第十二章 願いは鏡花水月の如し





両の掌で湯を掬い、指の隙間から溢れるそれを眺める。


薬湯というから匂いがきついと想像していた。だが、実際はとてもいい香りだ。薬草というよりは花の匂いに近くて、温泉の独特な臭いさえ打ち消してしまう程香りも良かった。この旅館が一押しする温泉なだけある。


指の隙間から漏れ落ちる湯を眺めながらルナは先程から板を挟んだ隣から聞こえて来る中也の怒鳴り声を聞き、


『何か…仲間外れ』


と、恨めしそうに女湯と男湯を隔てている板を睨んだ。



その頃、男湯では––––––––––––。




***



こんにちは、僕の名は中島敦です。


訳あってただ今、上司の太宰さん、そしてポートマフィアの五大幹部である中原中也さんと温泉に入っています。先程から凄い剣幕で中原中也さんは太宰さんに向かって怒鳴っていて……、いい湯が台無しです。


「何で手前と風呂入んなきゃなんねぇんだ」

「なら、出れば?」

「手前が出ろや!!」


正直云ってもう帰りたい。端っこで湯に浸かりながら縮こまっている僕はもうなす術もなく。御二方に気付かれないように溜息を吐いて、チラリと中也さんに目を向ける。まさか太宰さんに半ば無理矢理連れてこられたこの場所でポートマフィアの五大幹部と首領専属護衛に出会すとは思わなかった。しかも、数週間前まで殺し合おうとしていた相手。特にルナちゃんには危うく首を斬り落とされそうになったのだ。思い出すだけで、体が震える。


「(けど、如何して中也さんとルナちゃんが此処にいるんだろう?休暇だって云ってたけど…、抑マフィアって旅行するのか?想像がつかない。まさか、何かの任務なんじゃ)」


やばい処に来てしまったんじゃないだろうか。美味しい茶漬けが食べられると太宰さんに乗せられたのがいけなかった。


「チッ、折角の旅行が台無しじゃねぇか。手前等も此処に泊まんのかよ」

「否、まさか。旅先で中也と同じ屋根の下だなんて鳥肌ものだよ」

「俺こそ御免だわ。だったら、何で此処にいやがる」

「この温泉は日帰り客にも利用できるのだよ。折角この地の有名な薬湯だ。療養中の身として一度は入りたくてね」


《共喰い事件》から数週間。ポートマフィアとは休戦状態が続いている。また何時何かが起こり組織同士で殺し合う可能性があるのに、こんな平穏を言葉にしたような場所で悠長に温泉なんか入っていていいのだろうか。


「抑なんで中也なんかと。まさか君達も依頼されて来たのかい?」


大きく溜息を吐き出した太宰さんに中也さんは「はあ?」と眉を顰めて首を傾げる。


「依頼?何の話だ」


僕はチラリと太宰さんを見る。一瞬無表情に何かを黙考した太宰さんは数秒にはいつもの表情に戻して首を振った。


「…否、違うならいいさ。それにしても、旅行ねぇ。よりによって此処を選ぶなんて…」

「何だよ。別に可笑しくはねぇだろ。この薬湯は評判がいいからな」

「ふっ、薬湯なんて体力お化けの君には勿体ない代物だよ」

「如何云う意味だコラ。つか、別に俺ァいいんだよ。ルナの躰にいいと思って選んだだけだ。……彼奴色々無理してたからな」


そう呟いた中也さんの表情に少し驚いた。偏見もあるだろうが、ずっと怖い人だと思っていたのに。…こんな表情をする人なんだ。


「ふーん。なら、本当に偶然なのだね」


今更だが、何故太宰さんはこんな場所に僕を連れてきたのだろうか。目的地も知らされずに横浜を離れて此処まで来てしまったけれど、実は僕、何も聞かされていない。太宰さんは怪我の為休暇中だったみたいだけど、いきなり探偵社に現れたと思ったら、温泉行こう!なんて云い出して。……うーん、判らない。


「しかし、この薬湯は香りもいいし、本当に佳い湯だ。此処で入水自殺したら風流だろうなぁ」

「すんじゃねぇぞ!?風流も糞もあるかッ!自殺されちゃ泊まれなくなっちまうだろうが!!」

「いや〜、猿の騒音が五月蠅いけど佳い湯だなぁ〜」

「誰が猿だ!いい加減放り出すぞ手前!」


結局僕は此処に何しに来たのだろうと疑問に思いながらお二人の喧嘩が静まるまで耳を塞いでいたのだった。





***




男湯の方から怒号が聞こえなくなった頃にルナは温泉から上がった。中也が選んでくれた浴衣に袖を通して、首にタオルを掛ける。髪を軽くドライヤーで乾かしてから女湯を後にした。


「よぉ」


暖簾を潜って外に出れば中也が待っていた。浴衣だからか中也の雰囲気がいつもと違って見えてルナの胸は高鳴る。何だか直視出来なくて壁に寄り掛かる中也をチラリと見上げれば、青い瞳と目が合った。徐に伸びてきた中也の手がルナの頬に触れ、そして少し濡れている髪を指に絡ませる。


「ゆっくり出来たか?」

『うん。…中也がワイワイ楽しそうに騒いでる隣で一人寂しく入ってました』

「オイ何で楽しそうに聞こえんだよ」


皮肉を込めてそう云ったルナは拗ねているのだろう。そっぽを向いてしまったルナの顔を引き寄せて中也は軽く口付ける。


「悪かった。もう、一人にしねぇから」

『ほんと?』

「嗚呼」


中也がしっかりと頷けばルナの顔はパァッと明るくなった。その笑顔を見て中也も微笑む。


「風呂も入った事だし、部屋に行くか」


歩き出す中也の背中を見やりルナは辺りを見渡す。先程いた二人の姿は何処を見てもなかった。


『あの二人は?』

「さあな。別の宿に戻ったんだろ。たく、マジで最悪だぜ。普通旅行先で逢うか?有り得ねぇだろ」

『中也そう云う運ないもんね』

「宿が別ってのがせめてもの救いだな」


階を上り今夜泊まる自分達の部屋まで向かう。部屋の鍵を開けて中に入れば、鶴の絵があしらわれた襖があった。そこを開ければ、和を象徴したかのような美しい部屋が露わになる。思わず、おお!と感嘆の声が漏れた。ポートマフィアは基本的に赤や黒などといった洋室ばかりである為、こんな落ち着いた和室は何だか眺めているだけで和む。


『わあ!本当に露天風呂がある!』


部屋に入った途端向かいにある障子を開けて外を見渡したルナが弾んだ声を上げた。兎のように外へと飛び出し、燥ぎながら湯気が立つその周りを回るルナを中也は障子に寄り掛かりながら眺める。


『中也、これ何時入るの?私今すぐ中也と入りたい!』

「今先刻別の入ったばっかだろ。ふやけちまうぞ。晩飯食った後にしようぜ」

『はぁい』


渋々と頷いたルナだが、露天風呂の前でしゃがみ湯面を指で触れる。温かな湯気が昇るそれを見据えるルナを見れば本当に楽しみにしている事が窺えた。


「ルナ」


その姿を障子に寄り掛かりながら眺めていた中也はルナに手招きをする。ルナは何?と問いながら立ち上がり駆け寄った。目の前にきたルナに手を伸ばし浴衣に触れる。


「ったく、着崩れてるぞ。いつもみたいに動き回んじゃねぇよ」


ルナはいつも動きやすい服を着ているから、脚の動きが制限されるような浴衣に慣れていないのだろう。着崩れてしまったルナの浴衣を直し、「気を付けろ」とルナの額を軽く小突いた。


『だって、浴衣って動きづらいんだもん。これじゃあ蹴りもできないよ』

「偶にはいいじゃねぇか。それに蹴りなんざする必要ねぇだろ。今は休暇中だ。いつもみてぇに気を張らなくたっていい」


ここ最近のルナは神経を尖らせていた。《共喰い事件》が終わった数週間休む事なく毎日だ。その為か、今でもルナは何かの気配を探っている。無意識なのだろうが、列車の中でもこの旅館に着いた時もルナはまず初めに不穏な気配を探った。普通ならそんな事はしないだろう。マフィアであるからそうしてしまうのは仕方ないが、今は休暇だ。ルナには気兼ねなく過ごして欲しい。その為にこうやって二人だけで旅行に来たのだ。ルナが一番安心できるように。


『うん…、そうだね。私、まだ気を張ってたかも。いつもの服じゃないと暗器が物足りなくて。今、短刀しか持ってないし』


スッと懐から出てきた鋭利な刃に中也は口を引き攣らせる。今先刻浴衣を直してやったが全く気付かなかった。流石ポートマフィア随一の暗殺者…。







***



『ん〜!このお料理も美味しい』


季節を感じさせる御膳。


質素でいて美しい色合いの料理を口に運びながらルナは頬を綻ばせる。

夕食の時間まで部屋で寛いでいたのだが、またもルナが腹の音を鳴らしたので少し早めの夕食を取っていた。


「慥かに美味えな。会食で食う重い飯とは大違いだぜ」


取引相手とする会食のだいたいが洋食だ。外国の一流のシェフが腕によりをかけて振る舞う料理である為、洒落ていて殆どが胃に重い。勿論味は絶品なのだが、矢張り日本人はこういった質素でいて、優しい味が恋しくなるものだ。


『まあ私は中也の作る料理の方が好きだけどね』

「そりゃどうも」


既に出された料理を全て食べ終えたルナは食後のデザートの柚子アイスを食べていた。そういえば…、とルナはまだご飯を食べている中也に視線を向ける。


『中也、お酒飲まないの?』

「嗚呼、今日はいい」


そう返事をした中也に、ルナは珍しい…と心の中で呟きなぎら匙でアイスをちびちびと食べる。お酒のおつまみとして合いそうなおかずばかりなのに、あんな酒好きの中也が一滴も飲まないなんて、もしかしたら、酔っ払った中也を介抱するルナの身になってるのかもしれない。


『いいよ、別に飲んでも。大丈夫、ちゃんと介抱してあげるから』

「そういう訳で飲まねぇんじゃねぇよ。酔い潰れたら、抱けねぇだろうが」

『だ、……』


パチリと青い瞳と目が合う。その瞳を見て、ルナは中也が云った意味が分った。カァァ、と顔が赤くなる。そんなルナに中也はふっと笑みを溢して、食事を再開させた。勿論期待はしていたが、改まってそう宣言されると何だか恥ずかしい。ルナは匙を咥えたまま、顔に溜まった熱を冷ますように手で煽ぐ。口の中で溶けてもまだ残る柚子の甘酸っぱさに酔ってしまいそうだった。








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