第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう
血の滴る音が鮮明に聞こえる。
耳を塞いでも両手に染まった血の匂いが香る度、厭でもその
––––––––––––私が、中也を殺したんだ。
殺してしまった。
自分の手で貴方の命を奪ってしまった。
誰よりも愛しいかけがえのない人。
そんな人を、私は–––––––––––。
––––––グルルッ…。
獣の唸り声が聞こえた。
そっと耳から両手を離して、後ろを振り返る。
一対の赤い瞳が私を見ていた。
『……イヴ、如何してなの?』
真っ暗な世界に溶け込むように黒い影は唸った。
『ねぇ、イヴ。教えて。私は何の為に“––––––”を使ったの?』
私の中に答えが返ってきた。
でも、それは此処ではないもっと違う場所から。
––––––––––––使ってない、と。
『…え?』
じゃあ、この姿は?
その瞬間、また別の場所から声がした。今度は優しく、もっと心から安心するような声だ。
––––––––––ここにいるぞ。手前の傍に。
辺りに光が差し込む。イヴだった黒い影が消える。私の姿が元に戻っていく。
そして、優しい光が全てを照らした。
***
『……ちゅ、や』
微かに震えた唇がその名を呼ぶ。
「ルナ!」
中也は聞こえたその弱々しい声に驚き、抱き締めていたルナを見た。
薄らと閉じられていた瞼が開く。美しいオッドアイの瞳が儚げに揺れた。
「ルナ!おい、大丈夫か!?」
『……ちゅう、や…生きて…』
「嗚呼。生きてるに決まってんだろ」
中也はその存在を示すようにルナの手をしっかりと握った。ルナの瞳がゆっくりと中也の顔を映すが、ぼやける視界がそれを邪魔する。
『……これは夢?中也、生きてる…私が貴方を…』
「ルナ、しっかりしろ。俺は生きてる。夢じゃねぇよ。今お前の傍にいる俺は夢じゃねぇから、安心しろ」
中也の声が届いたのか、ルナの視界が晴れていきしっかりと中也の姿を映した。––––––筈なのに、またぼやける視界。今度はルナの瞳から流れ出てきた涙に邪魔されてしまった。
『中也っ、中也ッ!』
縋り付くように中也へ手を伸ばすルナ。動かない右腕はどうしようもなく、だが動く方の左手で必死に伸ばし、抱き着いた。しっかりとその存在を確かめるように。中也もそんなルナに応えるように優しく声を上げて泣くルナを抱きしめ返す。
『よかった……私、中也を殺してしまったんじゃないかって…私っ』
「バーカ。ンなもん夢だ夢。ったく手前は夢と現実を間違えすぎだろ。ま、この前の帽子の夢よりマシでよかったがな」
冗談めかしてそう云った中也にキョトンとした顔を向けたルナだが、悪戯に笑う中也を見て笑みを溢した。
『もう、中也ったら』
「それより手前、酷え怪我だぞ。早く手当てしねぇと手前の方が死ぬんじゃねぇのか」
『あはは、確かに酷いわコレ』
笑い事ではなく。本当に重傷である。体中の至るところから止めどなく血は流れ、恐らく臓器も損傷が酷い。早く此処から出て、手当てしなければと中也がルナを抱えて立ち上がろうとした。
しかし、それを止めるようにルナが中也の服を掴む。
『待って中也。まだ仕事が終わってない』
「あ?手前何云って…」
中也はそこで言葉を止めてルナが見ている方に視線をやった。戦闘服を着た男が立つその背後で蠢く茨。先刻中也が引き千切ったそれら全ての茨が再生し始めていた。
「おいルナ。手前はあれが何か知ってんのか?あの男の異能力か?」
『ううん、あれは異能じゃない』
そう云ったルナの声はどこか重かった。異様に蠢くその茨を睨み付けて、ルナは続ける。
『私は昔、あれを見た事があるの』
「何だと?」
『もう結構前だよ。首領がポートマフィアの首領になって少しの頃にね。まさか、まだ未練たらしくこの世に存在してたなんて』
「異能じゃねぇなら何だ?生物兵器か?」
『似たようなものじゃないかな。何しろ何処から生まれたのか分かってないからね。“大地の悪夢”、当時は一部からそんな風に呼ばれてたっけ。人の恐怖につけ込んでその身を喰らう、卑しい怪物だよ』
「そうだ」
ずっと黙っていた男が掠れる声でそう云った。背後では茨の蔓が再生しつつある。その様子を眺めている男は疲れ切った顔を更に歪めた。
「やっと…やっと此奴から解放されると思ったんだ。菊池ルナ、お前が此奴に囚われた時にな」
男は溜息を吐くような静かな声で云った。「なのに、なのに何故…」と魘されているように呟いた男は両手で顔を覆ったまま叫ぶ。
「なのに何故!そんな詰まらんものに成り下がったんだ!?貴様だけだったんだぞ!この怪物に屈しなかったのは!貴様だけが恐れる心を持っていなかったからだ!」
男の悲痛なまでの叫びが空間に広がる。反響したそれはまるで男の泣き声のように辺りに響いていく。
「そうだ、貴様は心がなかった。感情がなかったんだ。恐怖を知らなかった!だから、この怪物は貴様を喰うことが出来なかった!そして、貴様はこの怪物を見事に破壊してみせた!多くの仲間が此奴に喰われたと云うのに……」
膝を突いて項垂れる男の脳裏に当時の光景が過った。それは嘗て、“大地の悪夢”に囚われてしまった男の長く絶望の日々の始まりだった。