第十一章 罪を以って裁きを制す





『きゃ〜あ!中也ん家のベッド久し振りぃ!』


ボフン、と寝台の上に飛び乗ったルナが枕に顔を埋めて、めいいっぱい匂いを吸い込む。ルナの大好きな温かな香り。それが胸いっぱいに広がり、安心感が募る。



首領の快癒祝いが終わり、中也とルナの二人は中也の自宅に帰宅した。凄く久し振りに感じるのは屹度色々あったからだ。《茨の怪物事件》、《共喰い事件》。その事件の黒幕であったドフトエフスキー。狡猾の権化たる彼の謀略がポートマフィアを危機に陥れたのだ。この数日間ずっと血の匂いに飢えたような殺気の中にいた。そして、やっとその殺伐とした雰囲気から解放された。だから、久しく感じるのだろう。いつももっと長い間帰れない時があるのに、そう感じるのはその所為だ。



ルナは大きく深呼吸するように、この安心感に身を任せた。パタ、パタ、と寝台の上で足を揺らす。そんなルナを中也は何も云わずに見据えた後、ゆっくりとルナがうつ伏せになる寝台に腰掛けた。


「ルナ、ここ座れ。話がある」


ルナは顔だけ振り返り中也を見遣る。ぽんぽん、と自身の隣を叩いた中也はどこか真剣な顔をしていた。ルナはいつもとは違う中也の雰囲気を感じ取り、何となく正座で中也の隣に座る。


『何の話?』

「今回の抗争の話だ。芥川から聞いた。黒幕を捕らえたのは手前と太宰らしいじゃねぇか」

『…う、ん』


ルナは何となく中也が話そうとしている事が判った。青い瞳は真っ直ぐ此方に向けられている。ルナはその瞳から逃れるように無意識に軽く握り締めていた自身の拳に視線を落とした。



「太宰の指示に従ったのか?」


ルナの肩がピクリと跳ねた。別に隠そうとしていた訳ではない。でも、云いたくないと思ったのは本音だった。屹度自分は今回、中也の厭がる事をしたから。そして、それを選んだのは紛れもなく自分だ。


『中也、ごめ』

「いい。謝るな」


ごめん、と云おうとしたルナを制すように言葉を被せた中也はゆっくりと顔を上げたルナの瞳を見詰めた。オッドアイの瞳は不安げに揺れている。


「黒幕を捕らえるにはマフィアと探偵社が共闘する必要があった。だとすりゃあ、太宰は手前を使おうとする。昔からそうだからな。だから今更、手前が太宰の指示に従った事を責める心算はねぇ」


しかし、今回の抗争のあらましを聞いた時、ずっと胸に黒ずんだものがあったのは確かだ。それは屹度昔からずっと中也の中にあるもの。ルナが太宰の指示で動く事が厭だった。勿論、嫉妬の情もあるだろう。だが一番の理由は、太宰がルナを人間とは思わずまるで道具のように使う事だ。それが昔から許せなかった。でも、その怒りに似た感情をルナにぶつけていいものではない。今回は尚更。ルナが自分で決めた事なら、何も云うまい。


「だが、ルナ。一つだけ訊きたい」

『…うん。何?』

「太宰は、手前に何か云ったか?」


中也の手がゆっくりとルナに伸びる。そのまま柔らかな頬に触れて優しく撫でながら中也は真剣な瞳で続けた。


「昔のように、手前の心を否定するような…、そんな言葉を手前に吐いたか?」


頬を撫でる中也の手はどこまでも優しかった。だが、ルナを見つめるその瞳の奥にはルナを思う愁いと、太宰に向けられた吹き荒れる寸前の怒りのような感情が宿っている。ルナは荒波のようなその瞳を見つめ返して、ゆっくりと首を横に振った。


『何も云われなかったよ。ありがと中也、心配してくれて』


二人の視線がしっかりと交わる。ルナは中也を安心させるように微笑んだ。柔らかな笑み。久し振りに見たルナの笑顔に中也を蝕んでいたやるせなさや不安が浄化されていく。



中也は漸く頬が緩んだ気がした。ルナの頬に添えていた手を滑らせて柔らかな唇に触れる。昏睡状態で青かった唇は今では血色のいい桃色。それを指の腹で優しく撫でる。ルナは擽ったそうに唇を綻ばさせた。


「ルナ」


名を呼ぶ中也の声に応えるようにルナは目を閉じる。そっと唇が重なった。触れるだけの接吻はすれ違った日々の寂しさを埋めてくれるような味がする。どれくらいそうしていたか、漸く中也の唇が動いて角度を変え、ルナの唇を優しく食んだ。それが合図だったかのように、ルナの躰が後ろに倒れる。寝台がその背中を受け止めて、中也はルナに口付けたまま覆い被さった。


『…んんっ』


深くなる口付け。開いた唇に中也の舌が入り込み、それに応えるようルナは中也の首に手を回した。


『んっ、あ、ぅんっ、』

「…ん」


ゆっくりとした動きで舌を絡め合う。互いを求め合うような深い口付けだが、どこか優しくて穏やかな接吻だった。二つの唾液が混ざり合って、音を立てる。漏れ出る吐息すら飲み込んで、深く求めていく。


唇が離れ、名残惜しいげにルナは薄らと瞳を開けて中也を見詰めた。



だが、数秒もしない内に接吻が振り落ちる。今度は唇ではなく、鼻先に、額に、そして、瞼に。まるで優しい雨のように落とされる接吻にルナの鼓動は高鳴った。


『中也、擽ったい』

「ん?嗚呼」


照れ隠しにそう云ったけれど、中也は頷いただけでキスを止める事はしなかった。中也の唇がだんだんと下へ降りて行く、首筋に、胸に。ルナが着ていたワンピースを肩からするすると下ろしながら、手と唇でその肌に触れていった。ルナの腹の辺りまできた中也がふと手を止める。ゆっくりと唇を離して、そこを見据える。ルナはそんな中也の視線に気付いてそっと自分の腹にあるそれを手で隠した。


『…あまり見せられるものじゃないよ』


ルナが困ったように眉を下げた。しかし、中也はルナの手を取り、それをしっかりと目に焼き付ける。痛々しく残る傷痕。傷自体は塞がっているが、そこに残るのはまるで抉られたような痕だ。白い肌には不釣り合いなその傷。この躰にどれ程の痛みが走った事か。痛感に慣れているとはいえ、辛かっただろう。中也は労るように傷痕をそっと撫でる。



ふと、あの時の男の言葉が脳裏を掠めた。


「なァ、ルナ。あの時、あの茨の怪物の側にいた男が手前に云った言葉、覚えてるか?」

『うん』

「…あの時、手前は何を思った?」



あの時の言葉。



〝 菊池ルナ、貴様はなんと弱くなった事か。感情を持ってしまった故に。それは、中原中也その男の所為か? 〟


男は突き付けるようにそう云った。それはまさしく、中也が嫌う言葉だ。ルナの心を否定する言葉。


–––––––––感情を持ってしまったから、ルナは弱くなっただと?


昔のように己の意思はなく、躊躇いがなく、ただ命令された事だけに従う。そんな人形のようなルナは確かに何者にも屈しない強さがあっただろう。牙を仕舞う事すら知らぬ獣のように。


だから、今のルナは弱いと云うのか?


ならば、恐怖を知らなければ、感情を知らなければ、
人は強くいられるのだろうか?


『私は…』


ルナの唇がゆっくりと動いた。


『私は感情が弱さ・・・・・だとは思わないよ』


ルナの声はいつになく静かだった。だが、揺れることはなく真っ直ぐ中也に向けられる。


『だって、人は誰でも弱さがあるもの。どんなに完璧な人だって、皆そうでしょ?強さがあって、弱さがあるから人間なの。けど、その強さや弱さを決めつけるのは他人じゃない』


ルナの手がゆっくり伸びて中也の手を取る。そのまま引き寄せるようにその手を自身の頬に当てた。


『中也と出逢って、中也を好きになって、私は弱さの意味も強さの意味も知ったよ。あの男が縋りたかった私の強さは、私が欲しい本当の強さじゃない。そして、あの男が憎んだ私の感情は、全てが弱さじゃない』


感情は確かに脆さや儚さがある。壊れて、打ちのめされて、崩れ落ちてしまう心の弱さだってあるだろう。人ならば当然だ。


しかし、崩れず、決して揺るがない感情だってある。


ルナはそっと胸に手を当てた。


『私の中に在る弱さも感情も、想いも、中也がくれたもの全てが、––––––––––––私の強さ・・だよ』


オッドアイの瞳は何処までも真っ直ぐで美しい。


その眩しい程の美しさに中也は目を細めた。


この美しい瞳が闇で濁る事もあるだろう。悲しみに揺れる事だってある。喜びに満ちる事だって。感情が揺るがす弱さと強さの上で、人は生きているのだから。


『中也もそう思わない?』

「嗚呼、そうだな。手前の心は強くて、綺麗だ」

『うーん、綺麗かは如何かな?すぐ嫉妬しちゃうもん私』

「ふっ、偶に真っ黒だもんな」

『そこは最後まで綺麗って云ってよ』


ぷくっと頬を膨らませて拗ねるルナに中也は吹き出した。あどけない顔でくつくつと笑う中也を見上げて、ルナの鼓動が疾くなる。そして、自然とルナの口許が緩んだ。











***







あの日、悪夢で感じた恐怖を私は決して忘れる事はないだろう。



いつかその恐怖が現実になるならば、私は壊れてしまうかもしれない。弱い自分を、嘆くかもしれない。



けれど、その恐怖を胸に刻んで自分の弱さを認める事が出来るのは、紛れもなく私の心だ。





この感情が在る限り、




中也、私はこれからも貴方の傍で




––––––––––––強くあり続けたい。








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