第十二章 願いは鏡花水月の如し
優しい木漏れ日に目が覚めた。
不安になる程の心地よさに覚醒して、腕の中にある温もりを見遣る。気持ちよさそうに眠る愛らしい顔。頬に落ちた睫毛の影も、静かな寝息を立てる桃色の唇も此奴の全てに愛しさを感じた。
「––––––ルナ」
眠るルナを起こさないようにその名を呼ぶ。微かに睫毛が揺れたが、起きる気配はない。日の位置からいって朝の七時くらいだろうか。まだ寝ていてもいい時間だ。それに昨夜はあれだけヤりまくったんだ。もう少し寝かせてやろう。
やけに静かな朝だ。此処は田舎だから、横浜と違って交通量が極端に少ない。聞こえてくるのは風に揺れる木々の音と落ち着いた鳥の囀り。そして、ルナの寝息。
心地よいこの朝に浸っていたくて上体を起こすのさえ躊躇われた。まだこのままでいいかと、と眠るルナを再度見遣る。はだけた浴衣の合間から覗く胸の谷間にはこれでもかと赤い痕が付いている。その布を取り払えば恐らく全身の白い肌に数え切れないくらいあるだろう。それに満足感が募るだからもう重症なのかもしれねぇな。
『…ン、ちゅ、や』
呼ばれた名に視線をルナの閉じられた瞼に向ける。起きたかと思ったが、その瞳は開く様子がない。寝言だろう。夢の中でさえ俺の事を見ているのだと思えば自然と頬が緩んだ。頬杖をついてその寝顔を眺める。
『…中也、もっと…』
まさか、淫乱な夢でも見ているのだろうか。昨夜の余韻が残っているのかもしれない。そんなルナが如何しようもなくいじらしくて吐息を溢す唇に手を伸ばす。
『ふへ、シュークリーム』
その言葉にずるりと頬杖が崩れた。此奴、俺の夢というよりシュークリームの夢見てやがんのか。期待していただけに、へにゃりと締りない顔で笑っているルナが何だか腹立たしくなる。
「この野郎。俺はシュークリーム以下かコラ」
ムニっと頬を引っ張ってやる。眉を寄せたルナが微睡んだ目を半開きに開けた。不細工な面が不思議そうに俺を見詰める。
『…ひゅーら、なんかいひゃい』
何をされているか判ってない様子。最後にもう一度頬を強く引っ張って離せば、ルナは寝惚けながら自身の頬を摩った。
「よォ。随分いい夢を見てたみてぇだな」
皮肉を込めてそう云ってやれば、ルナは首を傾げて『夢?んー何だっけ?』と覚えていない様子。暫く頭を捻っていたルナだが、何かを思い出したのか俺の浴衣の袖を掴んだ。
『でも中也が出てきた。だから、幸せな夢』
へへ、と笑うルナ。そのはにかむ笑顔に先程までの莫迦みたいな嫉妬心は遠のく。胸の内から溢れた愛しさにルナを強く抱き締めた。
『中也、苦しい』
「るせぇ」
息苦しさからルナが腕の中で踠いたが、俺に離す気がないと判ると大人しく腕の中に収まる。そっと背中に回された手から何処となくルナが嬉しそうに笑うのを感じた。
「今日、ハイキングするか?」
『うん。何か広々とした緑に囲まれたい』
「んじゃ、ぼちぼち準備しねぇとな」
『朝ご飯食べなきゃね』
「先ず起きて顔洗ってからだな」
『そっか起きなきゃね』
「嗚呼」
そんな会話をしながらルナも俺も起きようとしなかった。抱き合ったまま、優しい日の微睡の所為にして、その心地よさに一時間程身を任せ続けていた。
***
『あ!アレも美味しそう!』
旅館を後にした俺達はぶらりと宿場町に並ぶ出店を回る。あれだけ朝食を食っときながら食い物屋の前で足を止め、涎を垂らすルナの首根っこを引っ張り、横浜にはない物珍しい商品を眺めた。
『中也、見てあの店』
「あ?また食いもんか?もう流石に買わねぇぞ」
『違う違う。何か骨董屋?みたいな』
遠くの方を差すルナの指の先を見据える。他の店が溌剌と客引きをしている中でひっそりと佇む店。妙に雰囲気のあるその店には店主と思われる1人の老父が座っていた。
「行ってみるか?」
『んーそうだね。首領の土産だけ買い忘れてたから彼処で買っちゃお』
今サラッと酷え事云ったな此奴。そう云や姐さんと樋口達の土産は買ったとトランクに詰めてはいたが、首領の分は聞いてなかった。
骨董屋と思われる店に行ってみると案外人当たりの良い爺さんが微笑みながら「いらっしゃい」と皺がれた声で云った。店に並んでいたのは、正直云って売り物とは思えぬ物ばかり。一見良さそうと思った壺を手に取ってみる。
『ガラクタばっかだね』
「おい店主の前で、……あー確かにガラクタだな」
手にした壺は触っただけで取手が取れた。それをスッと戻して並べられてる物に目を通す。音は鳴るが針が動かない時計。古びた人形。ひびの入った食器。骨董品といえば聞こえはいいが、どれもこれもガラクタばかりだ。ルナなんざ『わー、こんなの誰が欲しがんだろ』と先程から店主の前で売り物に悪態をついてやがる。
「ほっほっ、これら全部儂の趣味じゃて。それに此処にある物は譲って貰った物ばかりじゃ。拾い物もあるのう。だから、売れずとも良いのじゃよ」
店主は特に気にせず優しげな笑みを浮かべていた。
「そうだ、お嬢さん。土産を探してるならこんなのは如何じゃ?」
棚の奥から取り出したそれを店主は机に置く。そこには一つの小さな箱。少し古いが周りの装飾からは高級な物だったと窺える。
『何これ?』
「さあのう。何しろそれには鍵が掛かっておる。中に何が入ってるのか分からんのじゃよ」
『ふーん。じゃ、いいやこれで』
「おい適当すぎだろ。首領の土産品にンな得体の知らねぇもん贈んじゃねぇよ」
本気で買おうとしているルナの手からそれを取り上げようとしたが、ルナは『いいのいいの。首領は何あげても泣いて喜ぶから』と既に店主に金を渡している。まあ、ないよりはマシか…と溜息を吐き出して、ニコニコと笑う店主を見やる。
「そう云や爺さん。この土地でハイキングにもってこいな場所とかあるか?」
「ハイキングとな。お前さん達この土地は初めてか?」
「嗚呼」
「それなら、一つだけとっておきの場所があるぞ」
老いた店主は自身の白髭を撫でながら皺の多い指で向こうに聳える山を指した。
「あの山の何処かに湖があるのじゃ。山の中だからか人はあまり寄り付かないが、昔はそれなりに有名でのう」
「何処かって随分と適当だな」
「ほっほっ、何せ昔のことじゃて。儂も若い頃に一度見ただけじゃ」
『でも、昔は有名だったんでしょ?』
「そうじゃのう。何せその湖は…」
ルナの問いに頷き一度言葉を止めた店主は懐かしむように目を細めて、遠くの山を眺めた。
「“鏡の湖”。そう呼ばれておったんじゃ」