第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう
–––––––––––8年前。
“それ”は発見された。
或る国が所有していた軍の貨物機。それが飛ばされたのは大戦末期だった。無人のそれは時代が変わる中、世界の上空を飛び続けたと云う。歳月を超えて、貨物機にも限界が来たのだろう、それが偶然落ちた場所が横浜租界だった。
そして、“それ”はその中にいた。
墜落した貨物機を片付けようとした軍警察の者達が“それ”の犠牲になった。派遣された者が次々とその場に向かい、喰われていく。連絡は途絶え、不確かな情報しかなかった為、犠牲になる者は少なくなかった。
男もその内の一人だった。
そこにある“何か”の存在。その情報しかない中、軍から派遣された重武装をした数人の男達がその場に向かった。彼等は厳しい訓練を乗り越え、共に戦争を生き抜いてきた精鋭部隊の仲間達だった。
––––––––––だが……。
その怪物を前に、人間はあまりにも無力だった。
夢に沈み、恐怖に落ちていく仲間達。
恐怖に熟れた仲間達を喰らっていく怪物。
“それ”を前にして、男は銃の引き金を引く事が出来なかった。その場に膝をつき、静かに眠ったままその怪物に喰われていく仲間達を見据える。
––––––––––––次は、俺の番なのか?
茨の蔓が向かってくる。全身を凍らせたまま唯迫りくるそれを眺めた。
恐ろしい怪物。仲間達をまるで果実を齧るように喰らったその怪物が男にはこの世の何より恐ろしく思えた。
恐怖のあまり男はその場に気絶した。
倒れた男。それに近づいていく茨が男を絡め取った。
しかし、“それ”はその男に夢を見せなかった。
見せずともよかった。
何故なら、男はもう既にこの世のなりよりも深い恐怖に染まっていたのだから。
男はそれ以降、この怪物に飼われていた。そばを離れようにも茨が無理矢理引き戻す。助けを呼ぼうにも手段がない。ただ、この奇怪な怪物の側で時を過ごしていた。他人が見る夢を無理矢理怪物に共有させられるのが何より苦痛だった。そして、また一人、また一人と恐怖に落ち、喰われる度に絶望が募っていった。
あれから何度か軍警からの応援が来たが、結局は全て同じ。この怪物に勝てる者なんていやしない。
–––––––––––心のない者でない限り。
新月の夜だった。
闇が月を攫った暗夜。
その夜に紛れて怪物を見上げるオッドアイの瞳があった。
年端もいかない少女だ。
死神に見紛うような布を纏った幼き童女。
茨の怪物が動き出す。真っ直ぐ少女に向かってその茨が絡め付く。
––––––––––嗚呼、可哀想に。
この時の男は何故こんな奇怪な場所にこんなにも幼い少女がいるのかと云う疑問さえ浮かばなかった。それはとうに男の精神が限界だったからだろう。
目を瞑り、男は手で顔を覆った。この少女はどんな悪夢を見るのだろう。どんな恐怖を抱えて生きているのだろう。頭の中に流れる映像を男はそっと待つ。
しかし、幾ら待っても何も見えなかった。
まるで巨大な暗穴を覗いているかのように何も。
その瞬間、あたりに凄まじい断末魔が響き渡った。耳をつん裂く不気味な音。苦しみ踠くようなその音は怪物のものだった。
男は信じられないものを見る目でその光景を見る。
絶叫が辺りを震わす中、オッドアイのその少女は茨の中心に刃を突き付けていた。幾多も蠢く茨を噛みちぎった巨大な獣を連れて。
その白銀の化け物は、怪物とは比べようもない程に美しかった。暗闇でも輝く銀白。彼女の髪の毛先も同じようにその白い輝きは暗闇の中でも眩しかった。
少女が刃を抜けば、怪物が音を立てて崩れていく。銃火器を食らっても尚、再生し続けたそれが跡形もなく。
崩壊した“それ”をオッドアイの瞳が何の感情も含まぬ冷たさで見下ろしていた。
何故、少女は喰われなかったのだろう。
男はその答えが直ぐに判った。
その一点の光さえないオッドアイの瞳を見て、
静かに佇むその人形のような姿を見て。
––––––––––––この少女には、恐怖はおろか感情の一欠片さえないのだと。