『そうだ、此処でお昼ご飯食べちゃお?涼しくていい感じだし』

「お前先刻莫迦食いしたのにまだ食うのな。ほんと如何なってんだ手前の腹」

『なによ。中也、食べないの?』

「…食う」


ルナは鞄を漁り先程買ったお弁当と箸を中也に渡す。それを受け取り、中也は箸を割って一口食べた。


「美味え」


ぽつりと呟いた中也が黙々と食べる姿を見て、ルナは頬を緩ませ自分も弁当を食べ始める。涼しい湖上で食べるお弁当はとても爽やかな味がした。




***




湖上で昼食を取った二人は暫く小舟の上で過ごしていた。湖は川のような流れがないから微かに風に揺られる程度で此処でまったりと過ごしていると眠くなってきそうだ。一つ云うならば照りつける太陽が少し暑い。水辺だから比較的涼しいが、長時間太陽の下に入れば暑くなるのは当然だ。


『中也、お茶いる?』

「ん」


中也の返事にルナは茶の入ったペットボトルを探す為、自身の鞄を漁る。丁度鞄の底の方に入っていたそれを見つけ取り出した。その瞬間、1番上に置かれていた物が鞄の中からコロリと落ちる。危うく湖に落ちそうになったそれを中也がキャッチした。手に取ったそれを見て中也が眉を顰める。それは先程首領の土産にしようと老人店主からルナが買った小箱だった。


「おい落ちたぞ」

『ん?あー。何かと思ったら首領の土産だそれ。忘れてた』

「おいおい…」


ちゃんと仕舞っとけよ、と念を押して中也が小箱をルナに差し出すがルナは『はい、はーい』と空返事しながら中也が持つそれに手を伸ばす。


ルナの指がそれに触れる。



『わっ!眩しッ』



それは、何の前触れもなかった。



何かに太陽の光が反射したのだろうか。あまりの眩しさにルナは目を瞑る。開けていられない程の光に瞼の裏が白み、一瞬眩暈がした。


しかし、その眩しさは数秒後に消える。眩んだ目を擦ってゆっくりと瞼を開けた。開けた視界に中也が映る。中也も片手で目を押さえて俯いていた。


『何だろ急に。眩しかったね』

「嗚呼、クソ。もろ入りやがった」


反射した光に目を痛めた中也な顔を『大丈夫?』とルナは覗き込む。手を離した中也は数度瞬きをして「問題ねぇ」と辺りを見渡した。


「今の何の光だ」

『さあ。何かに反射したような感じだったけど…』


ルナは手で遮りながら燦々と照りつける太陽を見上げる。そして、次にその光に反射して光る水面を見やった。一体何だったのだろうか。


「そろそろ戻ろうぜ」


オールを手に取ってそう云った中也に頷き、ルナは手に持っていた小箱を鞄に仕舞った。



***



小舟から降り、湖を後にして再び森の中を歩く二人。茂みを掻き分け元来た道を帰りながら進んでいるのだが、ふとルナは視界の端に入ったある物に歩みを止める。


隣を歩いていたルナが急に立ち止まるものだから、中也は振り返り「如何した?」とルナに問う。


『こんなの先刻あったっけ?』


そこにポツリと立っていたのは見知らぬ木の看板。まるで絵の具のような赤いもので矢印が描かれている。見るからに胡散臭いそれを見据えてルナは首を傾げる。


『来た時と同じ道を通ってるのに…』

「来た時に見落としたんだろ」

『……。』


見落とすだろうか。こんな変な看板が立っていればたとえ救い用がないほど鈍い者でも気付きそうなものだが。


「おい、早く行くぞ」


先に進む中也にルナは『あ、待って』と後を追いかける。最後にもう一度看板に視線を走らせる。矢印は丁度自分達が進んでいる反対側を示していた。



その数十分後、同じように看板を見つけた。



流石の中也も不審に思って看板の前に立ち止る。看板の前で腕を組みそれを睨み付けながら腕時計を見た。もう一つ可笑しな点があったからだ。


『…森抜けないね。若しかして、迷った?』

「いや…ちゃんと来た道を戻ってる筈なんだがな」


いくら歩いても森を抜ける気配がない。以前と青々しい木々が生い茂る景色ばかり。中也はどうしたものか、と首を捻る。闇雲に歩くより、異能を使って上から行く方が確実だ。しかし、それでは何だか折角のハイキング感がなくなる気がする。


『日が暮れちゃうね。もうイヴに乗ってく?私達の足より断然疾く……』

「まあ、それでもいいが…。如何した?」


中也が振り返れば、ルナが大きく目を見開いて、胸に手を当てていた。放心状態のルナに、おい、と再度声を掛けてもルナは何処か上の空で地面の一点を見つめている。


「おいルナ。何かあったのか?」


ルナに歩み寄った中也だが、ふとルナの足元を見て足を止める。



ルナの影から湧き出るもう一つの影。



その黒い影がまるで踠いているように蠢いていた。



「…おい、」


『………イヴが…』




胸に手を当てたままルナが小さな声で呟く。





『––––––––––イヴが、出て来られない』





肌に張り付くような不穏な風が2人の間を通り過ぎた。







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