第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう





「ンで?その怪物が何で今になって出てきてやがる。死んでなかったって事か?」

『みたいだね』


ルナは再生していく茨の蔓を見据え、そして、男の方へと視線を向けた。ゆるりと立ち上がった男。彼は中也を見遣り、そしてその腕に抱えられている傷だらけのルナに視線を落とした。



「貴様にはなかった。人間の心が、感情が…。故に、強かったのだ。何者にも揺れず、屈する事はない。人智を超えた怪物さえも圧倒するその強さが、再びこの怪物に囚われてしまった俺の、唯一の希望だった」


男の瞳が懇願するようにルナを映す。しかしそれは今のルナではなく、まだ感情を知らなかったあの頃のルナに向けたもの。


「しかし、菊池ルナ、貴様は感情を持ってしまった。恐れを知ってしまった。もう貴様ではこの怪物に勝てない。一度この怪物に恐怖を奪われた者は二度と此奴を壊す事は出来ないんだ。嗚呼、菊池ルナ、貴様はなんと弱くなった事か。感情を持ってしまった故に。
––––––––––それは、中原中也その男の所為か?」


男の言葉に中也は腕の中にいるルナに視線をやる。前髪に隠れた瞳は見えなかった。


––––––––––今、何を思っているのだろうか。


ルナの肩を支える中也の手に微かに力が入った。それに気付きながらもルナはその事について何も云わずに、代わりに静かな声で中也にだけ聞こえるように囁いた。


『中也、私が囮になる。その内にあの怪物の核を壊して欲しい』

「はあ!?てめっ、何云って」

『あの男の云う通りだと思う。“一度恐怖を奪われた者は二度とあの怪物を壊す事が出来ない”。私は既にあの怪物に恐怖の心を知られてしまっているから、私の攻撃は届かない』

「だからってなァ。……あ?…核?」


先程云ったルナの言葉に中也は首を傾げた。


『そう、核。あの怪物の心臓。それが何処かにある筈。8年前、私が首領からあの怪物の駆除を命じられた時、あの時は奴の核はあの塊の中心にあった。でも、それは全部じゃなかったのかもしれない』


ルナは視線を彷徨わせて怪物の目の前に立つ男を鋭い視線で射抜く。ある一つの予想。8年前、ルナが怪物の核を壊した事で怪物は崩壊した筈だった。しかし、今こうして怪物は生きている。それは、ルナが破壊した核が全てじゃなかったとしたら?もし、その一部が何処かに移動していたとしたら……。


「如何してあの怪物があの男を傍に置いているんだろうね。まるで宝物みたいに、大事に」

「……成程な」


中也も気付いた。怪物の心臓の在処に。


『私は大丈夫だから』


ルナは中也に笑顔を向ける。自分は傷を負い、今にも倒れそうな程なのに、それでも安心させるようなルナの笑み。それを見て中也は一度何か云いたげに口を開いたが、言葉を呑み込んだ。


「直ぐ方を付ける。待ってろ」


それだけ云って動けないルナの体を壁に預けさせ、額に小さな口付けを落とす。


『うん。中也、気を付けてね』


中也は立ち上がり再生を終えた茨の怪物と男を見据える。そして、男との距離を詰める為、地を蹴った。


中也は迫り来る茨の蔓を重力で防ぎながら男に向かって拳を振り上げる。それに気付いた茨が一斉に男を護るように盾となった。そのまま巨大な茨の塊が男の体全てを覆うように形成する。中也は舌打ちを溢して、その塊に腕を突っ込んだ。重力の乗った拳がメキメキと音を立てて塊の中へと押し進んで行く。


茨が裂け、塊の中から男の姿が見える。絶望の淵へと沈んだ男の顔は妙に冷静で、中也の拳が己に届く事に何の躊躇いもなかった。ただ抵抗しているのは茨の怪物だけ。彼を無理矢理生かし続けたその怪物だけ。


「(くそッ!こっから進まねぇッ)」


自身の体に茨が直接触れぬように重力を操作しながら拳に力を込める。たった少しの距離が縮まらない。中也の拳と男を護る茨の力は互角だった。何方かが一瞬でも緩めれば勝負が決まる。


中也に猶予はない。ルナはあの怪我だ。一刻も早く手当をしなければ、と焦りが中也を襲った。


その瞬間、茨の蔓が一斉に動き出した。目を見張った中也の視界を物凄い速さでそれが通り過ぎる。拳を進めるには今が絶好の好機だ。だが、中也はそれが出来なかった。その茨が男を護るのを止め、一直線にルナに向かって行ったからだ。


「ルナ!!!」


中也は振り返って叫んだ。


迫り来る茨。血が流れ出す腹部を押さえながらルナはそれを見据えた。


『はっ。今まさに自分の心臓が壊されるってのに、如何しても私を喰いたいみたいね。8年前、私に負けたのがそんなに屈辱だった?』


ルナは“大地の悪夢”に鋭い視線を向けた後、血の滲んだ声で叫んだ。


『中也!』


呼ばれた名にハッとして中也は力の限りで拳を振り下ろす。中也の拳が、男の心臓を貫いた。その時、中也は見た。心臓を貫かれた男がまるで安心したように笑ったのを。




辺りに響く断末魔。


幾多もの茨が踠いているように空間が歪んだ。その凄まじい叫び声と共に天井が、壁が、大地が、崩壊し始める。


中也は拳を抜いて、直様ルナに駆け寄った。壁が歪んだ事で地面に倒れるようにして横たわっているルナの体を抱き上げ出口へと向かって走る。


凄まじい轟音を立てながら崩れていく怪物。ここは奴の体内だ。中也が通って来た全てが奴の茨で出来ている。故に崩壊し始めたこの場所で逃げ遅れれば、生き埋めになってしまう。


「くそっ!出口は何処だ!?」


元々は地下に存在するこの場所。茨と融合していたからか如何やら天井の瓦礫も崩壊し始めているらしい。上から降ってくるそれらを躱しながら中也は辺りを見渡す。


『中也…イヴを…』

「莫迦野郎っ!こんな狭え場所にイヴなんか呼べるか!崩壊すんの早めるだけだろうがッ!」


額から汗を流しながら走る中也の横顔がぼやける。


『(流石に…血を、流し過ぎた…)』


朦朧とする意識。ここで気絶してしまったらイヴを呼べなくなる。何とかして此処から出なければ、何とかして…。


––––––––––中也、だけでも…。


「ルナ、大丈夫だ。必ず出れる。心配すんな」

『……うん』


ルナはその安心する声に身を任せて、静かに瞼を閉じる。



怪物の絶叫が段々と弱まり消える頃、ルナの瞼を微かな光が照らした気がした。




***





茜色の空に2羽の烏が飛んで行く。



それを見上げながら中也は行く手を阻む瓦礫を蹴り退け、地上へと出る。遠くから此方に気づき駆け寄って来る黒服の構成員の姿が見えた。首領が配置しておいてくれたのだろう。腕の中にいるルナは意識を失っていた。青白い顔で呼吸も浅い。



中也は後ろを振り返りその惨状を見遣る。


崩壊した地下空間。


茨の怪物はまるでそんなもの最初から存在していなかったように跡形もなく消えた。その場には瓦礫と、古びた戦闘服が一つ残っているだけだった。


静かな風が戦闘服の袖を揺らした。ボロボロになったそれが紙切れのように風に攫われていく。音もなく消えていくその様は、まるで嵐の前の静けさのようだった。



中也は空に消えたそれを見据え、そっと囁くように眠るルナに問いかける。




「なあ、ルナ。何であの男は、今になって手前に助けを求めに来たんだろうな」






8年という歳月を超え、何故今になって––––––––––。







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