第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう
「ハッ、ハア、ッ、ハッ」
男は暗い道を走っていた。
額から汗を流しながらただひたすらに走っていた。
その顔は恐怖に歪んでいる。震える脚を動かし、枯れる喉で息を吐き出しながら何かから逃げていた。
脳が支配する感情は恐怖。
脚が重い。道の先には一点の光もない。
だが、走らなければ。逃げなければ。
でなければ捕まる。捕まってしまう。
疾く、疾く、疾く。
そうしないと、自分も仲間のように“アレ”に捕まって、呑み込まれるぞ。
先刻まで隣にいた仲間のように。
一瞬で、やられる。
「いやだッ!誰か助けてくれ!死にたくない!」
助けを乞う男の背後に得体の知れない影が蠢いた。
黒服の男は背後を振り返る。
その瞬間、男は暗く深い恐怖に沈んでいった。
***
「んー…、これで8人目か」
赤い洋燈が灯る此処、幹部会議室で森は手元の書類を眺めながらそう呟いた。今、この場にいるのは森、紅葉、そしてルナの3人。
「そのうちの二人は
「だろうねぇ」
書類を机に置いて手を組んだ森。ルナは森が置いたそれを手に取り文字を目で追う。
『異能力者の仕業?誘拐屋とかの』
「可能性はあるだろうね」
「じゃが、
「少し調べる必要がありそうだ。ルナちゃん、行ってくれるかね?」
書類から目を離してルナは森に目を向ける。そして、『今から?』と首を傾げた。森はその言葉に頷く。何故、ルナがそんな事を訊いたのか訳があった。ルナは一度扉に目を向け、そして、もう一度森に視線を戻す。
『私が離れてもいいの?もう直ぐアイツが来ると思うけど』
「いいんだよ。彼もこんな処では手出ししてこないさ。彼は慎重な性格だからねぇ」
首領がそう云うのならとルナは立ち上がり、『じゃあ、行ってきまーす』と片手を上げて部屋を出た。
会議室を後にして、ルナは顔を顰めながら廊下を歩く。
『(慥かに首領の云う通りだし、姐さんもいるから大丈夫だと思うけど…)』
どうも気に喰わない。
ルナは前方から歩いてくる男を静かに睨み付けながら顰めた顔を更に歪めた。それはもう嫌悪感がダダ漏れな程に。
「おや。これはこれは首領専属護衛様ではないか。久し振りだな」
燕尾服を着たツリ目のこの男は五大幹部の一人、
「幹部の私でも君と逢う機会は少ないからな。この素晴らしい日に逢えて光栄だよ」
『……。』
睨み付けるルナを気にする事なく彼は詐欺師のような笑みを浮かべたままルナに近付いていく。身長が低いルナは目の前立ったAを見上げる。胡散臭い笑みを絶やす事なくAはルナの瞳を見つめた。
「いつ見ても君の瞳は宝石のようだ。普段は隠しているその右目も嘸かし美しいのだろう。なのに、私の手元にないとは全くもって勿体ない。だから、どうだ?私の部下にならないか?そうすればもっと君の価値が上がる」
『はっ、部下?奴隷の間違いでしょ』
「いいや。私は仲間思いだから、部下は私の命令に従うんだ。首輪を着けて従順にな。君も屹度、首輪が良く似合う」
Aはにやっと笑ってマフラーに隠れた細い首に手を伸ばした。
「触んじゃねぇよ」
だがその時、背後から強い殺気を感じた。Aは背中に冷や汗を垂らして後ろを振り返る。そこには鋭い眼光を光らせた中也が立っている。Aはパッとルナから手を離して肩を竦めた。
「やれやれ、怖い
逃げるように去っていくAの背中を睨み付けて中也は舌打ちを零す。
「チッ、あのペテン師野郎」
Aの背中が見えなくなる迄睨み付けた中也はくるっと視線をルナに向けてズンズン近づいて来る。如何やらお怒りのようだ。それを私に向けられても…、とルナは眉を下げた。
「大丈夫か?ルナ。どっか触られてねぇだろうなァ」
だが、その雰囲気とは打って変わった優しい手つきでペタペタとルナの頬や肩を触っていく中也。眉は思いっきり顰めているが。そんな中也が可笑しくてルナはクスクスと笑う。中也の眉間が濃くなった。
『大丈夫だよ中也。一寸だけだから』
「一寸触られてんじゃねぇか!オイどこだ!」
『いやいや。ほんの一寸、ほんとにちょこっと…』
「……。」
『…指先が首に』
中也がジトーっと見てくるものだからその目の圧力に負けてルナは正直に云った。本当に少しだ。蚊に刺されたより、塵一つ触れたぐらいに一寸。だが、中也はそれでも許せないらしくルナのマフラーを無理矢理ずらす。
『ちょっ!中也!』
「あのペテン師野郎、逢う度に手前にちょっかい出しやがる。五大幹部の端くれじゃなけりゃ捻り潰してやったのによォ」
『く、擽った、ぃ』
晒された首に中也の息がかかりルナは身を捩る。いつの間にか壁に背中を預けていたルナ。中也はそんなルナの首筋に顔を埋めて唇でそこに触れた。
『で、でもほんとに一寸当たっただけで私は何とも』
「うるせぇ。黙って消毒されてろ」
『(しょ、消毒って…)』
ちゅっ、とリップ音が耳の傍で鳴る。ルナは顔を赤くして中也の服を掴んだ。その直後、チクリと微かな痛みが首に刺さる。
『んっ』
ゆっくりと中也の唇が離れていってルナは小さな痛みが走った場所に手を当てた。そして、目の前にいる中也を見つめる。
『今、つけた?』
「嗚呼。悪いかよ」
『悪くないけど、私これから任務なんだよね』
ずれたマフラーを直しながらそう云ったルナに中也は「どうせマフラーで隠れんだからいいだろうが」と襟足を手に置いて歩き出す。
『中也もこれから出張任務でしょ?何日か掛かるって聞いたけど実際どれくらいで帰ってこれるの?』
「向こうの状況にもよるが2、3日程度じゃねぇか」
『2、3日…』
2、3日も逢えないのかとルナは中也の隣に並んで歩きながらしょぼくれる。あからさまに気分がどんより落ちたルナを横目に中也は小さな頭に手を置いた。
「出来るだけ早く片付けてくっから。な?」
『…うん』
「それより手前も任務なんだろ?急だな。何かあったのか?」
『んー、行方不明者探しってとこかな?まあ、直ぐ片付くよ多分。だから、中也!絶対早く帰ってきてね!怪我しないでね!』
中也が任務に行く前はいつもルナは不安そうな顔をする。本当は一緒に行きたいだろうに立場上それが出来ないルナ。そんなルナに心配かけない為にも中也は優しくルナの頭を撫でた。
「帰りに土産買ってきてやる。だから、安心して待ってろ」
『うん、判った。待ってるね』
笑顔が戻ったルナを見て中也は微笑んだ。
辿り着いたエントランスで二人は立ち止まる。
『じゃあ、私先に行くね』
「嗚呼、気を付けろよ」
『それはこっちの台詞だよ中也。行ってきまーす』
手を振って駆けて行くルナ。任務なのにまるで遠足に行くみたいだなと中也は苦笑を零した。そして、自分も出張の準備をする為踵を返す。
しかし、何を思ったか。
中也はふと後ろを振り返った。
それは本当に無意識で、何となくだった。何となくもう一度ルナの姿を見ておこうと思ったのかもしれない。
だが、外に出て行ったルナの姿はもう其処にはない。
「……。」
何故、そう思ったのだろう。
また、数日後に逢えるんだ。
自分にそう云い聞かすように中也は今度こそ踵を返した。