第一章 虎穴に入らずんば虎子を得ず
晴れやかな昼刻。
「ちょっとリンタロウ!遅い!」
「あ、あ、ちょっと待っておくれエリスちゃあん」
金髪の長い髪を揺らす幼女が頬を膨らませて怒る。そんな幼女に締まりのない顔をしながら白衣を着た中年の男が後を追った。そして、そんな彼の背中を溜息を吐きながら追いかけるルナ。彼女は頭に被る帽子を鬱陶しそうに直した。それは外に出る前、森にこれを深く被っていなさい、と云わた物だ。つまりは変装しろと云うことなので、ルナは長い髪を帽子の中に隠して目深にそれを被っている訳だ。
「あれ?何処に行ったのだい?エリスちゃん!エリスちゃあん!」
『ちょっとボ…じゃなくて森さん。あまり離れないで。護衛し難い』
どうやらエリス嬢を見失ったらしい首領。あの一瞬で消えるとは恐ろしい子である。そして、泣きながら幼女を探す中年の後を追いかける私の身にもなって欲しいものだ。周りの視線が痛いから。
ここ最近、
そんな私の心配を余所に駆け足になりだした首領。仕方なくその後を追っていれば、叫びながら走ってきた橙色の髪をした青年に首領が突き飛ばされたのが視界に入る。『おお、マジか』 と思わず声が漏れてしまった。
『森さん、だいじょ』
「大丈夫ですか!?」
私が云う前に駆け寄ってきた少年が首領に近づく。
あれ?この少年は……。
ルナがそう思った次の瞬間、景色が変わった。大通りの街並から一変して、不思議な空間へ。そこはリボンや贈呈品箱、風船、ぬいぐるみと云った可愛らしい物で埋め尽くされていた。
『(組合の異能力者か……)』
その部屋に佇み笑顔で此方を見ている赤髪の女が一人。
「ようこそ、アンの部屋へ」
楽しそうに笑った彼女はペラペラと話し出す。そして、彼女が何かに呼びかけた瞬間、大きな手を持つ気味の悪いモノが現れた。その恐怖に一般人が扉から次々と出て行く。気づけばこの部屋に残ったのは四人だけとなった。
「此処は危険です。逃げた方がいい」
「女の子を捜しているんだ。天使のように可愛い子なのだよ。何処かで見なかったかな?」
森は写真をペラリと出して敦にそれを見せて問う。だが、「いえ、残念ながら」と云う敦の言葉。そんな二人の会話を聞きながら、何でそんなモン持ち歩いてんだ、とルナは云ってやりたくなったがここは堪えた。
よろよろと立ち上がった森はその写真を見つめて更に続けた。
「エリスちゃんと云う名でね。もう目に入れても痛くない位愛らしいのだよ。あ、本当に入れたら少し痛かったがね」
入れたのかよ、と心の中で又もや突っ込むルナ。
奥の扉にいるかもしれないと心配の眼差しを向けた森はこの部屋に残る事を敦に伝えた。そんな森の決心を受け止め、敦は頷いた。
**
『首領、彼等だけで勝てるの?』
「
『はぁ、そんな事云って負けちゃったら如何するんですか?此処じゃイヴ呼べないから、殺るなら早めに殺りたいんですけど』
鬼ごっこを始めた彼等を少し離れた所で傍観しながら話す森とルナ。既に探偵社の一人はアンと呼ばれたものに捕まり、敦だけが虎の異能を使って逃げ回っていた。
そんな不利な状況にいる敦は更に追い詰められる。扉の鍵だと思ったソレは偽物で、彼等には最初から勝ち目がなかったのだ。
その事に気付き絶望した敦は出口へと走り出す。だが、そんな敦を森が敦の首に引っかかっていたリボンを引いて止めた。
敦に助言してやっている森の陰に隠れてルナは彼を見据える。白髪の切り揃えられていない髪が特徴的な細身の少年だ。気弱そうな面持ちで本当にあの芥川を倒したのか、と疑ってしまう。
そして、森の言葉を聞いて決心がついた彼の表情は先程よりいい顔をしていた。しかし、再び勝負に挑もうとした彼に襲いかかるもう一体のアン。彼はそれに捕らえられて扉へと引き摺り込まれて行ってしまった。
「はい、おしまーい!」
手を叩き嬉しそうに笑った彼女。その達者な口は止まらず又もペラペラと話し始めた。
「それで、おじさまとそこのマフラーの貴方ははどうなさるの?おじさまの言葉のおかげで虎の彼に逃げられずに済んだわ。だから、感謝の印に見逃してあげてもいいわよ。それとも、おじさまがアンに捕まった時の顔を見てみようかしら」
「試してみるかね?」
その瞬間、モンゴメリの体が凍ったように動けなくなり、脚が震え上がった。どろりと体に纏わり付くような空気、__殺気だ。それは森から発せられるものだけではない。先刻まで森の陰にいたが、今は森の前に立っているルナからも発せられていた。
少しでも動いたら心臓を抉られるかのような恐怖を覚えたモンゴメリ。彼女の頭には警報が鳴り響き、声を出す事も儘ならない。
此奴等は何者なの?
「無理だな。何故なら君は既に負けている。ドアを見るといい」
恐怖を感じる中辛うじて聞き取った森の声にモンゴメリは恐る恐る扉の方へ振り返る。扉の残像が揺れながらはっきりとしたそこには、扉の縁を掴み腕力だけで吸い込まれるのを耐えている敦の姿。その信じられない光景にモンゴメリは目を見開いた。そして、敦はモンゴメリに繋いでいたリボンを引っ張り彼女を同じ場所へと引き寄せ、異能を解除するかこのまま共に引き摺り込まれるかを問うた。
敦が手を離した瞬間、決着は付いたのだった。
クラクションの音が響いた。
『あーぁ、森さんの所為で飛んだ無駄な時間を』
「あああっエリスちゃあん!」
『聞けよ』
愚痴を零すルナを余所に森は漸く見つけたエリスに駆け寄り泣きながら叫ぶ。
「大丈夫だったかい?何処に行っていたのだい?心配したのだよう突然いなくなるから」
「急に消えたらリンタロウが心配するかなと思って。リンタロウを泣かせたくなった」
「非道いよエリスちゃん!でも、可愛いから許す!」
ハァァ、と長い溜息を吐いたルナはそんな二人から視線を離した。ルナが視線を向けた先には敦に駆け寄った和装の少女の姿。
「それでは私達は失礼するよ」
いつの間に泣き止んだのやら。森は先程敦に助言したような面持ちで敦に声を掛ける。二人が話す様子をルナは森の陰に隠れて見据えた。
「アドバイス有難う御座いました。そう云えばお医者さんなのですか?」
「元医者だよ。今は小さな寄合の仕切屋中年さ。少年、どんな困難な戦況でも必ず理論的な最適解は有る。混乱して自棄になりそうな時ほど、それを忘れてはいけないよ」
ではでは、と手を振って背を向けた森。彼の言葉で一つ学んだ事を記憶に刻み込んだ敦はふとまだそこにいた人物に目を向ける。此方をジッと見ているその人物に敦は、あれこの人…、と記憶を辿って白衣の人と一緒にいた人物だと思い出す。
『ふっ。じゃあね』
そう云った彼女の顔は目深かく被った帽子によって分からなかったが、その桜色の唇が弧を描くのを敦は見た。
白衣の男の後を追って緑色のマフラーを揺らしながら去っていく背中を見つめる敦。そんな敦の腕に震える手が縋り付いた。
「鏡花ちゃん?」
膝から崩れ落ちた鏡花に駆け寄った敦が声をかけるが、恐怖に支配された彼女の耳には敦の声は届かなかった。
何故?何故、此処にいるの?
『殺しに躊躇いは不要。
さあ、刃を持ちなさい鏡花ちゃん』
**
「楽しい一時だった」
『私は何か疲れた』
騒つく大通りから外れ静かな路地裏の道を歩く森、ルナ、エリスの三人。人気のない道には三人の靴音が響き渡る。
「私も童心に返って異能で敵をばっさばさと遣っ付けたくなったよ」
陽気にはっはっはっと笑う森に対して、「中年には無理」と辛辣な言葉を浴びせたエリスに森は「ひどーい」と返す。
「私は之でも__」
視界が開けたその場には光が射していた。殺気が包むその場にはいたのは黒服を着た男達、黒蜥蜴、梶井基次郎、そして中原中也。彼の前には手脚が通常では曲がらない方向に折れ曲がった死体が血溜まりの中に浮かんでいた。
その場にいた全員の鋭い視線が森とルナに向けられる。ルナが目深に被っていた帽子を取ればそこに隠れていた彼女の美しい髪がふわりと靡いた。
空気に糸を貼ったような緊張感が漂う中、中也は帽子を取りそれを胸に当てる。
そして、その場にいた全員が森に跪いた。
森は怪しげな笑みを浮かべ、足を進める。地面に転がっている死体の横を通った時、森は「これが組合の刺客かね?」と問うた。その問いに跪いたまま厳格な声で「はい」と答えた中也。
「探偵社に組合。我々も又困難な戦局と云う訳だ」
そして、中也の横を通り過ぎてその歩みを止めた森は振り返る。ルナは跪いた儘森を見上げた。その顔には先程迄の町医者の面影はない。冷酷な瞳を怪しく光らせ、彼は自身の前髪を後ろへと掻き上げた。
「組合も探偵社も敵対者は徹底的に潰して、殺す」
ポートマフィア首領森鴎外。
彼が戦いの盤上に置く駒は果たして____。
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