第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう






横浜の街は今日も雑踏で、沢山の話し声が聞こえてくる。家族の会話、恋人の会話、友人の会話。どれも平和な日常に浸る穏やかな声音だ。だからこそ、その平和の中に不穏な音が混じれば喧騒を巻き起こす。



「どけ!どけ!退かないと撃ち殺すぞ!」



ドタバタと騒々しく駆けていく男。サングラスに黒いニット帽、そしてマスクといったありきたりな格好で街中を駆ける男の手には拳銃と銀のアタッシュケースが一つ。強盗だ。



俺はその強盗犯を追いかけていた。


俺の名は国木田独歩。武装探偵社の一員だ。そして、今は仕事中。


「待て!」


声を張り上げ逃げ足がやけに疾い犯人を追いかける。懐に仕舞い込んだ手帳の存在を確かめながら機会を伺うのだが、相手は拳銃を持っていた。加え、上手く人混みに紛れている。若し、一般人が人質にでもされたら此方は下手に動けなくなってしまう。



道行く人々を脅しながら道を作り掻き分けていく強盗犯の男。一般人が拳銃を持つ男を目で捉えると悲鳴を上げながら掃けて行くので、奴は人質にする間もないのだろう。逃げる方を先決している。


しかし、奴が逃げる先に一人の少女が歩いていた。背中を向けていて騒ぎに気付いていないのか道を開ける気配がない。


「女ァ!死にたくなかったら退きな!」


犯人が叫ぶ。だが、季節外れのマフラーを揺らした少女は強盗がそう叫んでも尚、悠々と歩いていた。まさか気付いてないのかと俺は焦った。このままでは彼女が人質にされてしまう。俺は手帳に手を掛けた。


「もういい!テメェを人質に…っ!?」


少女の肩に腕を伸ばした男。だが、男の手は彼女を掴めなかった。少女がひょいっと避けたのだ。そして次の瞬間、男の体が地面に倒れた。くるくると宙で回っているアタッシュケースが男の後頭部に直撃。男は気絶したのかピクリとも動かなくなった。


『ありゃま。お気の毒』


失神している男に哀れみの目を向けて、水浅葱色の髪をした少女は両手を合わせる。


「(今、何が起こった…?)」


俺は手帳を手にしながら目の前で起こった光景に唖然とする。小柄な少女の前で倒れている大男。迚も一瞬の事だった。周りの者はただ男が自分で転んだと思っているだろう。だが、違う。あの少女が男に足払いをかけたのだ。それはもう常人の目では追えない速さで。


「(あの娘、何者だ…)」


俺は手帳から手を離して倒れている男とマフラーを着けた少女に近づく。男が意識を失っている事を確かめた後、少女に目を向けた。


「協力感謝する。怪我はないか?」


俺の言葉に少女は目を瞬かせて首を傾げた。



『協力?彼はただ転んだだけですよ』

「……。」


少女はにこりと微笑む。その笑みをジッと見据えて少女を観察した。だが、特に何も感じない。如何見てもただの普通の少女だ。


「(俺の思い過ごしか?)」


あの動きは並の者では不可能だ。それをこんな少女が大の男相手に軽やかに出来るものか。見間違いだろうか。迷惑製造機の所為で疲れているのかもしれない。俺は眼鏡をくいっと上げて身を引き締めた。


『もういいですか?先を急いでるので』

「嗚呼」


そう云って去って行く背中を見据え、俺は振動する携帯をポケットから取り出す。タップして耳に当てれば、聞こえてきた第一声が「やっほ〜国木田君!強盗犯には追いついたかい?」という呑気な声。額の血管が浮き出るのを感じながら俺は電話越しの同僚に向かって叫んだ。


「奴なら地面に伸びている!貴様こそチンタラ走ってないでとっとと来い!!この懶太郎が!!」

「わあ!その渾名懐かしいねぇ」

「黙れ!」


同じく犯人を追いかけている途中で姿を消した太宰には今日も俺の完璧な予定を狂わされている。




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