第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう
「右上腕粉砕骨折。上腕筋断裂、腕神経叢損傷、頭部外傷、刺創により臓器の七割が損傷。鳩尾、腹部付近は特に重度の刺創症状が見られ、多量出血によるショック症状状態……」
「
森のその言葉に中也は拳を握り締める。あの後…、怪物を倒し、崩れる地下を出た後、ルナは直ぐにマフィアが所有する大病院に運ばれた。極秘に行われた名医による手術。数多くの患者を救ってきた名高い医師が大量の汗を掻き、震える手でルナの手術を行った。ここで失敗でもしたら自分の命もなくなる。そんな経験をするのは初めてだった事だろう。
「医者が云っていたよ。手術中ルナちゃんの損傷した重要臓器は既に再生を始めていた、とね。これも、ルナちゃんの中に住むものの力なのか」
手を組んで何かを黙考するように目を閉じた森を見据えて、中也は一度頭を下げてから首領執務室を後にした。
ピッ、ピッ、と無機質な医療機器の音が響く。
此処は厳重にセキュリティが施してある治療室。何度も暗証番号を入力し、許可を得た者しか入室する事は許されない部屋。許されているのは、首領である森と中也だけだった。
中也は白い寝台に眠るルナを見下ろす。浅い呼吸しか出来ないルナを助けるように人工呼吸器が酸素を送る。それは随分とルナに不釣り合いな気がした。
中也は寝台の横に置かれた一つの椅子に腰掛ける。そっと手を伸ばしてルナの冷たい頬に触れた。そのまま優しく撫でるように指を滑らせる。いつもなら擽ったそうにルナは笑うのに、今は反応すらない。
それに唇を噛み締めて中也は視線をルナの首筋にやった。数日前、その白い首につけた赤い痕はとうに消えてしまっている。ルナの躰に残っているのは痛々しい傷ばかり。
今にも死んでしまいそうな青白い顔で眠るルナを見るのは辛かった。早く目を覚まして欲しい。また元気な姿で笑って欲しい。
願うようにルナの手を取りそれを額に当てる。
「––––––ルナ」
機械の音だけが響く空間で中也はルナの名を呟く。その優しい声が無機質な音を掻き消すようにそっと空気に溶け込んだ。
***
怪物は、この世から消えた。
もう二度と目覚める事はない。
その怪物に囚われていた男も漸く安らかな死を迎える事ができた。
或る男の導きにより唯一の希望に縋るため、8年という歳月を得て漸く彼は救われたのだ。
怪物から解放される事を望んでいた彼に道を示し、助言した男は長身のロシア人だったと云う。
「ふーむ、矢張りこれも同じですか」
書類の束を指で叩きながら一人の男が云った。男が持っているその書類はポートマフィア構成員の異能リスト。最高機密たる首領の異能すら記されている。
「森鴎外の異能はこれで間違い無いでしょう。ですが、
死人のような青白い顔をした男は一度天井を見上げ、ふう、と息を吐き出した。そして、徐に立ち上がる。
「まあ、いいでしょう。彼女の手足は既に封じましたから。彼のおかげでポートマフィア首領を護る最強の盾は瀕死状態。これで滞りなく森鴎外の暗殺ができそうです」
黒髪に白い帽子を被ったロシア人の男は暗闇の中でこれから起きる嵐の予兆を見据えるかのように不気味に嗤った。
第十章【完】_____Next、第十一章へ
13/13ページ