第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう





ポートマフィア拠点、或る一室。


『あっはははは!』


腹を抱えて大笑いするルナの声が響いていた。


『なっにその楽しいオチ!しかも、恋文作戦って!あっははおもしろぃ!あはは』

「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですかぁ」


大口を開けて爆笑するルナの前で樋口は小恥ずかしさから頬を染めながら口を尖らせる。


『あはは、ごめんごめん。ていうか樋口ちゃん知らなかったんだね。銀ちゃんが龍ちゃんの妹だって事』

「は、はい。本当に驚きました」


つい先日、樋口はその事実を知った。芥川に妹がいる事。そして、それがまさかの部下である銀だったという事。ポートマフィアでありながら個人的な事情で武装探偵社と共に黒髪の女を探し追い詰めた樋口。そこで発覚したその事実。敵組織の間者だの恋文だの妹だの。あの日は濃い一日だったと樋口は溜息を吐き出した。


『でも、よかったね樋口ちゃん。恋する乙女もこれで一安心かな』

「コッ!ち、違います!私は部下として上司である芥川先輩をお慕いしているだけで!こ、恋などと!」

『あーはいはい。素直じゃないんだから』

「うぅ…」


どうもこの手の話題を振られると樋口は冷静さを保てないらしい。だが、これはいい機会だと樋口は思った。普段中々ルナとは逢えないが、歳は近いし何より樋口がお手本とすべきと思っている女上司なのである。実力は勿論、恋愛においても。まあ、樋口が勝手に思っている事なのだが。


「ルナさんは如何なのですか?」

『何が?』

「もし、他の女性が中也さんと逢引している処を見かけたら」

『え?殺すよ』


にっこり笑顔である。


「(ルナさんの“殺す”は笑っていても凄みがあるな…)」


少し下がった部屋の温度に身震いして樋口は何とか話を戻そうと試みる。


「な、何はともあれ敵組織の間者でなく本当に良かったです。逢引現場を見た夜は先輩が女刺客に誑かされる悪夢を何度見た事か…」


思い出しただけでもげっそりだ。同居している妹に心配させる程に。


「(ん?いもうと?……はっ!)」


樋口は気付いた。口許を押さえて心の中で飛び跳ねる。自分は妹がいて、芥川にも妹がいる。思わぬ処の“共通点”。若しかしたらこれからは妹繋がりの話で会話を弾ませられるかもしれない。樋口は心の中でガッツポーズをした。


『私、あんま夢って見ないんだよね』


唐突なルナの言葉に樋口は我に返った。


「そうなのですか?」

『うん。だから、初めて夢を見た時なんて現実なのか夢なのか判らなくて戸惑ったのを覚えてるよ』

「初めて夢を見た時?ルナさんて記憶力もいいんですね。私は何時初めて夢を見たとか覚えてませんよ」

『うん、普通はそうでしょ?でも、私が夢を見るようになったのは中也と出逢ってからだから』


ルナさんてやっぱり不思議だ…、と頬杖をついて話すルナを見据えながら樋口は思った。今の云い方だと中也と出逢う前は一度も夢を見た経験がないと云う事。夢は誰しもが見るものだと思っていた樋口にとってルナの言葉の返しが上手く見つからなかった。


『今でもそう。夢を見た時、その夢があまりにもリアルだから今見ている夢と現実の境が判らなくなるの。あ、そうそう!一番最近に見たのは中也が帽子になっちゃう夢なんだから!可笑しい夢でしょ?元々小さいのに』

「あ、はは」


樋口は乾いた笑いを漏らした。しかし、無理に上げた口角はピシッと固まる。ヘラヘラと笑うルナの背後に立った影。額に血管を浮き上がらせてルナを睨み下ろしていた。


「る、ルナさん。あの…」

『えー?何?』

「…うしろ」


目を逸らして樋口はポツリと呟く。ルナは頭を後ろに倒して背後を見た。だがその直後、鼻を掴まれてフガッと変な声が出る。


「だっれが元々小さいだァ?人の事云えねぇだろうが」

『いひゃい』


小さな鼻を摘んだまま中也はへらっと笑うルナを見下ろす。指が離れた事で鼻に空気が通り過ぎるのを感じたルナは赤くなったそれを摩りながら中也に向き直った。


『今ね、樋口ちゃんと夢の話してたの。前に見た中也が帽子になっちゃった夢』

「嗚呼、俺もよォーく覚えてるぜ。朝飛び起きたと思ったら帽子に向かって俺の名前叫んでやがったよな手前」


思い出してみれば慥か……、


『ぎゃあ中也ぁぁ!中也が!中也が帽子になってる!やっぱり夢じゃなかったのね!?』

「夢だ莫迦」



と、頭を叩かれた。それでも夢と現実がごちゃごちゃになって結局一日中、中也の帽子に向かって中也の名前を叫んだ気がする。


『大丈夫だよ中也!私、いつか本当に中也が帽子になっても中也のこと大好きだからね!毎日ちゃんと被ってあげる!』

「嬉しかねぇんだよ。莫迦にしてんだろ」


樋口はそんな二人の会話を聞きながら自分は空気になる事を努めていた。如何して中也が此処に来たのだろうかと少し疑問に思ったがその訳をタイミングよくルナが訊く。


『てかさ、中也何しに来たの?』

「あ?…嗚呼。手前の莫迦笑いが聞こえたもんでな」

『ん?何か用だった?』

「違えよ、確認しに来ただけだ。樋口ならいい。邪魔したな」


暫く樋口は中也の言葉の意味が判らなかった。何故自分の名が出てきたのかも。ルナは判ったのだろうかと背を向けているルナに目を向けた樋口。丁度、くるっと振り返ったルナの顔が見えた。


『へへ、中也ったら』


はにかむような笑顔が可愛らしい。


その笑みを見て、樋口は理解した。ルナの笑顔の訳、そして、中也が先程云った意味。


中也はルナの楽しそうな笑い声が聞こえたから来た。誰と話してルナが笑っているのかを確認する為に。もし、相手が樋口ではなく、男の構成員なら屹度……。


「(愛されてるなぁ、ルナさん)」


嬉しそうに頬を緩ませるルナの笑みを見つめて樋口も温かい気持ちで目を細めたのだった。







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