此処は、何処だろう。



頭に浮かんだ疑念。それを感じた時、私は閉じていた瞼を開けた。其処は、暗かった。辺りを見渡してみても、上も下も右も左も黒。何もない暗闇がただ漠然と広がっている。


『…イヴ？』


此処はあの（・・）空間だろうか。曖昧な思いでイヴの名を呼んでみた。けれど、私の目の前にイヴの姿はない。それが此処はあの（・・）空間ではないと判断できた。


では、此処は何処だ？


再度疑問を零した時、ふと空気の中に香る血の臭いを拾った。首を傾げてその臭いを辿る。矢張り辺りは闇のように真っ暗で一寸の光もない。



血の香りは強い。恐らく血を流している何かがある。周りが見えないのはただ暗いからなのか。イヴと同じ目ならば見えるかもしれないと右目につけてるコンタクトを外す為そこに手を伸ばす。


『………え』


私はそこで漸く理解した。血の臭いを強く感じていた理由が。


–––––––––––自分の手が真っ赤な血で染まっていたから。


『…誰の、血？』


何故だろうか。血に染まった己の手など何度も何度も見慣れていると云うのに。酷く心臓が厭な音を立てた。


これは私の血ではない。この血は一体…。


ぴちゃん…。


静寂の中は微かな音さえよく響く。下を向いた私の長い髪が肩からさらりと落ちた。私は目を見開く。それは暗かった地面が血の赤に広がっていたからではない。驚いたのは、視界に映る己の髪。鏡のように血の水面に映る己の姿。


そこに映る自分は、水浅葱色の髪が毛先から毛の生え際はまで全てが白銀に染まっていた。普段アメジスト色の瞳は右目と同じく血のように赤い瞳。そして何より、鋭い爪と口から溢れでる牙がいつもと違う姿である事を物語っていた。


『な、何で？如何して…。だって、だってこの姿は』


––––––––––––この姿は、私の……


「ルナ」

『ッ…！』


心臓が飛び出る程動揺した。私の名を呼んだ声に背中から吹き出した冷や汗が止まらない。息も絶え絶えに呼ばれたその声。苦しそうな、消え入りそうなその聞き慣れた声に私は血に染まった己の手を握り締めた。



頭の中で、激しい雑音が鳴る。
その雑音に混じって叩きつけられる問い。



––––––––––––この手に染まる血は誰の血だ？



ゆっくりと背後を振り返る。



「手前、何…で…」



吐き気と耳鳴りが酷かった。


嗅ぎ慣れた血の臭いに目眩がして、目の前の光景に心臓を握り潰された。



『––––––中、也…』


私の目の前にいるのは、血だらけの中也。


息も絶え絶えに倒れ込む中也の体からは血が溢れ出し、その傷口は紛れもなく致命傷だった。



『わ、私が？私が中也を…』



血に染まった自身の両手を見遣る。


真っ赤な水面に映る私は、私であり、私ではない。



己の人格さえ殺し、ただ本能のままに。


敵味方の区別などない。


愛しい者すら手にかける。



––––––––––夢であれ、夢であれ。



慟哭を上げながら只管に願う。



血に染まる中也を前に更なる闇の底へと意識が沈んでいく。



夢である事を願う度に深く、深く。



支配される。



心が叫ぶ。



–––––––––––怖い。



全てを支配した一つの感情は、恐怖。




何処からか出てきた茨が辺りに蠢く。
ルナの腕を脚を絡め取り引き摺り込んでいく。



深淵の闇へ、落ちて行く。



〝 菊池ルナの恐れ 〟




それは、




––––––––––––––––己の手で中原中也（愛しいもの）を殺めること。